悪魔を啜る

結城からく

第1話 自殺少女と恐怖マニア

 あと一歩で死ねる。

 雑居ビルの屋上に立つ私は、冷めた目で地上を見下ろしていた。

 通行人が歩いている。頭上にいる私のことなど見向きもしない。

 きっと気付いてもいないだろう。


 誰もが他人事なのだ。

 別に何も思わない。

 とっくに分かり切っていることだった。


「そりゃそうか。私だって誰のことも見ていないし」


 ふとぼやいてみる。

 余計にむなしくなるだけだった。

 馬鹿らしいことをしたと後悔した。


 私はしばらく地上を眺める。

 目まいを感じるような高さだ。

 気を抜くと足元から震えが上がってくる。


 今は少し慣れたけど、最初は怖すぎて動くことができなかった。

 テーマパークの絶叫マシンとはまったく感覚が違うのだ。


 ――落ちたら死ぬ。


 呪文のように念じながら地上を見つめる。

 このまま前に倒れればいい。

 そう、分かっている。

 頭では理解しているのに進めない。


 ため息を吐いた私は視線を水平に戻す。

 空は夕暮れ色に染まりつつあった。

 もうすぐ夜が訪れる。

 街の輪郭を鈍らせる薄暗さが心地よかった。


 昼間は明るすぎるのだ。

 はっきりと見えない方落ち着ける。

 周りの目を気にせずに済む。


 私は夕闇の中で自分に命令する。

 今だ、飛び出せ。


 ほんの数秒の我慢で楽になる。

 何も考えなくていい。

 ただ力を抜いて落ちるだけだから……。

 何度も自分に言い聞かせる。


 しかし、身体は固まって動かなかった。

 目から流れた涙が頬を伝っていく。

 ねばついた自己嫌悪が胸の底にたまる。


 たった一歩が難しい。

 どうしても前に出ることができない。

 この期に及んで私は怯えている。

 揺らぐ決意が音を立てて崩れていく。


 早く飛び降りたい。

 何度も自分の心を確かめた。

 それなのに動けないのはなぜなのか。


 私はどこまでも中途半端なのだった。

 今も昔も。

 きっとこの先も。


 右から突風が吹いた。

 私は反射的にセーラー服を押さえると、ビルの縁の段差から後ろに下がった。


 死から二メートルほど遠ざかった。

 よかった、と安堵する自分に気付いた。


 無意識に歯噛みした。

 やっぱりそうだ。

 今日も死ねなかった。


 一カ月も前から、私はボーダーラインでもたもたと苦しんでいる。

 これがある種の日課となっていた。


 私はこれから帰宅して、電子レンジで温めた冷凍食品を食べる。

 それかカップ麺だ。

 テレビを観ながら宿題をして風呂に入ってベッドに入る。

 眠れないまま二時間くらい考え事をするうちに、いつの間にか意識が落ちるだろう。

 朝は遅刻しない程度の時間に起きて学校の支度をする。

 苦痛な時間を我慢して、放課後は再びここに来る。

 その時も飛び降りることはできないと思う。


 ずっと繰り返すのだろう。

 私は先に進むことができない。


 迷ったふりをしてただ流されるばかりだった。

 自分で決められないから苦しんでいる。

 決めたところで苦しいのかもしれないけれど。


 私はぐっと伸びをした。

 ぽきぽきと背中の骨が鳴る。

 緊張で身体が凝り固まっていたらしい。


「もういいや。明日また試せばいいし」


 そう呟いて非常階段に向かおうとして、私は足を止める。


 階段を上り切った場所に男が立っていた。

 たぶん二十代後半くらいで、ワイシャツの上に白衣を羽織っている。

 下はカーゴパンツでスニーカーを履いていた。


 医者なのか。

 でも、なんとなく違うような気がする。

 根拠はなく、ただの直感だ。


 男の顔は特徴が無く平凡で、なんとなく憶えづらそうだった。

 イケメンと言えるかもしれないけど、どうにも印象が薄いビジュアルである。

 本当にただの顔って感じだ。


 男は眠たそうな目で私を見ている。

 口元にはあるか無いか分からないくらいの笑みが張り付いていた。


 ただなんとなく唇を曲げてみただけ。

 男の笑みはそんな風に感じられるものだった。

 きっと心がこもっていないのだろう。


 男はなぜか中年のサラリーマンを引きずっていた。

 縄で縛って動けないようにして、スーツの襟を鷲掴みにしている。


 サラリーマンの口にはタオルが詰め込まれていた。

 一生懸命に呻き声を上げているが、何を言っているか分からない。

 そんな状態で白衣の男は屋上まで上がってきたのだった。


 私は血の気が引いていくのを自覚する。


(何あれ。人を引きずるって犯罪じゃ……)


