後 卵を抱いて

 ◇

 やがて、少し開けた場所に寄り添いあって並び立つ黒と白の岩が見える。卵が置かれた「竜の巣」の目印、双子岩だ。ヘリオは軽く息を弾ませながらもペースを落とすことなく岩に近づき、額の汗をぬぐって大きく伸びをした。


「うーん……! なんか思ったよりだいぶ早く着いちゃったなぁ。みんなの言う通り身体を鍛えたけど、成果が出すぎたのかも?」


 今にも歌い出しそうに弾んだ声で大きな独り言を繰り出しながら、ヘリオはその場で足踏みをしてみる。どんなに少なく見積もっても一時間半は山の中を歩いていたはずだが、覚悟していたような足の痛みやだるさは感じられなかった。

 ヘリオは役目を終えた赤い石をポケットに入れると双子岩を見上げ、顎に手を当てて小さく唸る。


「母さんは双子岩で休憩しろって言ったけど……正直、このまま帰っても大丈夫なんじゃない?」


 村人たちは食べ物も持たせてくれたけれど、ヘリオのお腹はまだすいていない。そうなると、これといってやる事もないのに卵の前でぼーっと座って過ごすことはいかにも時間の無駄なように思えた。持たされたナイフがあるから時間つぶしには困らないが、内職なら家でいくらでもできる。


「……いいよね? 予定よりだいぶ楽に登れちゃったんだから、母さんだってきっと想定外だよね」


 結局、ヘリオは小声でぶつぶつ呟きながらそーっと双子岩を通り過ぎた。ガサガサ鳴る草をできるだけ揺らさないように足を運び、竜の巣へと近づいていく。


 竜の巣と言っても、本当に竜が暮らしている場所ではない。卵が置かれている場所を便宜上そう呼んでいるだけだ。ゴツゴツした岩場の真ん中あたり、びっしりと苔が生えた岩のくぼみに赤い石と卵が一つ転がしてある。

 ヘリオは意味もなくそっと周囲を見回し、つまみ食いをしに台所に入る時のように忍び足で卵に近づいた。両手でそっと持ち上げると、手に触れたその感触に心の深いところが震える。


「ああ……! これだ、俺が夢の中で抱えてたもの……!」


 ヘリオは卵を胸元に引き寄せ、腕を回してしっかりと抱え込む。卵は最初からそこにあったかのようにぴったりとヘリオの腕に収まった。

 目の奥がじんと熱くなる。不意にとある村人の言葉が頭をよぎった。「本当に懐かしいもんに出会った時、人は涙が出るもんさ」――旅人の歌に耳を傾けながらそう呟いた彼の気持ちが、今のヘリオなら分かる気がする。

 

「これを……、こいつを連れて帰るのが俺の使命……」


 改めて声に出すと、背筋がピリピリと引き攣れるような感じがした。この卵を守らなければいけない――ヘリオ一人でそうしなければいけないのだ。


 心臓がドキドキと跳ね始める。夢を見て飛び起きた時のざわついた気持ちを思い出す。何か大切なことを忘れている、とヘリオの直感が囁いた。


「……そういえば、夢では何かに追われて、」


 それに思い至ったのと竜の巣を出たのはほぼ同時だった。岩場から一歩踏み出した直後、子犬ほども大きさのあるねずみが鋭い鳴き声をあげてヘリオに飛びかかってくる。


「うわっ……!」


 ヘリオはとっさに卵を庇うように抱えて身体を翻した。ねずみはヘリオの腕に歯を立て、そのままカバンにぶつかって振り落とされる。腕に痛みはない、けれど上着にはくっきりと歯型が残っていた。


 気がつけば、右にも左にも同じデカねずみが目を爛々と輝かせてヘリオを狙っている。


「魔物……!? おい、来るな、来るなよ……!」


 叫んだ声は無様に上ずっていた。ヘリオは卵をぎゅっと抱きしめたまま後退り、どうにか片手を後ろに回してカバンを探る。中には村の大人からもらったナイフが入っている、けれど背負うタイプのカバンはこういう時に中身を探しにくい。


