アンコロン・アン・ワガタ

てると

陰謀論、或いは10年代の想像力―アンコロン・アン・ワガタ―

 帰省した。本当は死ぬほど帰りたくなかったが、一回は断ったのだが、父親が網膜剥離を起こして手術とかで、泣き声で留守電を入れてきたのである。曰く、「もう仕送りを止める」と。そうして、僕は帰った。


――――


 羽田空港から二時間で福岡、そこから「昭和バス」で一時間、九州北部の玄界灘沿いに面するこの街は、人口十万の地方である。

 バス停を降りて、徒歩で三分、歩く途中に、早速、一年前にあったボウリング場が潰れ、その向かいの病院もなくなっていることを知る。

 実家。築五十年、木造。

 玄関でチャイムを鳴らすと、父が出てきた。



 早速二階の突き当りにある子供部屋―自室—に向かい、荷物を置く。無期限の帰省だったので、長くなっては困ると思い、東京の自室から、哲学書や小説など本を十冊。大荷物となってしまった。

 持ってきたノートパソコンを定位置だったところに設置して、持参した『少女終末旅行』というアニメのグッズであるマウスパットを敷く。ペットボトルのコーヒーと水を勉強机の右上に置く。自分スペース、完成。

 その日は、適当に本を読んで過ごして、寝た。


 翌々日、父が手術に旅立った。昭和バスで、福岡に。その眼科は、僕も小学二年生の頃から通っていた馴染みの眼科である。

 なにぶん僕は生来の発達の問題や内斜視の問題などを抱えていたので、父親はよくそれについて怒った顔でことあるごとに僕に、「いくら金掛かったと思うとるとか」と言ってくる。知ったことではないが、僕はこの父親には逆らえないので、「あー」と深刻そうな声を出してやり過ごすのが習慣になっている。

 小学二年生から、というのも、それまでは、母親がまだ父親から離婚で逃げ出す前だったので、その母親が、べったりの僕を、昭和バスではなく赤い電車で、「筑肥線」で、福岡こども病院に連れて行っていたのである。こども病院は当時、この街からもそう遠くない福岡の「唐人町」にあった。唐人町、こども病院、そして、その後に母親と僕のお楽しみだった天神地下街は、とてもうれしかった記憶が未だに残っている。バスは嫌いだったが、母親と乗る電車は何よりも大好きだった。特に、県内を走るディーゼル車よりも、福岡に続く電車が、好きだった。周りは僕の発達の問題を隠していたが―それがのちに「認識」と「誠実」への強固な意志を産む母となるのだが―、僕は言語化しなくとも、自分がおかしいことを、自分と「自閉症」の関係を、内的によく「知っていた」。自意識があったわけではないが、「よく知ってる」という状態だったから、療育に連れられて行くときも、感じていたのである。それもいい思い出なのだ。僕は、こんなことを思い出しながら、父の手術をさして重く見ない。


 父が手術に行ったので、早速、地元の、県立の、「全県募集枠」という枠を新設されることで存続した、僕が引きこもりを脱出するにあたり入学した厳木高校でできた、「一般枠」入学の友人に連絡を取り、会うことになった。

 水曜日、曇り。風が強いが、徒歩十五分ほどの中心の駅に向かい、友達を待った。LINEで応答して、音楽を聴きながら、持病の二次障害の予期不安が気にかかりながら(こんな自己言及的な事態もうまく表現できる仕組みを備えていない言語を、僕は信用しない)待っていると、友人が現れた。

 早速、駅にあるとんこつラーメンの店に入ることになった。久しぶりのとんこつラーメンを食べ、満足したところで、とりあえず地元専門のスーパーに行くことになった。そのスーパーは、元々は中心部にデパートを持っていたり、その後は郊外にテナントの入る建物を持っていたりもしたので、地元民にとっては特別なスーパーなのだ。

 そうしてとりあえず、友人の趣味であるワインを見た後に、店内を見て回り、店を出たので、僕は希望して、引きこもりの頃から高校時代によく通った、バイパス沿いのブックオフに入った。

 たんなる帰省であることだし何も買う予定はなかったのだが、当初東京暮らしでできあがった地方蔑視の現実性と比べてよほど品揃えのよかった学術書コーナーに感動し、漫画コーナーで存外の「文化」を見せつけられ、思わず、かつて親しんだ日常系漫画を何点か買った。僕にとっては、未だにこれ、「日常系」というものが、或いは「百合」が、或いは「まんがタイムきらら」が、或いは「京都アニメーション」が、「僕の選んだ」、しかも「僕たちの」、文化そのものなのだ。(友らよ!アーメン!そうだろう!)ちなみに、僕がヒポコンデリーからの回復期で、まだまだ不安の強かった、哲学科進学のための高校再挑戦の時期に、れいのその友人からの「関係から」取り入れた漫画は、「鬼滅の刃」だった。二人して共通の知人をごまかして、あの映画を二人で観に行ったことをよく覚えている。その頃の僕のしぐさ―言動―を観察して、僕がお世話になっていた保健室の女性教諭は、僕に対して「女の子みたい」と言っていた。僕は、最初は母親からだったが、人生の折に触れて思い出したように、いつも誰かから「女」ということを指摘される。(自閉症は男性的なのではなかったのか?)


