割れた神殿

ああ、あの頃の私は、なんと秩序と平穏の中に生きていたことか。

私の日々は、鐘の音に支配されていた。夜明け前の最初の響きで目覚め、祈り、少女たちを叩き起こす。彼女たちの作務を監督し、教室では聖句と作法を教え、午後は少女同士の些細な諍いを調停する。夜になれば、彼女たちの資質を羊皮紙に記録し、神殿という巨大な家の礎が、明日も揺るがぬことを確認して、ようやく短い眠りにつく。

それは、繰り返しの日々。だが、退屈ではなかった。未熟な魂を、正しい教えの元で磨き上げ、ナギの秩序の一部として整えていく。その聖なる仕事に、私は誇りを持っていた。私の世界は、完璧な歯車として、正しく回り続けていたのだ。

ただ一人、ディウ――あのディウフレーシュという、予測不能な歯車を除いては。

彼女は、いつも私の秩序の外にいた。他の者たちが、私の教える歴史や聖句を懸命に暗記している時も、彼女だけは、いつも窓の外、あるいは星図の、さらにその向こうを見ているかのようだった。

一度、忘れもしない出来事がある。 それは、ナギの聖なる星座について学ぶ、神聖な授業でのことだった。私が、代々伝わる星座の物語を語り終え、全員にその配列を暗唱させていた、まさにその時。

ディウは、静かに立ち上がり、古い星図の一点を指さした。そこは、星など何もない、ただの黒いインクの染みにしか見えない場所だった。

「ディウ、今は聖句の暗唱の時間です。余計なことはおよしなさい」

私がそう窘めても、彼女は私ではなく、その黒い染みを見つめたまま、こう言ったのだ。

「空いているのではありません、ズロシナ。ただ、まだ、そこに生まれた星の光が、我々のいるこのヤ=ムゥにまで、届いていないだけです」

教室中が、静まり返った。他の少女たちは、彼女が何を言っているのか分からず、ただ困惑していた。私もそうだ。それは、教えにない、あまりに突飛で、不敬とも取れる言葉だった。私はその日、罰として、彼女に聖堂の床磨きを命じたことを、今でもはっきりと覚えている。

あの頃の私にとって、彼女は理解不能な存在だった。あまりに聡明で、あまりに孤独で、そして、私の築き上げた完璧な秩序を、いとも容易く乱してしまう、一本の鋭い棘のような少女。

今、私は思い知るのだ。 あの時、彼女が見ていたのは、遥か彼方の未来。そして、私が見ていたのは、足元の小さな秩序に過ぎなかったのだと。

あの頃、私の秩序を乱すただ一本の棘であった彼女が、今や、この神殿そのものを内側から引き裂く剣となって、私の目の前に立っている。

割れた神殿==============================

ディウフレーシュ卿が、嵐の夜にヤ=ムゥへ舞い戻った当初、このナギ神殿において、実のところ何も変わりはしなかった。

星を渡る太陽柱といえど、たった一人。古くから続く我らの秩序と、幾百年の伝統が織りなすこの静謐な城塞の前では、取るに足らぬ存在に思われた。セタシオン卿という、もう一柱の偉大なる太陽柱の威光もあった。ゆえに、だれも彼女を相手になどしなかったのだ。やがて、あの女は星外の騒乱を持ち込む危険人物である、という噂がまことしやかに囁かれ始めたが、それもまた、我らの日常を揺るがすほどの力はなかった。そう、最初は。

異変は、水面に落ちたインクが、気づかぬうちに水を黒く染め上げていくように、静かに、しかし確実に進行した。

ディウフレーシュ卿は、神出鬼没だった。今、この神殿のどこにいるのか、それとも城下のウェノ・マトルに降りているのか、ズロシナである私でさえ、その行動の全容を掴むことはできなかった。彼女は、祈りの時間には現れず、定められた食事の席にも着かない。我らの神聖な日課という、この神殿を神殿たらしめる歯車の、どこにも組み込まれていなかった。彼女はまるで煙のようだった。その不在によって、かえってその存在を、我々一人ひとりの意識に深く刻みつけるかのように。