 頭が上手く回らない。

 たぶん混乱しているのだと思う。


 私はここに自殺をしに来ただけだ。

 どうして犯罪現場に鉢合わせないといけないのか。


 ポケットに入ったスマホの感触で少し冷静になる。

 そうだ、通報しないと。

 とにかく警察を呼んだらなんとかなるはず。


 私はスマホに手を伸ばそうとして止まる。

 通報のそぶりで白衣の男を刺激したら、今度はこっちに被害が及ぶかもしれない。

 あんな風に掴まれて引きずられるのは嫌だ。

 暴力に巻き込まれたくない。


 赤の他人のサラリーマンを助けられるほど、私は勇気のある人間ではなかった。

 それだけの勇気があれば自殺なんて考えないだろう。


(どうすればいいの……)


 頭の中がぐちゃぐちゃになってきた。

 すべてを投げ捨てたい衝動に駆られる。


 混乱と恐怖で大声を出したくなったその時、唐突に白衣の男が片手を上げた。

 男は笑顔で私に挨拶をしてくる。


「どうも、こんにちは。良い天気ですね」


「えっ、あ……」


 頭が真っ白になって言葉が出ない。

 私はただ口を開けてぱくぱくと動かした。

 まさか向こうから普通に話しかけられるとは思わなかった。


(答えた方がいいの……かな……)


