第5話 ミャーちゃんにお願い




 羽仁麻美弥――通称ミャーちゃん(僕しかそう呼んでいるのを聞いたことがない)の家の目の前には、バス停がある。


 ずらりと並ぶ一軒家の中の一つだから、子供のころは家の区別が難しかった気がするけど、ミャーちゃんの家はバス停の目の前だから、とてもわかりやすかったことをなんとなく覚えている。


 門扉を出て二歩あるけば、停留所があるような場所に家が建っているのだ。小学校のころはあまりその便利さに意識を向けていなかったが、高校に通い出してからは少々羨ましく思っている。


 とはいえ、僕の家も二分ほど歩けばバス停につくから、十分近いのだけど。


 さて、八坂さんからお手紙を貰った日の翌日、僕はいつも利用するバス停には行かず、テクテクと五分ほど歩いて別のバス停に向かった。そう、羽仁麻家の目の前にあるバス停に向かっているのである。


 ミャーちゃんはどうやら僕より早いバスを使っているらしく、朝学校に着くと既に席に座っている彼女の姿を確認していた。それも昨日の話。


 そして、僕の予想通りの時間に、彼女はバス停の前に立ってバスを待っていた。他にバスを待つ人はおらず、彼女一人がぽつんとたたずんでいる。


 制服のスカート丈は、膝より少し上。八坂さんより短く、ギリギリ指導されないぐらいの長さなんだろう。物静かだけど、そういった可愛さは気にしているのかもしれない。


 黒髪のショートカットだが、前髪は視界を遮るように長く、目元を隠している。

 手提げのバッグを両手で持ち、流れる雲を前髪越しにぼんやりと眺めていた。


 しかし、僕の足音に気付いたらしく、ミャーちゃんは横目でこちらを見た。前髪にうっすらと隠れた目が見開かれるのが見えた。


 そしてその瞬間、彼女はバッグをその場に落とし、ひどく慌てた様子で髪を両手で整え始める。寝癖でも放置してきたのだろうか。パッと見た感じ、乱れている様子はなかったけど。


「えっと、久しぶりだな。みゃ――羽仁麻さん」


 うっかり小学生のころの癖に引っ張られそうになったけど、事前に『羽仁麻さんって呼ぶぞ』と何度も自分に言い聞かせていたおかげで、なんとか修正することができた。


「――う、うん。久しぶりだね、い、伊織くん――でいいのかな?」


 ミャーちゃんは必死にクシクシとハムスターが毛づくろいをするように身だしなみを整えている。すでに整っているのに。


「そうだな、僕は伊織くんだ。ついでに言うと伊織一葉くんだ」


 もしかして名前を忘れていた……? ま、まぁミャーちゃんは僕のことをずっと『カズくん』と呼んでいたし、苗字が印象に残っていなかったのかもしれない。


 ちょっと心に傷を受けたけど、まぁ僕も昔の記憶はすぐ忘れてしまうので、人のことは言えないんだよな。小学校の頃のクラスメイトの名前なんて、ほとんど覚えていないし。


「同じクラスになるのは、小学校四年生以来だな、またよろしく頼むよ」


「う、うん! またお話をしてもいいの? 迷惑じゃない?」


「? なんで迷惑になるんだ?」


「だ、だってわたし、伊織くんみたいに明るい人じゃないから、一緒にいたら伊織くんの迷惑になるかなって……」


「もしかして、それであまり話さなくなってたの?」


 そんなことで迷惑に思うなんてあるわけないだろうに。そしてそんなことは、僕を知るミャーちゃんならわかっていると思っていたが。はっきり口にしなければ伝わらないってやつかな?