「ディウフレーシュ様が、昨夜、書庫にいらしたそうだ」 「あの方の講義を聞いたか? 星の光は、祈るものではなく、読むものなのだと…」

最初は、若い修道女たちの間で交わされる、他愛ない噂話に過ぎなかった。だが、その声に含まれる響きが、日を追うごとに変わっていくのを、私は感じ取っていた。それは、単なる好奇心ではない。もっと熱っぽく、潤んだ、ほとんど信仰に近い何かが、彼女たちの瞳の奥で燃え始めていた。

気がつけば、神殿の空気は一変していた。廊下ですれ違う者たちの視線。食堂のテーブルを分かつ、見えない境界線。そして何より、祈りの後の、あの重苦しい沈黙。皆が何かを口に出すのを恐れ、しかし同時に、心の内で同じ一つの存在を感じている。あの女の存在を。

これこそが、私が最も恐れていた事態だった。歴史の書物でしか知らなかった、あの抗いがたい現象。人々は、既存の教義が、我らがナギの教えが、いかに形骸化し、その光を失っているかに気づきながらも、それを口に出すことを恐れている。その魂の渇ききった大地に、ディウフレーシュという、圧倒的なカリスマが恵みの雨のように降り注いだのだ。

もはや、理屈ではなかった。セタシオン卿の言葉がいかに正しく、神殿の伝統がいかに尊くとも、関係ない。人々は、論理ではなく**「宗教的な本能」**で、自分たちの魂が真に渇望していた「何か」を、ディウフレーシュ卿という存在のうちに直感してしまったのだ。

私は、この神殿の導母として、その全てを否定せねばならない。あの女の言葉は異端であり、その存在は秩序を破壊する毒だと、声を大にして叫ばねばならない。私の理性が、私のこれまでの生涯の全てが、そう命じている。

…だが。 ああ、ナギよ、お許しください。この忌むべき内なる声を、どうかお許しください。

なぜ、あの女の言葉を聞くたびに、この老いた心臓は、若々しくも愚かな鼓動を打つのだろうか。なぜ、あの女の姿を見るたびに、この魂は、憎しみと共に、ある種の解放感を覚えてしまうのだろうか。なぜ、あの女が語る「新しい世界」を、私の魂の最も深い場所が「それこそが真実だ」と、共鳴してしまうのだろうか。

この内なる葛拓こそが、ディウフレーシュという現象の正体なのだ。彼女自身は、何もしていない。ただそこに存在するだけで、我々の内側から、我々自身の手で、この神殿を二つに割らせている。

もはや、私の愛したナギ神殿は、一枚岩の城塞ではない。 その礎には、深く、癒しようのない亀裂が走ってしまった。セタシオン卿が灯す、伝統という名の冷たく青白い光と、ディウフレーシュ卿が点した、深淵の如き熱を帯びた黒い炎。その二つの光に照らされ、我ら一人ひとりの魂が、今、静かに引き裂かれていく。

事件が発覚したのは、嵐季の朝を告げる鐘が、霧の向こうで重々しく鳴り響いた直後のことだった。

神殿の西回廊。そこには、初代ナズの女君が神託を受け、天から差す一筋の光に跪く姿を描いた、神殿で最も神聖とされるフレスコ画がある。何百年もの間、その前を通り過ぎる者は皆、敬虔に頭を垂れてきた。その聖なる壁画が、無残にも黒く塗りつぶされていたのだ。

ズロシナは現場に駆けつけ、息を呑んだ。それは、単なる悪戯や冒涜ではなかった。天から差していたはずの光は、木炭で執拗に塗りつぶされ、代わりに、壁の下部――深淵を思わせる暗闇から、禍々しくも力強い光が、まるで噴出するように描かれていた。構図そのものが、ナギの教えを根底から覆す、明確な意志を持った「修正」だった。

