名を呼んでよ

ハナビシトモエ

第1話 海のいざない

 夜が一番危険で一番ゾクゾクするよ。


 何度もぐっても従姉妹のお姉ちゃんの言葉を忘れることは出来ない。夕方や夜は危ないから帰って来なさいと言われても、デイリーショップに行くふりをして、海に入る。


 夜が危ないなら夕方は大丈夫というルールを勝手にもうけて、私は砂浜に服を置いて、潜る。


 私は夏の盆にだけ母さんの実家に戻る。H県のBという島は海がきれいで観光名所として有名で旅館が立ち並ぶのは前浜と呼ばれる。私のばあちゃんの家もこの旅館のうちの一つだ。


 盆は特に書き入れ時のはずなのにこの島に生きた人が海から戻って来るという言い伝えで誰も入ってはいけないことになっている。


 とはいえ、令和真っ只中、そういう言い伝えを信じているのは、ばあちゃん世代くらいなもので、観光客のいない海は子どもたちにとってパラダイスだった。



 帰って来て、引き込まれてもいい。お姉ちゃんに会えるなら。



 どうせ私はビビりだから、空が本格的に暗くなってきたら浜に戻る。


「暗くなって来たから帰る」

 誰も聞いていない宣言の元、水平線に沈む夕陽と夜空の星が混在する不思議な時間の狭間で、私は確かに息をした。


 先に母屋に上がらないとばあちゃんに大目玉食らうよな。ちょっと歩いて帰るか。

 刹那的な浜風が後ろから前へ吹きぬけてゆく。帰ってくるよね今年も、ずっといるもんねお姉ちゃん。



 お姉ちゃんとは確かな約束をしたことにしている。



 大きくなったらお姉ちゃんと結婚するのを何度も繰り返した。その度にはいはいとごまかされて、高校に上がった頃には私の物になってよと駄々をこねたこともあった。

 お姉ちゃんは冗談だと思ったかな。



 愛里が大学を卒業したら考えてあげると言われた。



 五歳離れたお姉ちゃん、子どもに手は出せないものねとよく言っていた。

 私が大学生になって子どもじゃなくなったら、私と約束果たしてくれるのかな。私は行く気の無かった大学に合格した。今思えば両親からお姉ちゃんに愛里がどうにか大学に行くように説得してくれないかと頼まれていたのかもしれない。


 私が十七歳の頃、盆にお姉ちゃんは彼氏を連れて来た。お姉ちゃんの腰に腕を抱き、頭に顔を寄せる軽薄そうな男が私は嫌いになった。

 盆の最終日、男はお姉ちゃんが寝た後に私の部屋に来た。



「冴香の従姉妹なんだって、色々教えてよ」

 性欲が出た目つきにおぞましさを覚えていた。


「帰ってください」


「何も襲おうなんて」


「帰ってください」

 私は家を飛び出した。途中で一階のトイレから誰かが出て来た気配がした。電灯の光ある岸まで逃げて振り返ると誰もいなかった。私は朝まで家の外で過ごした。



 防災無線の鳴る朝、雨が降ってきた。仕方なく帰ると男の姿はなく、天気は大荒れになった。これじゃ、帰られないよねとばあちゃんは言っていた。


 お姉ちゃんがいないことに気づいたのは私が最初だった。



「ねぇ、お姉ちゃんは?」


「冴ちゃんなら、彼氏とデイリーに行くって」

 おばさんと母さんが「今日は餃子かね」と台所で作業をしている。


「こんな雨んなかなんでデイリー?」


「パン買いに行くって」

 母さんはのんきさには苛立った。


「パンなんか腐るほどこの家にあるのに?」

 おじさんと父さんはするめで飲んでいた。


「腐らん。ちゃんと管理してる。そんなに心配ならデイリーに行って来たら」

 私は外を飛び出した。大雨に前も見えない中、お姉ちゃんはデイリーに行くだろうか。私ならそんな選択をしない。

 私はきっとお姉ちゃんはデイリーに行くはずがないと分かる。それだけの時間を男ってやつより育んできた。


 ちゃんと約束したのになんで手を握らなかったのか。どこに行くのかどうしたら会えるのか分からない。



 デイリーは臨時休業だった。当たり前だ。やっているはずがない。



 私は坂の上を探すべきか、海に行くべきか迷った。


 私は海に行くことにした。坂の上にはばあちゃんの知り合いがたくさんいる。迷ってもそこから連絡が入る。海ならこの時化だ。生死に関わる。


 海は満潮の時間と重なったのか岸をずいぶんせめ立てていた。



「お姉ちゃん、どこ」

 何度叫んでもお姉ちゃんおろか、彼氏の姿も見えなかった。私の姿を家から見た母さんが慌てて飛び出してきた。


「あんた何をしとうと」


「デイリーが」

 事の重大さを知った母さんが海上保安庁と警察に電話をした。両方とも嵐が収まらないとどうしようもという回答だった。


「私のせいだ」

 当時はそう考えて悲しくてつらかった。


 一週間後、沖で見つかったお姉ちゃんを見ることは無く、葬儀は粛々と進んだ。噂で聞いた。無理心中だと。ロープが両腕に巻かれていて、それが外れなかった。


 嘘だ。あんな男とお姉ちゃんが心中をするなんて嘘だ。あの盆の終わりの事を何度も思った。トイレは二階にもあるのにお姉ちゃんたちの部屋は大人の余計な気遣いで離れの一階だった。一階のトイレはお姉ちゃんが使っていた。


 あの男を連れて行ってくれたの?

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