 さて、友人と、ブックオフを出て、再び駅の方向に向かって歩いたが、そこで僕たちは、この街の、或いはこの街は一つの藩をなしていたので、一国一城の、お城の天守に向かうことになった。


「川だ、懐かしいな」

「とりあえずお城に行くかあ」


 この友人、いつも僕の前では笑顔でふわふわしているのだが、最近ついに僕の影響で「聖書」を購入して熱心に読み質問をしてきたりするし、また、高校時代にいつも何の気なしに一緒に帰るときには、いつも、橋の上を歩くと、足を止めて、川を見ていた。


 観光用の河口の橋を渡り、城に着く頃には、僕はすっかりかつての時間を生きていた。「偽天守、昭和バス、左翼のラーメン屋がこれを指摘していた(知る限りこの左翼のラーメン屋という変数は、僕の中では地元の「様式美麺れいんぼー」と東京の「どうげんぼうず」くらいである)、これをある腐女子アニメが『忍者屋敷』と表現していたことも存外?その頃僕は従姉妹のお姉さんが好きだったのだ、ああ、おそ松さんが流行っていた頃だった、僕は失恋したからゲーテの『ウェルテル』を買って、地元のTSUTAYAに深夜に走り、そしたらあったので、ああ、だから、友情路線に転向して、哲学科に赴くべく高校に入ったのだ、僕は首尾一貫しているのではないか?ゲーテが?従姉妹のお姉さんがスカイプのアイコンにしていた『モルフォ蝶』が?『ひぐらしのなく頃に』でも『東京』が?ところで従姉妹のお姉さんとは、母の法事の後に二人きりであの母方の親族たちを離れ、『太宰治』だの『NHKにようこそ』だの『レヴィストロース』だのの話をしていた気がする、あれはちょうど三月のことだったと思う。最近僕に彼女ができて、あのTwitterの『20↑』のことを教えてもらった。……女は怖いぞ、死期を早める。僕が渋谷でちいかわグッズの鑑賞に付き合ったにも関わらず、『帰るね』などと行って本気で帰りやがった全身黒服の地雷女のために僕はあろうことか『三鷹送り』になりしばらく監禁されることになったのだ。『自由を!青草原を!』(『HUMAN LOST』より)……」


 こんなことどもをでたらめに想像しながら、僕は天守への階段を友人と登っていた。そして、街と海と島を眺めた。


「俺子供の頃連れられてくるとお城ってだけであんなに特別なワクワクがあったのに、もうワクワクしなくなったな」

「俺今でもワクワクするけどね」

 友人は、大切な感情を失っていないようだった。


 その後、友人が僕の家に来たいと言ったので、快諾して、とりあえず川をぐるりと回り、大きな橋を渡って行くことにした。途中、話題に上った業務用スーパーに十年ぶりに行きたいと友人が言ったので、僕も祖母とよく行った懐かしみを覚えながら入った。

 なぜだか僕は、その業務用スーパーのプラスチックの寿司皿たちに、「サザエさん」を思い出していた。関係のないことだが、かつて自民党の元気な衆議院議員だったハマコーは、「四十日抗争」のおりに、「かわいい子供たちの時代のために自民党があるっちゅうことを忘るんな!」と自己アピールしていた。僕はなぜかそれを思い出して、僕が「かわいい子供たち」の一部なのか「かわいい子供たちの時代のため」に生きるべき人なのかわからなかった。