 布の手触り――焼き菓子の包み。皮の袋――飲み水。ボコボコした固い粒――火打ち石。ヘリオが外れを引き続けている間にも、ねずみの魔物はじりじりと近づいてくる。甲高い鳴き声が耳を引っ掻く。


「ああもうっ……あっち行け! 来るなって言ってるだろっ!!」


 急激に張り詰めた精神は切れるのも早かった。ヘリオは鳴き声をかき消すように怒鳴り返し、指に触れたものを手当たり次第に投げつける。

 反撃に怯んだのか、魔物たちの動きが止まる。その瞬間ヘリオは卵をしっかり抱え直して走り出した。


 魔物のいない方へ。牙の届かないところへ。それだけを頭の中で繰り返し唱えて、ヘリオはひたすら走り続ける。

 ふかふかの土は走りにくい。転ばないように足を動かすうち、ヘリオの頭は少しずつ落ち着きを取り戻していった。


(たしか長老が言ってた、魔物たちは生まれる前の雛を食べようとしてるって……。それに、奴らは竜の巣には入れないんだったような……ってことは、俺が卵を持って出てくるのを待ってたのか?)


 理屈は忘れてしまったが、今はそんなことを考えている場合ではない。大事なのは今、ヘリオがまんまと魔物たちに利用されて卵も命も奪われそうになっているという事実だ。


 後ろからはまだ足音が迫ってきている。ひとつひとつは簡単にかき消されそうな小さな音が、風に揺れる草原のような大きな唸りとなって近づいていた。心做しかさっきより近い、それに、確実に多い。


「まずい、このまま囲まれたら……!」


 ちらりと腕を見るヘリオの目に、上着にくっきりと残る魔物の歯型が映る。あんな歯でそこら中から何度も何度も噛みつかれたら――。

 嫌な想像にヘリオの腕はぎゅっと強張り、頭の奥がじりじりと痺れるような感じがする。背筋を冷たいものが走り、身体の震えにつられて足がもつれそうになる。


 その時、ヘリオの目に草むらとその中に埋もれる大きな倒木が見えた。


「よし、あの木の陰に……!」


 こういう場所には何度か隠れたことがある。ヘリオは少しだけ草を潰してにおいを誤魔化し、草むらの中にうずくまるようにして倒木の陰に身を寄せた。腕にはしっかり卵を抱えたまま、口元に手を当てて必死で息を殺す。


 数分にも数十分にも思える時間が過ぎた後、ヘリオはゆっくり口元から手を離すと大きく息をついた。念のためそっと首を伸ばして辺りを見回してみるが、魔物たちの姿は見えない。

 首を引っ込めたヘリオは、倒木に背中を預けて空を仰ぐと改めて深々とため息をついた。


「これ、奴らを倒してから卵を取るのが正解だったってことだよなぁ……。だから母さんは双子岩で休憩しろって言ったんだ」


 過去に戻れたらどんなに良いだろう。できるならヘリオは油断している自分の後ろ頭を引っ叩いて「周りをちゃんと見ろ」と怒鳴ってやりたかった。

 そもそも、危険がないならわざわざ新品のナイフを持たされるはずもなかったのだ。そう思っても今となってはもう遅い。


「はぁ……。母さんの言う通りにしてれば今頃来た道をたどって帰るだけだったのに……」


 呟いたヘリオは、ふと顔を上げて辺りの景色に目を凝らす。


「っていうか、ここはどこだ……? 目印の赤い石は!?」


 魔物を振り切ることにばかり気を取られて、道がどちらにあるかなど考えもしなかった。急いで周囲に目を配るけれど、そびえ立つ木々にも茂る草にもまったく見覚えがない。

 さっと血の気が引いていくのが顔を見なくても分かった。ヘリオは唇を噛み締め、こうしてはいられないと立ち上がる。


「たまたま今は魔物がいないだけで、ここも安全じゃないんだ。早く村への道を見つけて帰らないと……!」


 手がかりはないが、動くしかない。登道で辿ってきた赤い石を思い出し、ヘリオは草むらや木の洞を確かめながら歩き出した。



 ◇

 ない。ない。ない。


 ヘリオにも分かってはいたことだが、自分の居場所さえわからない山の中で小さな石ひとつを見つけ出すのはほとんど不可能だった。とにかく歩いてはみるものの、ヘリオには自分が上っているのか下っているのかも次にどの方向に進んだらいいのかも分からない。