 私は判断に迷う。

 早く返事をしないと。

 挨拶を無視していると思われるのはまずい。

 でも緊張でまともに話せそうになかった。


 下手なことを言ったら殴られるかも。

 挨拶を返した瞬間に首を絞められるとかも。

 悪い想像がどんどん思い浮かんでしまう。


 焦れば焦るほどパニックになり、胃が浮くような気持ち悪さを覚えた。

 逃げるにしても非常階段の前に白衣の男がいる。

 素直にどいてくれるとは思えない。

 そもそも近付きたくなかった。


 私の後ろは空が広がっている。

 逃げるスペースなど存在しない。


 背中を見せて走り出すと飛び降りることに……いや、それでいいんじゃないか。

 私はずっと自殺したかったんだし。

 ようやく成功するわけだ。


 頭の中をぐるぐると考えが巡る。

 たぶん実際は十秒も経っていなかっただろう。


 色々と迷った挙句、私は白衣の男が引きずるサラリーマンを指差した。

 指先の震えを見ながら尋ねる。


「その人、大丈夫なの」


「ああ、お気にならず。財布を盗まれたので殺そうとしているだけです。あなたのお邪魔はしませんよ」


 白衣の男はあっさりと言った。

 まるで世間話のような口調だが内容は物騒である。


 殺そうとしている、と言った。

 冗談めかした感じもない。

 きっと本気でやるつもりなんだろう。


 サラリーマンも今の言葉を聞き取ったのか、びくりと反応して震えた。

 今にも泣き出しそうな顔をしている。

 それで平然としている男の姿が何よりも不気味だった。


 白衣の男は私の前まで歩いてきた。

 縛られたサラリーマンは、くぐもった声を洩らす。

 尻がコンクリートに擦れて痛いかもしれない。

 白衣の男は気にする様子もなく引きずっていく。


 あーあ、高そうなスーツなのに。

 現実逃避なのか、ついどうでもいいことを考えてしまった。


 白衣の男は嬉しそうにサラリーマンを持ち上げる。

 ふらつくこともなく支えている。

 あまり筋肉はなさそうなのにすごい力だ。


 白衣をはためかせながら男は私に言う。


「そうだ。せっかくですので飛び降りの参考にしてみてください」


 白衣の男は屋上の縁に立った。

 ここからサラリーマンを投げ落とすつもりなのだ。

 飛び降りの参考と言ったので間違いない。


 サラリーマンもそのことを察したらしく、芋虫のように身体を動かして抵抗していた。

 そんなに暴れたら、どのみち落ちてしまうんじゃないか。

 私の心配とは裏腹に、白衣の男はまったく放しそうになる気配がない。

 襟元と尻のベルトをしっかりと掴んでいた。


 男はサラリーマンに対して気軽に告げる。


「遠慮しなくていいですよ。ここはド派手に死んじゃいましょう」


 死の宣告を聞いたサラリーマンの反応がひときわ大きくなった。

 真っ青な顔で激しく首を振って拒んでいる。


 白衣の男はそれを無視して振りかぶった。


「良い恐怖を見せてくださいね」


 サラリーマンが投げ落とされた。

 私はなぜか顔を背けず、その行方をじっと見つめる。


 スローモーションのような動きでサラリーマンが落ちていく。

 どんどん小さくなって、地面に激突した。

 肉の弾ける音がここまで響いてきた。


 サラリーマンは車道の少し手前に落ちていた。

 薄暗くて見えづらいけど、真っ赤な血が飛び散っている。

 掃除が大変そうだと思った。


 瀕死のサラリーマンは首と足先を緩く動かしている。

 まだ生きているのだ。

 声は聞こえないけど何か言っているかもしれない。

 とても苦しいのは見て分かる。


 たぶん助からないだろう。

 苦しむだけ苦しんでから死ぬんだ。


 通行人が悲鳴を上げていた。

 サラリーマンから逃げるように走り去っていく。

 一部の人はスマホを向けて写真や動画を撮っていた。

 人だかりがどんどんできて大騒ぎになる。


 いつの間にか私は尻餅をついていた。

 膝が笑っている。

 立とうとしても力が入らない。


 脳裏ではサラリーマンが落ちる光景が何度も再生されていた。

 肉の弾ける音も反響している。


 白衣の男は身を乗り出して地上の様子を覗いていた。

 その横顔はやはり薄い笑みを浮かべている。


 何がおかしいのか。

 いや、この状況を引き起こした張本人からすれば、さぞ楽しいのだろう。


 男は地上を指し示すと、さも教師のような口ぶりで私に解説する。


「ほら、痛そうでしょう。この高さだと即死できない場合があります。確実性を優先するなら、もう少し高い建物を選ぶといいでしょう」


 男は大真面目に語っていた。

 どこか嬉しそうなのは気のせいではあるまい。


 一人の命を奪っておきながら、呑気に飛び降り自殺について喋っている。

 私は込み上げる吐き気を我慢する。

 それに集中することで、辛うじて精神の崩壊を防いでいた。


 小刻みに震える膝を押さえながら私は男に問いかける。


「ど、どうしてこんなことを」


「先ほど言ったでしょう。彼は僕の財布を盗みました。その仕返しです。あとは恐怖を見るためですね」


「恐怖……? いくらなんでも、ビルから投げ落とすのはやりすぎでしょ」


 私は批難を込めて言うも、男は不思議そうに首を傾げる。


「どうですかね。僕は妥当だと思ってますよ。危うくお昼のラーメンが食べれなくなるところでした」


 白衣の男は困ったように腹を撫でる。

 冗談を言っているのかと思いきや、本人は至って真面目な調子だった。


 確かに財布を盗むのは犯罪だ。

 しかし、その罰で死なないといけないのは重すぎるのではないか。


 考える私の前で男は屈むと、サラリーマンの落ちた先を笑顔で指差した。


「さて、あなたの番ですよ。好きなタイミングでどうぞ。僕が見届けましょうか。それとも一人で飛びたいですか。場所を変えるならおすすめのスポットを紹介しますが」


「む、無理……できない」


