雲より上へ
ひまるぶし
第1話
見上げればどこまでも高いビル。その屋上はどんなに見上げても、決してみることのできない高い場所にある。その屋上から羽ばたくと、願いが叶うのだと伝えられている。羽ばたくためには翼が必要だった。真剣に生きたものだけが、その翼を作ることができるのだという。
1階から200階くらいまでは、農業地域が続く。その上400階くらいまでは、たくさんの工場が並ぶ。さらに上の900階くらいまでは、人々が暮らす住宅地や学校がある。その上の1000階までは、映画館やショッピング、本屋さんなど、物を売り買いする経済空間が続く。ここはビルの中というよりは、ひとつの大きな都市として30万人ほどの人が暮らし、賑わっている。そしてそれより上、1000階以上には特に何もない。まだ開発のすすんでいない、ただただ広い無人の階層が何階も何階も静かに続いている。人のいない区画ではエレベーターも止まっている。その何もない、人ひとりいない階層のことは、誰もビルとはいわない。ただ『塔』と呼ばれていた。塔の屋上までいくにはたくさんの階段があり、自分の足で上がるのには数日かかった。どこまでも続く段差は、行っても行っても空っぽの、まだまったく開発されていない階層を突き抜けていく。最低限機能している空調の音だけが、耳を済ませばわずかに聞こえるだけだ。
この日、市民の入れる一番下の、まだ土の残る階層に、私は一人の男と立っていた。一番下からビルを見てみたいと彼が言ったのでついてきたのだが、ビルの中の風景はどこにいてもそれほど違うものではない。ここは農地なので、ビルを支える柱以外は、畑しかない。どこを見ても土と草、同じ種類の野菜が延々と地面から顔を出しているだけだ。
久しぶりにやわらかい土を踏んだ彼は、棒で土をつつきながら、シッポを振る犬の頭をなでる。食べ終わったパンの切れ端を犬の足元に投げながらつぶやく。
「犬に文字を教えても、読めないよな」
外から見ればてっぺんの見えない高いビルだが、中から見れば、高さ6メートルほどのところに天井があり、ビルの高さなどまるで感じられない。それでもここは農業区画なので、まだ天井は高い方だった。住宅区画では、天井まで3メートルほどしかない。
そんなビルの底といっていい場所から、エレベーターもエスカレーターも使わず一段ずつ階段をあがり始める二人の人影。
その男は、この塔の上から、翼を広げ空を飛ぶのだという。もし飛べなければ、落ちるだけだ。
先を歩く男は、私の友人だった。
「死にたくないさ」
追いかけるように、数段下を進む私に、かれは突然そんなことを言った。私には何のことだかわからなかった。屋上を目指したいといったのは、この男なのだから。
「怖い。けど、いかなくちゃ」
また彼は言った。羽ばたくには翼が必要だ。彼の手にしたぼろ布のような翼に目をやり、私は馬鹿な奴だと思った。上を目指すのだから、怖いのは当たり前だ。大体そんな翼で飛べるはずがない。
翼が完成した時、彼はとてもうれしそうだった。私にはぼろきれにしか見えなかったけれど、彼はそれを宝物みたいに思っていた。
「死にたくないって、誰だって死にたくないさ。生きているのだから」
「君にはわからないさ。普通に生きられる人だもの」
「誰だって普通だろ」
「そうじゃない人もいるさ」
彼がなにか話すたびに、私は腹立たしかった。人生をなめていると思った。だからその階段をさっさと上れと思った。グダグダ言っていないで、上まで行ってそこから飛び降りてしまえと考えていた。そう思う自分が冷たいだなんてすこしも思わなかった。私の考えは普通だし、自分の良識を疑う余地もなかった。ここに来るまでも、私は散々止めたのだ。そんな翼じゃ飛べるわけないと。
まるで一つ一つの階層を目に焼き付けるみたいに彼はゆっくりと歩いた。私はその後をついていく。1000階が近くなると、しばらく倉庫の階が何階かあって、そのあとはデータセンターみたいな場所があって、その後に1階だけ特殊な階がある。そこは人肉を処理している場所だった。亡くなったたくさんの食用の人間や志願した人が、ここに運ばれて処理される。もちろん痛みは感じないし、死刑囚以外は任意だ。身寄りのない老人や、破産した人、事故で障害をもって絶望した人などいろいろだ。このビルの住居者にとっては貴重な肉となる。
