はじめまして、運命の人?

そらは

第1話

その日は特別なことなんて何もない、ただの平凡な日だった。


――彼に出会うまでは。




青和商事に入社して半年。営業事務として、先輩のサポートをしながら毎日覚えることが山積みだけど、それでも少しずつ仕事の流れが分かるようになってきた。


(今日は、なんとかミスせずに終えられた……よね?)


まだまだ完璧には程遠いけれど、入社当初の"何も分からない状態"に比べたら、少しは成長しているはず。


仕事帰り。いつものカフェの扉を押すと、ふわりと漂うコーヒーの香りが出迎えてくれた。一日の終わりに、ここでひと息つくのが私の日課になっている。


今日も変わらないはずだった――財布を落とすまでは。


「……あ、」


小さな声が漏れた。指先が触れる。見知らぬ誰かの、少しひんやりした指先と。


ほんの一瞬の出来事。けれどその一瞬は思った以上に長く感じられた。


顔を上げると、落ち着いた雰囲気の男性がこちらを見つめていた。スッと伸ばされた彼の手には、私の財布。


ああ、そうか――落としたんだっけ、私。


「落としましたよ」


穏やかな声とともに、財布が差し出される。


「あ……ありがとうございます」


受け取る時、再び彼の指先に触れた。

一瞬の静寂。心臓が、さっきより少し速くなるのを感じる。


でも彼は特に気にする様子もなく、ふっと視線を逸らし、そのまま静かに壁際のテーブル席へ向かった。淡々とした仕草が、なんだか彼の日常の一部に見える。


(……なんで、私だけこんなに意識してるんだろう?)


胸の奥が、くすぐったいような、落ち着かないような感覚に包まれる。初めて会った人なのに。たった一度触れただけなのに。


不思議な気持ちのまま、私はそっと財布を握りしめた。




「ふぅ……」


カフェのいつもの席に座ったものの、どうにも落ち着かない。


カップを手に取り、そっといつものカフェモカを一口。


(さっきの人……)


このお店、ほぼ毎日通ってるけど、あの人は見たことが無い気がする。この時間は仕事帰りの人が多く利用しているけど、あの人もそうなのかな?


ふと、視線が壁際の席と向かう。ノートPCを開き、静かにキーボードを打つ彼の姿が目に入った。


スラリとした長身に、シンプルなシャツと腕時計。整った横顔は涼しげで、どこか物静かな印象を受ける。決して派手ではないのに、不思議と目を引かれる。


(……なんか、モデルみたいな人だな)


そんなことを思った瞬間、彼がふと顔を上げた。


――目が合った。


(えっ……!?)


心臓が、一瞬飛び跳ねたような気がした。けれど、彼は微かに微笑むとすぐにまたPCへと視線を戻す。まるで「たまたま目が合っただけ」とでも言うように。


(……やっぱり、私の勘違いか)


カフェモカを口に運びながら、そっと息を吐く。でも落ち着くどころか、さっきよりも胸の奥がざわつくのは――気のせいじゃない。




結局、ドキドキしていたせいで飲み物の味もよく分からないままカフェを出た。


外に出た瞬間、ひんやりとした空気が頬を撫でる。見上げると、灰色の雲が広がっていた。


(もしかして……降る?)


不安が的中するように、ぽつり、ぽつりと水滴が落ちてきた。思わずバッグの中を探るけれど、折りたたみ傘は入っていない。


「……あー、ついてないなぁ」


とりあえず急ぎ足で駅へ向かおうとしたその時――。


「よかったら、どうぞ」


隣から差し出されたのは、大きな黒い傘。驚いて顔を上げると、そこにいたのは――財布を拾ってくれた彼だった。


「え……」


さっきまでカフェにいたのに、同じ方向に歩いていたの?偶然……だよね?