 なんて思っていたけど、それは少し違うようで。


「そ、それは違うよ。小学校のころはクラスが離れちゃったし、伊織くんは男の子とよく遊んでたから。中学校はわたし、伊織くんみたいに頭がよくなかったし、ずっと勉強してたの。高校に入ってからは、そういうことも、ちょっとだけ考えたりしてたけど」


「なるほど……まぁとにかく、羽仁麻さんが心配するようなことはないよ。僕がそんなこと気にする人間に見えるか?」


 僕がそう言うと、ミャーちゃんは「んへへ」とトロンとした蕩けるような笑みを見せた。


「――全然見えない。やっぱり、伊織くんは伊織くんのままなんだね」


「それこそ僕のセリフだ。羽仁麻さんのその笑いかた、僕好きなんだよなぁ」


「んへへ、知ってる」


 なんで知っているんだろうか。もしかして小学校のころの僕も、同じことを言っていたのかもしれない。いや、かもしれないじゃなくて、言ってそうだ。僕言いそうだもん。記憶にないけど。


 ミャーちゃんは嬉しそうに頭を左右に揺らしたあと、僕の背後に目を向けて「バス来たよ」と口にした。


 後ろを振り返ると、もうすぐ傍までバスがやってきていた。音も聞こえていたはずなのに、意識が前方に向きすぎて気付かなかった。


「学校まで一緒に行っていいの? 本当に迷惑じゃない?」


「もちろんだとも。というかそのつもりでこのバス停まで来たんだぞ。ここまで来て別々に登校はないだろ」


「それもそっか」


 彼女はそう言うと、ニコニコしたままバスに乗ろうとする。通学のバッグはその場に置き去りにしていた。彼女は彼女で、バスや僕との会話に集中して足元がおろそかになっていたらしい。


 相変わらずのそそっかしさにまた僕は笑って、バッグを拾い上げてバスに乗り込んだ。


「バッグ忘れてんぞー」


 乗客はまだ二、三人ぐらいしかいなかったので、恥ずかしげもなく声を掛ける。寝ているサラリーマンの人がいたので、声は忍ばせて。


「あぁっ! ご、ごめんね伊織くん! あ、ありがとう!」


 僕からバッグを受け取ったミャーちゃんは、その後流れるような動作で僕を空いていた二人席に「どうぞ」と誘導する。


 お礼を言いながらその場所に座ると、バッグを胸に抱える。てっきりミャーちゃんが横に座ってくるかと思ったのだが、横を見てみると彼女はつり革を持っていた。


 しかも、めちゃくちゃニコニコしている。僕を座らせただけですごく満足しているような感じだった。なんでだよ。


「羽仁麻さんは座らないの? 座りなよ」


 バスで立つことで体幹を鍛えている――とか?


「わ、わたしも座っていいの? 隣に?」


「うん。羽仁麻さんが気にするっていうなら後ろに座ったりしたらいいんじゃない? まだガラガラなんだし」


「ちょ、ちょっと待ってね」


 動き出したバスの中、ミャーちゃんは制服や腕などに鼻を近づけて匂いを確認していた。どうやら匂いを気にしているらしい。体育のあとってわけでもないのだから、気にすることも無いと思うが。


「わ、わたし臭くないかな? 変な匂いとかしない?」


「そんなことないと思うぞ? というか、ほのかに石鹸の匂いがするぐらいだ」


 僕の好きな香りである。室内用の消臭剤とかも、ラベンダーみたいな花の匂いはちょっとくどく感じてしまっているから、いつも『石鹸の香り』という物を使用している。


 小学生のころから、母さんに『洗濯に使う洗剤は石鹸の匂いのやつがいい』とお願いしていたほどだ。


「じゃ、じゃあお邪魔します」


 彼女はおずおずと、僕の隣に腰を下ろして、バッグを抱きかかえる。八坂さんより大きな胸が、ぎゅっと潰れた――って、僕は何を観察しているんだよ。


「ところで羽仁麻さん、近々もしかしたらキミにお願い事をするかもしれないんだ」


「うん、わかった。わたし、なんでもするよ!」


 まだまったく内容を聞いていないのに、ミャーちゃんは満面の笑みを浮かべて即座に返答した。


 彼女が昔の僕に恩義を感じているのは知っているが、もうかなり前の話だぞ? そろそろ恩返しは終了してもいいと思うんだがなぁ。




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