 そうだ、そうだ、思い出した。従姉妹のお姉さんと僕は、「図書館」の話題で持ちきりだったのだ。要するに、大学を卒業したが一年間司書の資格を取るための勉強とかをしていた彼女には、多少の時間があったのである。僕は当然暇を持て余していたので、「無料の娯楽路線」と称して、図書館や、教会を、「開拓」していた。或いは先の城を出た道路をずっとまっすぐに行くとある「競艇場」が?その真向いの「河畔公園」が?その突き当りで左折して直進し、自動車道に乗らず一車線の下道を行けば見えてくる、懐かしい僕の「半田」の田園が、「宇木」が……すなわち、「農協」が。「世界は一家、人類は皆兄弟、てなことをおっしゃる」なんていうことが書かれた湊地区の農民作家山下惣一のエッセイを、引きこもっていた時に座敷の横の本棚から「発見」したときは宏大な興奮を覚えていた。山下惣一の死は、東京でできた友人に追悼記事を見せられて知った。僕の祖父の商売相手だったのだ。まだ皮肉で済むならいいが、そのエッセイ集のイラストには堂々「福田死ね」と書いてあったので、正当な意味での「確信犯」である。


 友人と業務用スーパーを出た。

 僕は、最近の「米価高騰」の話題を出した。農地改革から続く問題が、兼業が、そして、減反が。この局面で確かに備蓄米は放出されたが、「石破茂」はどう動くのか、というところだ、と思った。ところでしかし、友人は「聖書」を買うことに意気込んでも、僕が日本基督教団のプロテスタントであっても、友人は既にして「カトリック」が好きなのである。それも悪くはない。僕がカトリックに行ったが避けた理由には、一つには仏教期以来の「偶像」ぎらいがあったが、もう一つには、「日本基督教団」がいわゆる「リベラル」であったことが挙げられる。しかし、今の東京での僕の所属教会の牧師は、根っからの「福音」原理主義であり、いわば「御言葉が作動している」ような人であり、言葉に逐一こだわる、トランプの男女論を聖書的に肯定する若造である。東京の友人とやらは聖公会のキリスト者であるが、言葉にこだわるトランプ肯定派である。(僕にとってのキリスト教のインセンティヴは、イエスの左翼的優しさであって、それはむろんマッカーサーの戦後でもあったのに……。)東京の哲学科で出会った鳥取出身の師、河本は、「石破茂は、プロテスタントなので細かい言葉にはこだわらないのです」と言っていた。「ドイツの根本精神」を証した哲学者のシェリングは、日本では「禅宗」を介して受容された。ラディカルなGeistである。しかし、本当にそうか。石破茂がよく言及する「田中角栄」は、その徳を、端的に言って「金」と「アイディア」と「実行力」に持っていた。僕は河本にもそれと同じものを直観したのであった。


 「図書館の権利に関する宣言」に燃え立った時期もあった。「明日の大地に」を聴いていた。僕は忌野清志郎のような魂を好いていたし、坂本龍一も良識があると信じていた。全く同時に、僕は父とは違い「原発」というものを肯定的にも思っていた。だからいろいろな本を図書館で借りて読んだものだと思う。だから、左翼も保守本流も「僕たち」のものだったが、ただ「連中」だけが、つまり、「競艇」が、「日テレ」が、「汐留」が、「お台場」の球体と船が、したがって「戸塚宏」も「籠池」も、どうにも耐えがたいものがあった。山上くんが安倍を撃ったことが、僕の自己表現だった。だから「平岡」くんが「三島」となって死んでいったように?

 最近彼女ができて、その彼女は「吉本ばなな」や「川上未映子」を読んでいる人だった。川上の夫は「阿部和重」であり、彼の『ニッポニアニッポン』は、『NHKにようこそ』や『日本列島改造論』と同時期に読んだ。とても興奮したことを覚えている。ばななは知っていても隆明は知らない彼女だった。


 実家に友人を入れ、部屋に招待した。

 部屋では、僕のパソコンからYouTubeを見たがった。

 見てみると、友人は、ずんだもん解説で「アメリカの実情」といったような動画を流していた。なにかというと、アメリカに理想を抱いても、現実には日本と変わらないような、より悪い因習があり、医療も刑罰もろくなものでもないとか。そして、日本は良かった、と。これは、物分かりの悪い評論家たちが僕たちの時代を「失われた」とだけ言ってしまうことに対する、友人たちのような若者なりの適応だ、と思った。

 そして、北朝鮮とトランプの動画。そういえばこの友人は、高校時代にもこういう趣味があって、ソ連音楽の趣味もあったので、変わっていないなと思った。教養の基本がYouTubeなのだ。自己啓発本も百冊ほど読んだと言っていた。ついに読む気がなくなって聖書を手に取ったのだろう。しかし、そこにも切実さがある。


 そして、友人は帰った。その日は、近所の「スーパーセンタートライアル」で食事を買って食べて、寝た。(トライアルは、僕が小二の頃、ちょうど小泉政権の頃で、ホリエモンがライブドアで大活躍していた頃、スーパーの「寿屋」が潰れた際に、価格破壊を売りに居抜きで入ってきた。寿屋には迷子センターがあったから、僕は子供の頃よくわざと迷子になってそこのお姉さんに優しくしてもらっていたものである。)