それより上には本当に何もない階がずっと続いていた。
ただ柱だけある、広いだけの階層を二人は上がっていく。広いといっても、彼らが生活している階層は、建物でごちゃごちゃしていて、実際に端から端に行くには2、30分ほどの時間がかかる。人気の混雑している階なら1時間以上かかるだろう。けれど、何もない階層を試しに歩いてみたら、数分で端から端まで歩けてしまった。この世界の狭さを知った。
何日目のことだったか、最後の段差を登りきる。そこはうす暗くて、細い通路が続いていた。通路の向こうには、小さく広がった空間があって、その先の小さな部屋で私たちは服を厚着する。それはちょっとした宇宙服のようなものだった。ブーツを履いて、手袋も何重にもする。エアロック式の扉や部屋の意味が分からなくて、そこにおかれていた説明書のファイルを見ながら二人で半日も悪戦苦闘した。要するにこの部屋は気圧を調整する部屋だった。外は地上8000メートルを超えている。気圧も低い。マイナス40度の極寒だ。その部屋の端にある分厚いドアを開けると、そこは高い高い塔の屋上だった。屋上は強化ガラスのドームになっている。足もとは霜によってこおり、寒いけどまだ風の影響は少なかった。ドームの外側は強い風が吹いている様子で、いくつも建てられた巨大な風車が、いきおいよく回っていた。
そこは雲すら見下ろす場所だった。地上の詳細はほとんど見えず、広大な地平線が広がり、下の世界は絵に描いた地図のように小さく見えた。壮大な光景は、よくみると微妙に違う色合いをしていて、雲や大気の層が視界を分けていた。晴れていたから、遠くの山や海まで見渡せる。どこまでも広がる地平線が強調されることで、地面が非常に遠くに感じられ、天井のある世界しか知らなかった私には、空の広がりは圧倒的だった。
二人がドームの出口を探していると、そのドームの中央に小さな神社があるのに気がついた。二人で手を合わせると、ひざまずいた足跡が残る。神社のすぐ近くには、もう何十年も前に壊れてしまったエレベーターの扉が開きっぱなしになっている。そのエレベーターは、さらに上に向かおうとして作られているのに、途中で折れたみたいになって、使えなくなっていた。
そしてドームの外へ出た。世界は何もかもがくっきりしていて、今までの世界がまるで白黒だったように思えた。
塔の端から見下ろすと、遠く下の方に、他の塔のてっぺんがいくつも見えた。その一つ一つに誰かいないかと目を凝らしてみたけれど、どこの屋上にも誰もいなかった。よく見ると窓ガラスが壊れていたり、塔たいだった。
そんな高い場所で、僕たちは空を見上げた。下の階層で窓越しに見るよりも、空はとても深い青で、別世界への入り口みたいだった。
せっかくの青い空なのに、彼は今から飛ぶのだという。死にたくないくせに、飛ぶのだという。彼がつくった翼など、ぼろ雑巾のようなものなのに。
「お前は馬鹿か。死にたくないのなら、死ななければいい。飛べるのはほんの一握りの才能ある人間だけだ」
友人として私がいうと、彼はビルの端のフェンスの向こうから、厚着していた服を脱ぎ始めた。ようやく私は彼の覚悟を理解した。凍りつくような強い風は絶え間ない。ここで服を脱げば、人間の体など、数分ももたないだろう。
「真剣に生きた人間は、翼をつくることができるんだ。才能なんて関係ないかもしれないよ」
それにしてもそんな翼じゃ無理だろうと説得するけれど、彼の心はきまっていた。
「見つからなかった」
彼は手にした翼を背につける。
「なにが?」
「生きていたい理由だよ」
一瞬だった。私は咄嗟に手をのばした 。
彼が羽ばたいた後、空にはなにも飛んでいなかった。
「理由って何だよ」
生きていたい理由とは何だろう。それは様々あるはずだ。簡単なところでは、夢、仕事、恋愛、家族。
考えてみれば、彼はいつもひとりだった。不器用だけどまじめな奴で、いつも一生懸命だった。なにをやっても、どこかうまくいかず、ひとつの仕事を終えると「あなたがいないほうが助かる」とよく言われていた。苦笑している彼を、ボクは何度も励ましたものだ。