 私は何度も首を振る。

 正気とは思えない、とんでもない提案だった。


 あんなふうに死ぬのは嫌だ。

 飛び降り自殺のリアリティを目の当たりにした今、その後を追えるほど私は壊れていなかった。


 男は意外そうな表情で頬を掻く。


「おや。飛び降りるのが恐ろしくなりましたかね。これは失礼しました。お邪魔をしてしまったようで」


 苦笑した男はあっさり引き下がる。

 どうやら無理強いまではしないようだ。


 私はそのことに胸を撫で下ろし、そんな自分に嫌気が差した。

 男はそのまま非常階段へと歩く。

 こちらを見向きもしなかった。

 てっきり目撃者の私は殺されてしまうかと思ったけど、その気はないらしい。


 何事もなく白衣の背中が離れていく。

 そのうち私は無性に苛立ちを覚えた。


 なぜだろう、せっかく命拾いしたのに。

 その理由を考える間もなく、私は立ち上がって口を開いた。


「待ってよ。あんたのせいで私は自殺できなくなった。責任を取って」


「ほう、責任とは?」


 振り向いた男が問いかけてきた。

 私は少し後悔するも、勢い付いて答える。


「さっきの人みたいに私を投げ落としてよ。それなら途中でやめたくなっても関係ないし」


 私は両手を広げて偉そうに要求する。

 後悔はさらに強まった。


 とんでもないことを言ってしまった。

 取り返しのつかない発言である。

 また足腰から力が抜けそうになる。


 自分から殺してほしいと懇願してしまった。

 我ながら正気を疑う。

 現時点で冷静ではないのは確かだ。

 目の前で人が死んだのだから落ち着いていられるはずがない。

 一周回って笑ってしまいそうになる。


 そんなことより白衣の男だ。

 頭がおかしい奴なのは間違いない。

 それはここまでの言動で明らかだった。


 きっと私のことなんて簡単に殺すことができる。

 どれだけ抵抗しても、さっきのサラリーマンのように地面に激突するのだ。

 そして苦しみながら血に溺れて息絶えるのだろう。


 自分の想像に怯えていると、白衣の男が近寄ってきた。

 笑顔を消して私のことを凝視してくる。

 白衣も相まって研究者のような眼差しだった。


 投げ落とされる。

 笑顔のまま殺される。


 そう思って反射的に身構えたのに、男が私に触れてくることはなかった。

 肩をすくめた男は残念そうに何度か首を振ると、固まる私に告げた。


「駄目ですね。お断りします」


「どうして。今更ビビッてんの」


 また挑発してしまった。

 私は馬鹿だ。

 男は腹を立てることもなく、不自然なほど優しい口調で諭してくる。


「あなたの抱く恐怖が未熟だからです。死ぬべきか迷っているせいでしょうね。本当は生きたいのでは?」


 その指摘に鼓動が速まった。

 言葉に詰まって何も言い返せなくなる。


 私はついかっとなって男を突き飛ばした。


「……知ったような口を利かないでよ!」


「これは失礼しました。図星でしたか」


 男は穏やかに応じるばかりで、私の怒りなど興味ないかのようだった。

 ちっとも動じた様子が無い。


 実際にどうでもいいのだろう。

 態度からして丸分かりだった。

 この優しい態度も、関心がないからこそなんだと思う。


 簡単に人を殺すくせに、私には見向きもしないのか。

 あまりにも相手にされていないので、なぜだかすごく悔しくなった。

 その気持ちもたぶん伝わっていない。


 不思議そうに首を傾げる男だったが、何かを閃いたように手を打った。

 何かを思い付いたらしいが、きっと碌なことじゃない。

 そう予想する私に、男は晴れやかな笑顔で提案する。


「それでしたら、あなたが迷いなく自殺をできるお手伝いをしましょうか。きっと気に入っていただけるはずです」


「何をするの」


「様々な恐怖の形を知ってもらいます。未知だからこそ怯えてしまうのです。恐怖を理解すれば、悔いのない有意義な自殺ができると思いますよ」


 男は胸に手を当てて自信ありげに述べる。

 それにしても自殺の手伝いとは、やはり常軌を逸している。


 恐怖の形というのがよく分からないけど、少し面白そうだと思った。

 有意義な自殺に惹かれたのかもしれない。

 まさしく今の私が求めているものだった。


 何より、男の態度が良い。

 私みたいな人間に対して真摯に接してくれる。

 たとえそれが無関心から来る態度だとしても、悪い気分にはならなかった。


 私は自分で思っているよりも寂しさを感じているらしい。

 だから、この危険すぎる男の提案に魅力を覚えてしまった。


 これはもう、認めよう。

 私は誰かの協力を欲していた。

 殺人犯でも構わないのだ。


 そこまで分析した私はストレートに尋ねる。


「あんた、変な奴って言われない?」


「よく分かりましたね。ひょっとして、エスパーですか」


 男は驚いた顔をした。

 演技とかふざけているわけではない。

 本気でそう考えたらしい。


 さすがに私は笑ってしまった。

 涙を出しながら声を上げる。

 屋上で寝転がってただひたすら笑いまくった。


 緊張の糸が切れたのか、もしくは感情的に吹っ切れたのか。

 とにかくこれだけ笑ったのは久々だった。

 この狂った状況で心が壊れてしまったのかもしれない。

 自分でもよく分からなかった。

 それでもいいと思った。


 ひとしきり笑った私は上体を起こす。

 涙を拭いて呼吸を整えていると、男が話を再開させた。


「それで、どうしますか。恐怖への理解を深めるという形でしたら力添えできると思いますが」


「じゃあ手伝って。私が安らかに自殺できるように」


「かしこまりました。短い間ですがよろしくお願いします」


 白衣の男は丁寧にお辞儀をする。

 この瞬間、私は奇妙な世界に迷い込んだのだった。

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