夢と煙。
豆ははこ
卒業式と、煙と、今。
あの夢を見たのは、これで9回目だった。
わたしは起き上がり、ベッドの上に座り直して、あの夢のことを考える。
夢の内容。
それは、忘れず、忘れられないこと。
高校の、卒業式。
あたしは、大好きな先生に、告白した。
「あたし、先生のことが好きです。ほんとうに、です」
「ありがとう。でも、ごめんなさい」
大好きな、先生。
優しくて、保健便りの字が丁寧な、保健室の先生。
見せてくれたのは。
薬指の、指輪。
「今日で、皆が卒業するから」
指輪。そして、先生の、大切な人。
先生のことを思う卒業生全員の気持ちを思って。
秘密にしていたのだ。
そう、感じた。
「話を聞いて頂いてありがとうございました。先生、握手してもらえますか」
「もちろん。こちらこそ、ありがとう」
差し出された手。
大好きな先生の手。
大好きな人の、手。
触れられて、嬉しい。
だけど、指輪にだけは触れたくない。
そう思った。
握手を終え、礼をして、先生のところから離れた。
離れて、離れて、離れて。
見えなくなるまで、涙は、我慢した。
あたしが泣き出したら、夢は、おしまい。
「この夢見るようになったの、やっぱり、
大学に進学して。
あたし、はわたしになって。
卒業式で、大好きな先生に失恋はしたけれど。
憧れの人には、変わりなくて。
先生と同じ仕事。
保健室の先生になった。
「まさか、生徒から、おんなじ言葉、言われるなんてね……」
たまらなくなって、チェストの上の箱から、煙草とライターをまとめてつかんでベランダに出た。
箱の名前は、一服箱。自宅だけの、
そして、私が住むのは、今どき珍しい、ベランダ喫煙可のマンション。
大家さんがヘビースモーカーで、これまた珍しい、嫌煙家お断りのマンションだ。
少し古くて、壁紙が黄色い。
保健室の先生としては、よくない。
分かってる。
だから、勤務中はもちろん、通勤中も吸わない。
「それならやめられるんじゃないの」
喫煙者の友人からはこう言われるくらいだ。
それはそれ、だ。
「……今日こそ、断ろう」
本気なのだ、と。
分かるからこそ、だ。
そう、あの子に。
煙草を一本だけ吸って、煙を思いっきり堪能する。
口にした決意も、一緒に吸うつもりで。
「先生、おはようございます!」
朝、昼休み、放課後。
先生と保健室で過ごす時間を確保するために、保健委員の委員長になる。
……わたしもやったなあ。
あたし、の頃に。
同性だから、とか。
女子高ゆえに、とか。
大人への単なる憧れ、とか。
そういうのを理由にして断るのは、なし。
そう、決めていた。
誰か、じゃなくて。その人を。
それが、分かるから。
「はい、おはようございます」
だからこそ。
今日は、今日だけは。
いつもは持ち歩かない、煙草の箱を彼女に見せる。
「あのね、先生のことを好きになってくれて、ありがとう」
「どういたしまして、じゃ、ないですね。お礼なんて、私が言うべきですよ。私が先生のことを好きになったんですから」
「ううん、ありがとう。でもね」
「なんでしょうか」
「……先生ね、喫煙者なの」
先生、を強めに言う。
「え」
動揺してる。よかった。
このまま、わたしのことを好きな気持ちを、なくしてくれたら。
保健便りの字が好きです。
私の、だけじゃなくて、皆の話を丁寧に聞いてくださるところが好きです。
好きです。好きです。好きです。
……全部、あの頃のあたしも、知ってる、知っていた、好き。
だからこそ、きちんと断ってあげなくちゃいけない。
そう、先生なんだから。
やっと、分かった。
あの頃の、先生の気持ち。
高校生と、先生。
「ね。先生は、わたしは。保健室の先生として、あなたに尊敬してもらえるような人じゃないの」
「でも、仕事中には吸ったりなさらないじゃないですか」
「あたりまえでしょう?」
それは、あたりまえだ。
「そういうところも好きです」
「え」
……あれ?
「いやいやいや、ここは、先生がそんな人だとは思いませんでした! でしょう?」
「なぜですか。先生の白衣のポケットには、煙草の箱以外入っていません。しかも、未開封。つまり、私に見せるために、ですよね。喫煙者でいらしたとしても、先生がご自宅で喫煙をなさることまで咎める権利は、ありませんから。むしろ、きちんと公私を分けていらっしゃいますよ。もっと、好きになりました」
きっぱり、はっきり。
私は、あなたが好きです。
委員長の目は、そう言っていた。
夢で見た、あのあたしは。
こんなふうに、先生を見ることができていたのだろうか。
やっと、分かった。
あたしが大好きだった先生は。
わたしと同じように、生徒にあきらめさせたくて、あの指輪を用意したのかも知れないことが。
新たな門出に羽ばたく、もしかしたら、あたしのほかにもいたかも知れない、先生のことを好きな全員が、心おきなく羽ばたけるように、と。
でも。
あのとき。
ほんとうに誰かと結婚とか、お付き合いとか、されているんですか、と、訊けたら。
……訊いていたら?
どうにか、なっていたのかな。
「……なんで、先生、泣いてるんですか」
なんで。
「……あれ、なんでかな」
分かってる。
あたしは、この子……委員長のようには、できなかったから、だ。
あの頃の先生への思い。あたしの気持ち。
あれが、偽物だなんて思わない。
でも、きっと。
委員長は、薬指に指輪を付けたわたしにも、訊くのだろう。
お相手は、どんな方ですか、と。
きっと、わたしは用意した設定どおりに伝えるのだ。
そして、それをまた、論破されて。
お話は、それだけですか。
そう言われてしまうのだろう。
「それだけですか? なら、先生に私を好きになって頂けるように、これからも頑張ります。では」
一礼して、現実の委員長は、出て行った。
それだけ。
想像したのと、同じことば。
保健室には、わたし一人。
それだけと言い切る、委員長の若さが、目に染みる。
「まいったなあ」
わたしは、煙草の箱を白衣のポケットに戻しながら、強く思う。
ああ、煙草、吸いたい。
着火してしまいそうなわたしの気持ちは、煙と一緒に吐き出せるのだろうか。
分からない。
分からない、けれど。
……煙草の煙は、なにかを教えてくれる。
そんな予感が、する。
夢と煙。 豆ははこ @mahako
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