彼の父親はよく酒を飲み、よく暴れた。彼の話では、どうやら脳に小さな異変があったらしい。息子である彼にもそれは遺伝していた。でもその異常は、父ほどではないのだと、その話をするたびに語っていた。父親と自分はとても似ているのだと彼はよく話してくれた。そんなことをいう彼は、怯えているようで、見ていると少し辛くなった。
「父さんは何もわかっていない。でも僕は、自分の頭がおかしいって、わかっているんだ」
それが彼のちょっとした誇りだった。一緒に彼の頭の障害の話をするたびに、自分がどんな人間なのかをわかっているのだから、なんとかうまくやれるはずだと、いつも言っていた。自分自身に言い聞かせているみたいだった。
彼は父親を嫌いながら、父の悲しみや怒りをよく理解していた。だから余計に許せなかったのだろう。
彼の知性は人と比べて低くはなかったけれど、注意力がなく、放っておくと、どこかずれた判断をしてまわりを混乱させた。彼は努力家で、時間を惜しまなかったけれど、どれほどの努力をしても、次につながる道にはならなかった。
「千回頑張って、たったひとつ成功させられたら、それでいい」
一つのことが終わる度にそう言っていた。次から次へと何かに挑戦してあがくのだけれど、なにをしても、結局何にもならない。『結果』から見放されているみたいだった。どれほど勉強して知識を身につけても、その知識の使い方がわからない様子だった。
「すみません」
彼はよくあやまった。何かあると、自分がまた誰かに迷惑をかけたと思うらしく、よく考えれば彼に何一つ責任のないことでも、すぐに自分のせいだと思うのが常であった。私が説明して、自分に非のないことをしると、自分を責めた相手を怒るより、誰にも迷惑をかけていないことにホッとしている様子だった。
上手くいかない日々を苦しんでいた彼に、私は一人の女性を紹介した。決して秀でた容姿ではなかったし、少し臆病なところもあるけれど、そのぶん思いやりのある優しい女性だった。あるとき彼は思い切って告白し、その女性と付き合うことになった。しかし彼は無意味に正直であった。せっかく相手は彼に好意を持っているのに、自分の悪いところばかりを話してしまうのだ。すべてを受け入れ愛してくれる人間など、この世界のどこにいるだろう。誰だって汚い部分は見せないようにするはずだ。でも彼はそれを隠そうとしなかった。相手は彼の誠実さに興味をもったが、彼は自分の頭がおかしいことまで話してしまうので、結局は離れていった。
一人にもどった1日は、寂しそうだった。
私は心底あきれた。
「バカだな」
そういう私に
「でも、彼女を僕という不幸から救った」
そういって笑った。そんな話をしたのは、ここから500階も下だっただろうか。それを聞いたとき、私は彼の母親のことを思い出した。彼の母親は、彼の父親と結婚し、彼の親となり、人の母となったわけだが、彼の父親は、人の父にはなれなかった。機嫌が良ければ問題ないが、何か嫌なことがあれば酒を飲んで母や子供を殴り、コップだろうが、時計だろうが、あたりのものを投げ散らかし、翌日には自分のしたことも忘れているような男だった。仕事熱心ではあったけれど、トラブルの絶えない存在だった。
彼の母親は、その男が決して悪い人間なのではなく、世の中を理解できず怯えているだけだと気がついていたので、どれほど理不尽でも夫を嫌うこともなく辛抱強くかばいつづけた。父親はそれに甘えて、ただ酔っぱらって怒鳴りつけたり、酔っていない時は、人をうらやんで、自分の不幸を嘆くばかりだった。
彼が言うには、彼の母親は、彼の父親の妻ではなかった。父親の思い付きで行った数々の行動のしりぬぐいをさせられている、妻というよりは保護者的存在であったのだという。善良であったぶん、その人生に安らぐ時間はなく、いつも酔っぱらっている父親がケガをしたり、誰かに迷惑をかけたりしないかと心配して、気を配っていた。そして休む暇もなく人生を終えた。
たぶん、彼は隣にいてほしい女性を見つけたとき、思ったのだ。彼の父親が、彼の母親の人生をうばったように、自分と一緒になるものを、自分が不幸にしてしまうのではないかと。