「傘、ないですよね?」彼はそう言って、さりげなく傘を傾ける。断る間もなく、雨粒を弾く傘の下に私の肩がすっぽりと収まった。


(近い……)


ふわりと漂う、ほんのりシトラスの香り。カフェでは気づかなかったけれど、意外と背が高いんだな――そんなことを思う。


「……すみません、ありがとうございます」


「気にしないで」


彼は、ただそう言うだけだった。当たり前のことをしただけ、というように。


ふと気づいた。私が歩きやすいように、彼はわずかに歩幅を合わせている。無意識に、相手のことを考えられる人なんだろうか。


(なんで……)


あまりにも自然すぎて、彼が何を考えているのか分からない。私なら、こんなことできるだろうか?偶然同じ方向へ歩いていた人に、何の迷いもなく傘を差し出せるだろうか?


駅までの道のりは、思ったよりも短く感じた。信号待ちの間、ふと彼が口を開く。


「よく、あのカフェに来るんですか?」


何気ない問いかけ。


(……え、それって)


ほんの少しだけ、期待してしまう。もしかして、私のことを気にしてくれていた?


でも、彼の表情からは何も読み取れない。


「ええ……まあ、仕事帰りに」


「そうなんですね」


それ以上は深追いせず、彼は微笑んだだけだった。そして、駅の入り口に着くと、ポケットから名刺を取り出す。


「また会えたら、今度はちゃんと自己紹介させてください」


(また……?)


渡された名刺を見つめながら、自分の心がざわつくのを感じた。そんな私の心を知ってか知らずか、彼は颯爽と改札の奥へと消えていく。


ただの偶然?

それとも、もう少しだけ特別なもの?


答えは分からないまま、名刺をそっと握りしめた。


部屋に帰ってからも、心のどこかがそわそわしていた。


鞄の中から小さなカードを取り出す。


――「東洋グローバルリンク」

――「海外事業部 マネージャー」

――「東雲 律」


整った字体で印刷された名刺を、そっと指でなぞる。


「……東雲 律、さん」


思わず、口の中でその名前を繰り返した。


"東雲"――音の響きが、彼の静かで落ち着いた雰囲気と妙に合っている。夜明け前の空を連想させる、穏やかで、どこか掴みどころのない響き。


そして、"律"――端正で、凛とした雰囲気の彼に、ぴったりの名前。


(……名前まで、なんだか彼らしい)


スーツ姿がよく似合う、整った顔立ち。落ち着いた低めの声。ふとしたときに見せる微かな微笑み。


(……大人の男性、ってこういう人のことを言うんだろうな)


そして名前の下には、興味は無くても一度は聞いたことがあるであろう、大手商社の名前が記されている。そして彼はそこの海外事業部のマネージャー。


(……商社かぁ)


一瞬、ピンとこなかった。でも「海外事業部」という文字に、なんとなく「遠い世界の人」のような印象を抱く。


(英語ペラペラなのかな……)


名刺の表面をそっとなぞる。


("また会えたら" って、どういう意味だったんだろう)


それはただの社交辞令?それとも……。


「……考えすぎかな」


小さく笑ってみるけれど、胸の高鳴りは収まらない。


一瞬だけ触れた指先の感触。黒い傘の下、肩が並んだ距離。あのカフェで、初めて目が合ったときの静かな空気――。


"偶然" だと言い聞かせるほど、心が否定する。


(また会えたら……)


でも、待っているだけじゃ、本当にただの偶然で終わってしまう。


「……うん」


思い切って、スマホを手に取る。


カフェのアプリを開いて、来店履歴を確認する。次のポイントが貯まるまで――あと一回。


(そういえば……あの人、どれくらいの頻度でカフェに来るんだろう)


指先が、カフェの営業カレンダーをスクロールする。特に意味はないはずなのに、胸の奥が期待でざわめく。


(もしかしたら、また……)


そう思った瞬間、画面に触れていた指がカレンダーの「金曜日」で止まる。


(……ちょうど、次のポイントが貯まる日か)


偶然?それとも、ちょっとした言い訳?


(でも、やっぱりもう一度会いたいかも)


小さくつぶやいて、スマホを閉じた。次のカフェの日。ほんの少しだけ、楽しみが増えた――。


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