 おまけに時々小さな魔物と鉢合わせて、どうにか逃げるたびヘリオは改めて自分の居場所を見失った。今かき分けた草むらが本当に初めて見るものなのかどうかもヘリオにはもうわからない。


「あぁもう……! なんでもいいから早く目印とか……っ痛!」


 八つ当たりのように草むらを薙ぎ払った腕に、鋭い痛みが走る。直後、耳が今更のように羽音を捉えた。


 虫型の魔物が、低い警戒音のような羽音を鳴らしながらヘリオに針を向けている。


「ひっ……!」


 ヘリオは引きつった悲鳴を上げ、もつれそうになる足を必死に動かして後ずさる。その間にも刺された腕はズキズキと痛み続けていた。

 そして、悪いことは重なるもので。


 どうにか草むらを離れたヘリオの前に、三匹のデカねずみが姿を現した。


「こいつら! さっき撒いたのに……!」


 魔物たちが移動してきたのか、それともヘリオが戻ってきてしまったのだろうか。どちらにせよヘリオがそれを知る方法はないし、するべきことも変わらない。ヘリオはすぐさま身体の向きを変え、全速力でその場を離れた。


 足が地面を蹴るたび振動が腕に響く。刺されたあたりに服が擦れると焼けるように痛い。歯を食いしばりたいが、せわしなく吐き出す息がそれを許さない。走り続けた足もさすがに重く、鈍い痛みを訴え始めていた。


(痛い、苦しい、疲れた……。でもダメだ、追いつかれたら殺される! こいつだって食べられちゃう、俺が守らなきゃ……)


(……でも、いつまで? このまま帰れなかったら、ずっと……?)


 不意に頭をよぎった考えに、ヘリオはひゅっと息を飲んだ。空気の塊がつっかえ、喉を無理やり押し広げられるような感覚に激しくむせる。呼吸が乱れ、重くなった足がついにもつれた。


「う、わっ……!」


 卵が潰れる! 頭の芯がけたたましく警鐘を鳴らし、ヘリオはとっさに身体を捻った。腕が、胸が、脇腹が勢いよく地面に叩きつけられる。ポケットから赤い石が飛び出して転がった。


「っ……けほっ、はぁ……、卵は……!?」


 咳き込みながらもヘリオは真っ先に腕の中を覗き込んだ。卵は相変わらずぴったりとそこに収まり、自身の命運をヘリオに委ねきっている。

 その姿を目にしたとたん、ふと悪魔が囁いた。


(こいつを置いていけば、俺だけは助かるかもしれない)


 魔物が求めるのはヘリオではなくこの卵だ。これを投げてやるか、そこまでせずともそっと地面に置いていけばいい。腕の中から出して、足元に寝かせて、手を離して――と、想像してみたその時。

 腹の底から強烈な不快感がこみ上げて、ヘリオの全身を貫いた。笑いながら赤子を引き裂く異端者でも目の当たりにしたかのような、本能的な嫌悪感。


「……! あぁ……!」


 ヘリオは思わずうめき声を上げ、卵をぎゅっと抱きしめた。中にいる雛の耳を鼓動で塞いでしまうかのように、強く強く胸に押し付け抱え込む。


(俺はなんて酷いことを……! 絶対にやらない、もう二度と考えもしないからな)