 翌日は、また別の約束で、福岡を拠点に「病みライフ」なる「だめライフ」オマージュの活動をしている「界隈」の若者と会うことになっていた。

 雨だったが、駅の改札の近くで待っていると、彼が現れた。眼鏡が丸かった。僕の眼鏡は、長年変えていないが、彼女によると「気の強い女教師」のような眼鏡、だそうだ。丸い眼鏡の彼は、会うなりブックオフに行くことを提案した。


 ブックオフに行き戻ってきたが、行くところがないので駅の近くの喫茶店に入って話した。彼はとても穏やかで、苦しいのだろうが、しかし何かしたい、何かを為したい、という若者だった。その彼の持っていたMacのパソコンには、漫画家の「つくみず」からのサインが書いてあった。僕はブックオフで『生まれてきたことが苦しいあなたに』という本を買っていた。だから、それを机に乗せて、スマホを取り出し、彼のパソコンも収めた写真を一枚撮り、「エンカ」したということを、僕のフォロワー四千人のアカウントに載せた。僕のアカウントのアイコンの魚は、その「つくみず」が描いたスタンプだった。

 その後カラオケに行き、僕たちはまずは「界隈」の音楽を、そして次に僕は「軍歌」を歌っていた。




――――


 父が手術から帰ってきた。ああ、大変だ。父親に従わないといけない。

 父親は、早速翌日から僕を買い物やドライブが一緒になったようなものに連行し、僕を毎日五時間ほど拘束し始めた。


 曾祖母の出身地である炭鉱の跡で、僕は民族の屍を感じていた。つまり、海ゆかば民族の屍、である。曾祖母は、漁業で網元のような地位にあった曾祖父に嫁いだ。僕は彼らが嫌いなのだ。戦前の現実だからである。


 戦後は祖父の時代であり、牛が機械に化けた時代だ。マッカーサーがやってきて、ヒッチコックみたいなサスペンスを起こしてしまったのである。それが「農地改革」でもあり、「日本基督教団」でもあった。それが、言われるように、戦前から日本が自前で構想していたものだった、というのは何の関係もない。現実には、それは「恩寵」だったからだ。おまけで、巣鴨プリズンの釈放戦犯たちにより、異端の新興宗教が導入された。二〇二二年七月八日に、山上くんによって安倍が殺されても、「戦後」はまだ終わる気配がないという事実を、僕たちはどう受け止めて生きていくのか。「終わった」、なんて言えない。実家のテレビで父と見る国会中継では、杉尾秀哉の質問に石破茂が答えていた。山上くんは石破を肯定的に捉えていたけど、こいつはどうしようもない、と思っている。しかし、僕は石破茂を支持するのだ、消極的に。トランプはどうあれ、日本は選択的夫婦別姓をどうするのか、トランプは腐女子を否定するのか、などなどといった思考が錯綜している。


 叔父と飲みに行った。僕は勝手にその叔父のことを「ドゥルーズおじさん」と呼んでいる。若いころに職を辞してアジアに旅立って帰ってきた叔父が、どうもドゥルーズっぽいという意味だった。ドゥルーズはパリから全く動く人ではなかったから、「その場にいるままでも!」と書きつけたように、むしろ僕のほうがドゥルーズっぽいのだが。


 料理屋のカウンターでテレビを眺めながら飲んでいると、NHKの放送百年とかで、音楽に合わせて映像が流れていた。サザンオールスターズの桑田が、「日本の夜明けは暗い でも先人は凄い」などと歌っていた。確か、手塚治虫や坂本龍一が映っていたと思うが、妙に印象に残っている。そして、歴代の連続テレビ小説として、祖母が終生好んでいた「おしん」や、父が好んで見ていた宮藤官九郎の「あまちゃん」が映し出されていた。僕は、引きこもってまとめブログを運営していた時期に、父が「あまちゃん」を見た後に、父に誘われて山村や廃村を見にドライブに行っていた。それがその後の原点となった。


――――


 父は、数年前に仕事で、山下惣一の弟と話したそうだ。曰く、「惣一は兄弟の中でも『違った』」そうだ。あの程度の作家でも、周りとは、出来が、「違った」。僕は、そうすると例えば「阿部和重」などはどれほど「違う」のだろうかと思うが、そうだとすれば僕もその意味で「違う」のかもしれない。


 みんな死んでいって、あとは父と僕だけだが、僕だけに、彼らの生霊は、まだ、生きて作動する<霊魂複合体>―—<陰謀論>

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