おろかな彼は、自分にある可能性など少しも信じないで、みずからは人を不幸にする人間なのだと決めつけていた。でもそれも仕方なかったのかもしれない。彼はいろいろなことを試し、そのたびに失敗を繰り返し、時間ばかりを無駄にして、そんな自分を許すことができないでいたのだから。彼は努力をしたけれど、その努力は彼には可能性がないことを証明し続けているだけだった。彼ほど自分自身を嫌っていた人間はいない。彼は他人の失敗に腹を立てることはなかったけれど、自分の失敗にはいつも失望していた。どんなに気をくばっても、同じ失敗を繰り返す自分のことを許せないでいた。
私はいつもそばにいたから、いつか彼がビルの屋上を目指すだろうと、何となくわかっていた。彼が翼をつくっているのも知っていたから、彼がいつか羽ばたくことも気が付いていた。だけど本気で止めようとは、たぶん思っていなかった。見当外れでも、いつも生きる努力を続けていたから、まさか死ぬとわかっていて、飛ぼうとするなんて思えなかったんだ。けっきょくは諦めて引き返すだろうと思っていた。
でも本当は、彼が飛べるのかどうか確かめてみたかったのかもしれない。そう気がついたのは、彼が踏み切って、私がこの場に一人になってからだ。今は後悔しかないが。
「見つからなかった」
「生きていたい理由だよ」
たった二言、そういっただけで、彼は簡単に踏み切った。本当にバカだと思う。普通はもっとためらうものだろう。手首を切る人間だって、ためらった傷を何度も残して、最後の最後に本当に切るものだ。
私にはまだたくさんの引きとめる言葉があった。未来がどんなに明るいものか、報われない努力も決して無駄ではないこととか、生きていることの尊さとか、生きていればいつだって新しい出会いがあることとか。たくさんたくさん考えていた。でもなに一つ伝える暇はなく、彼は踏み切った。
「生きていたい理由が見つからないって。じゃあ、死にたい理由はあったのかよ」
フェンスの向こうには誰もいなかった。空を見上げても誰もいなかった。
強い風は吹いていたけれど、翼に風をたくわえ、空を飛ぶ人の姿はどこにもない。
自分が伝えようとした言葉の数々がとても馬鹿らしく、むなしいものに思えた。
もし彼の知性がもっとひくくて、自分の愚かさにすら気がつけないほどだったらどうだったろうか。なにもしらず、幸せになれただろうか。それとも、彼の父がそうであったように、世の中を理解できず苦しんだだろうか。どちらにしても、そこにしあわせはないように思える。
「犬に文字を教えても、読めないよな」といったあのとき、私はくだらない説教をした。
「文字は正しく並べなければ言葉にはならないさ。でたらめに並べても、それはただの 『音』 にすぎない。知識も同じことだよ。たくさんの知識をたくわえても、それはただ知っているだけのこと。正しく並べなければ、何ひとつ役に立たないよ」
そんなことは彼の方が嫌というほど理解していたはずだ。
「ああ、そうだな。なあ、もし人間の寿命が1000年あったなら、僕も少しは成長できたかな」
「できたさ。お前はいつも頑張ってる。だから今も少しずつよくなっているよ。1000年もあれば、誰にも負けなかったさ」
「そうか。ありがとう」
人の寿命は短い。あの日彼は、なにを思ったのだろう。
いつだったか、いっそ食用になったらどうだ と聞いてみたことがある。ひどい冗談だ。「それもひとつの生き方かもしれないな」と彼は笑いながら否定した。私は「死にかた」の間違いだろうと思った。
「真剣に生きた人間は、翼をつくることができるんだ。才能なんて関係ないかもしれないよ」
できあがったボロボロの翼を、いつも宝物のように持ち歩いていた。そしてとうとうこの世界から飛び出していった。何の役にもたたないで、誰も救わないで人生を終えた。でもそれは死ぬために飛んだのではない。彼なりに命をかけて生きようとしたのだ。
才能はあるのに、努力をしない人間と、才能もないのに、努力を続ける人間。いったいどっちが幸せで、どっちが不幸な生き方だろうか。私には分からない。でもどちらが正しい生き方なのかは、わかる。
そこに残ったのは、翼をもたない私だけだった。振り返ると、彼の歩いた足跡だけが、まだはっきりと残っていた。
2025_3_20
雲より上へ ひまるぶし @HimaruBushi
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