犯人はすぐに見つかった。ディウフレーシュの「講義」に最も熱心に参加していた、ソナという若い修道女だった。彼女は自らの行いを隠そうともせず、その手はまだ木炭で黒く汚れていた。

セタシオン卿の私室は、彼女の精神そのものを映すかのように、絶対零度の静寂に支配されていた。その中央に、ソナは引き据えられた。しかし、その顔に恐怖や後悔の色は一切なかった。

「なぜ、このようなことをしたのです」 セタシオン卿の声は、静かだが、鋼のように硬質だった。

ソナは、まるで夢見るような、恍惚とした表情で顔を上げた。その視線は、目の前のセタシオン卿ではなく、もっと遠い、何か神聖なものを見ているかのようだった。

「私は、真実の姿を描いただけです」彼女は言った。「ディウフレーシュ様がお示しくださった、本当の世界の姿を。光は天から与えられるものではない。我らの内なる深淵から、自ら掴み取るものなのだと」

その言葉を聞いた瞬間、ズロシナは、自らの足元が崩れ落ちるのを感じた。敗北だ。これは、完全な敗北だ。我々が何百年もかけて築き上げてきた教義、権威、そして罰則のシステムが、この若い娘一人の、純粋で狂信的な信仰の前で、全く機能していない。

彼女を罰すれば、この娘は改革派にとって初の**「殉教者」**となり、彼らの熱狂に聖なる血を注ぐことになるだろう。見逃せば、神殿の規律は地に堕ち、第二、第三のソナが現れるに違いない。どちらに転んでも、もう、私たちのやり方ではこの炎を消すことはできないのだ。

ソナが連れ出され、部屋にセタシオン卿と二人きりになったとき、ズロシナは初めて、目の前の太陽柱の顔をまともに見ることができなかった。この取り返しのつかない事態を招いた責任の一端は、自分にある。そう感じていた。

「…ズロシナ」

不意に、セタシオン卿が、これまで聞いたこともないほど静かな、ほとんど個人的な響きを帯びた声で言った。

「あなたと、ディウフレーシュは、同期でしたね」

ズロシナの心臓が、氷の塊に握り潰されたかのように軋んだ。そうだ。忘れたくとも忘れられない、遠い昔の記憶。まだ我々が、ただのディウとズロシナという名の、灰色の僧衣をまとった少女だった頃。あの聡明で、誰よりも星に近く、そして誰よりも孤独だった友の横顔。

変わり果てた彼女に、私はずっと困惑していた。あの頃の面影を探し、しかし見つけられずにいた。その動揺を、この絶対的な太陽柱は、全て見抜いていたのだ。

「恐れていたことが、起こりました」セタシオン卿は続けた。その声には、もはや怒りはなく、ただ底なしの疲労と、氷のような決意だけが滲んでいた。「あの女は、単なる異端者ではない。彼女が信奉するものは、我らがナギの教えとは似て非なる、もっと古く、危険なもの…。あの『虚光機関』という暗闇そのものです」

セタシオン卿は、ゆっくりと立ち上がり、ズロシナの前に立った。その瞳は、もはや神の代行者ではなく、同じ神殿に生きる一人の同志として、ズロシナの魂をまっすぐに射抜いていた。

「ズロシナ。あなたに、命令を下します」

ゴクリ、と喉が鳴る。

「彼女の信奉者になりなさい」

「…な…にを…」

「熱心な、信奉者に。誰よりも彼女を理解し、その教えに心酔し、彼女の最も深いところまで入り込みなさい。そして…」

セタシオン卿は、ズロシナの肩に、その冷たい手を置いた。

「…わかりますね? 今、ナギのために、この世界のために、本当に必要なことが。あの暗闇にいるものが、どれほど危険な存在であるか、その全てを暴き出すのです」

それは、命令であり、祈りであり、そして、友を裏切れという、最も残酷な神託だった。ズロシナは、もはや自分が立っているのが、硬い石の床なのか、それとも底なしの深淵の縁なのか、分からなくなっていた。


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