 たとえこのまま魔物に食われてしまったとしても、卵を見捨てて逃げるような真似はしない。ヘリオが改めてそう誓ったその時。


 ――ピキッ


 何か、固いものが割れる音がした。


「えっ……?」


 ――ピキ、ピキピキッ


 音はヘリオの腕の中からする。ハッと腕の力を緩めて覗き込んだヘリオの目の前で、卵の殻に無数のヒビが広がっていった。

 そして――


「――ギャウ!」


 鮮やかな赤い鱗に包まれた身体、その頭部に嵌まる金の目がヘリオを見上げた。

 赤い翼が広げられ、ひらりと舞い上がった竜の雛は魔物を一瞥して大きく口を開く。


「ルゥオオオオォォーーッ!!」


 響き渡ったのは、生まれたばかりの雛から放たれたとは思えない堂々たる咆哮。ヘリオを取り囲んでいた魔物たちは、それを聞くなり蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。


「お前……助けてくれた、のか?」

「ギャウッ!」


 呟くように尋ねるヘリオに、雛は迫力の欠片もない声を上げながら全身を擦り寄せる。その仕草はまるで幼子が親に甘えているようだった。


「っ……!」


 鼻の奥がじんと熱くなる。胸が締め付けられたように痛む。ヘリオは雛の身体に両腕を回し、こみ上げてくる衝動のままに涙をこぼして叫んだ。


「ごめん、ごめんなぁ……! ありがとう……っ」


 身体が震える。涙が止まらない。泣きじゃくるヘリオに、雛は何度も身体を擦り寄せて柔らかい鳴き声を上げた。固い鱗が服越しの肌にこすれて痛い、けれどヘリオは雛を放そうとは思わなかった。



 ◇

 それから。雛に服の裾を引かれ、ヘリオは涙をぬぐって再び歩き出した。

 足は重いし腕は痛いし、泣き疲れて目は腫れぼったい上に喉もカラカラ。それでも雛に先導されるとヘリオはどこまででも歩けるような気がした。


 そして。


「お、いやがった! おいこらヘリオー! こんな時間まで何してたんだぁ!?」


 なんとか赤い石のある道に戻ってすぐ、ヘリオは探しに来た村の大人に見つけられた。もうすぐ夕飯時だと言われた瞬間、それまでうんともすんとも言わなかった腹の虫が鳴く。

 ヘリオは頬をかき、そっと顔を逸らしながら口を開いた。


「ごめんなさい……。双子岩で休憩しなかったから、魔物に囲まれてたんだ」

「お、お前なぁ……! よく無事で……」

「……それはさ、こいつのおかげだから」


 こいつ、と指し示したのは赤い鱗に包まれた竜の雛。ヘリオが守った卵から生まれた命、ヘリオを守ってくれた相棒だった。


(間違えたし失敗もしたけど……俺、やりとげたんだ。これからはこいつと生きていくんだ……!)


 傍らを離れない雛を見上げ、ヘリオはそっと目を細める。雛はヘリオに軽く身体をぶつけ、嬉しそうに鳴き声を上げた。



「……っていうわけで。俺、こいつと一緒に外の世界を見てみたいんだ」


 村に帰り着き、母親から手当てを受けた後。長老の家を訪ねたヘリオはきっぱりとそう言った。静かに話を聞いていた長老は、柔らかく微笑んでヘリオの目を覗き込む。


「それが、お前の本当にしたい事じゃな?」

「うん! こいつ――ソレイユと冒険者になる。それでいろんな場所に行っていろんなものを見るよ!」


 投げかけられた問いに、今のヘリオはまっすぐに答えられる。相棒とともに旅立つ自分を想像するとそれだけで胸が踊った。


 それから少しだけ他愛のない話をして、夜。家に帰ったヘリオは、ベッドの横に作られた小さな寝床を見て目を丸くした。中ではソレイユと名付けた竜の雛が身体を丸めて眠っている。


「ねぇ、長老には言わなかったけどさ……」


 すやすやと寝息を立てるソレイユに、ヘリオはそっと囁いた。


「俺ね、大人になったお前の背中に乗るのが楽しみなんだ」


 次に見るのはそんな夢。密かに宣言したヘリオは吐息だけで笑って自分のベッドに潜り込む。

 少年と竜の初めての夜は、ゆっくりと穏やかに更けていった。

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やがて頂へ至る者 紫吹明 @akarus

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