列車、雪
獣乃ユル
列車、雪
日光が山並みに沈み、車窓の外に目を向ければまだ仄明るい藍色の空が広がっている。
その視線を少し下ろしてみれば、がらんとした駅のホームが広がっていた。
ベンチに座って無気力にスマートフォンを弄る若者も、何やら忙しそうに電話先の誰かと会話するサラリーマンもいない。
人影はなく、ぽつりと灯った自動販売機の光のみがあった。それを何の気なしに眺めながら、一つ息を吐いた。
正午過ぎから降り始めた雪は勢いを増し、しんしんと積もっていっている。眼前に置かれた駅と止まない雪は、僕の腹の中にある得体のしれない孤独と、不安と、寂寥感を表しているかのようでもあった。
珍しいことに、電車の中にも人はいない。それもまたこの狭い鉄の蛇で外界と隔離されてしまったかのような疎外感を増長させ、どうにもならないままに少し呼吸が浅くなった。
でも、もう良いのだ。そんなことを気にする必要はもう自分にはないのだから。
僕は今日死ぬ。いや、それは今日であるのかもしれないし、明日であるのかもしれない。
ともかくこの鞄の中、その財布の口の中に仕舞われた金を使い切った頃に、冷えた海の中にでも体を投げようと思う。
思い返してみても、特に死にたい理由はない。だが、生きたい理由も特に見当たるわけではなかった。強いて言えば、それが死ぬ理由なのだろうと思う。
この卑俗で、曖昧かつ強烈に退屈な世界が、嫌になってしまっただけなのだ。
そこまで考えて、首を振った。
正確に言えば、そうですら無い。
遥か昔この世界で生きていたらしい偉い人が言ったように、それはただ漠然とした不安のせいだった。
将来への不安だとか、自己嫌悪だとか、人間関係の煩雑さとかだとかが心臓のあたりに絡みついて、じんわりと押さえつけられているだけの人生であることとが、吐き気がするほど嫌なだけだ。
ならばせめて、最大限迷惑をかけて死のうと思った。連絡もなしにぽつんと消え去った僕を、僅かな間彼らは探さなければならない死に様を選ぼうと考えた。
生前は僕に興味もなかったくせに、物言わぬ死体となった僕を追いかける羽目になる彼らのことを思うと、愉快で仕方がない。
程よく温まった缶コーヒーを口に運びながら、背もたれに体重を預ける。
偏屈でどうしようもない思考だとはわかっているが、それももう仕方がない。まっすぐ、清廉潔白で非の打ち所のないような性分だったのなら先ず僕は自死を選びはしていない。
だから、これも決まっていたことなのである。
何処が終着かも知らないこの電車に乗って、僕は結末の決まった旅に出ることにした。
「……ん」
僕が思考にそんな結末をつけるのが早いか、駅のホームに生えた階段に一つ影が落ちた。それはドタドタという擬音が似合うほど激しく、階段を下ってくる。
発車するまでの暇を持て余していた僕は、吸い込まれるようにそれを見た。
先ず、たおやかに揺れる黒髪を見た。純白に染まった雪景色を斬り裂くような、艷やかな黒である。
次に、彼女の全容を見た。何処かの制服であろう漆黒のブレザーに身を包んでいることから、学生なのだろう。
そんなことよりも。彼女の周りの雪が融解しているのではないかと思うほどはっきり、その姿は異様なほどに目立っていた。
あどけなさと、それを塗りつぶすような美しさ。暴力的なほどに美しい人間が、いた。彼女は急ぎ足のままに電車に駆け込む。
それに合わせるように、車窓の景色が横へとズレ始めた。慣性で軽く椅子へと沈み込み、ずんと重い圧力を体に感じた。
偶然、彼女は僕と同じ車両に入ってきた。扉の前で動けないままに荒れた呼吸を押さえつける彼女だったが、思い出したかのように周囲を見渡す。
最初にこの車両を、そして隣、その反対の車両を認識し終わった頃に、ようやく乗客が僕という得体のしれない男と自分であることに気づいたようだった。
未だきょろきょろと眼球を彷徨わせる彼女を一瞥し、また外を眺めた。
不思議なことに、こんなにも美しい彼女を見て特に心は動かなかった。十数年間の人間生活で育んだ美意識でそれを美麗だと認識できただけ、とも言えるだろうか。
思うことと言えば、出来るだけ早く彼女の目的地に電車がつかないか、ということであった。
孤独で、閑散としていた電車内が僕は好みであり、人間がひとり加わったせいでそれが崩れてしまったからだ。
つまるところ、彼女に早く立ち去ってほしいという願いのみが胸中にはあった。
「あの」
しかし、世は無常というべきか。
彼女は何故か広いこの空間の中で僕の対面を選び、あろうことか話しかけてきたのである。途端に喉に湧き上がってきた暴言と怒号を飲み込み、返答を吐き出す。
「何か?」
「いえ。随分珍しい状況であるものですから、同乗者の方にも気持ちを聞いてみたくなりまして」
「まぁ中々見ないものではありますけどね。二人しか乗っていない電車なんて」
にこやかに語りかけてくる彼女を見て、わざとらしく溜息を吐いた。それでも微笑を続ける彼女。
そこで、絶望的な事実をいっそ清々しいほどに認識する。恐らく彼女は会話を止める気はない。しかも、其れを僕が嫌悪していることを今しがた感じ取りながらもである。
「正直なところ、たった独りの状況を汚されてしまったという気持ちしか無いのですが」
「酷いことを言いますね。泣いてしまいそうです」
「思ってもいないでしょう」
彼女は僕の悪態を受け、肯定するように嗤った。その態度はまさに、僕が嫌悪する成功者のものであった。
ピンと張った背筋、紡ぐ言葉を伝えるための通りやすい声質、自身に満ち溢れたその所作。彼女を構成するべくそこにある全て、退廃からは生まれないものだけであった。
それでいて、僕と似ている女であった。同類は言葉を交わした瞬間、いや眼を合わせた途端に、そうであるとわかるものだ。
僕と彼女が抱えた呪いは、意地汚く、気色の悪い性根だ。ニヒリズムに似た冷笑を抱えておきながら、眼の前の無様を嘲笑うことに意味を見出す矛盾と二律背反の批判者である。
溜息が肺を埋め尽くしていくのがわかる。こんなときに、同類とは出会いたくない。
「貴方の行き先は?」
「特にありません。無理に上げるとすれば、遠くということしか」
「放浪ってやつですか。粋な人もいたものですね」
一言一言癇に障るが、その言葉に対して憤怒を湧き上がらせようという気力さえもなかった。
加え、彼女は恐らくわざわざそんな言葉を選んでいるのだから、怒ればこの女の思い通りである。
それはともすれば、彼女の言葉よりももっと癇に障ることだった。
「貴女は?」
「ご覧の通り、学校の帰りです」
軽く自分の体を指差す。制服を着ている自分を見せつけているのだろうが、何故かその目つきは軽蔑と嫌悪に溢れていた。
制服、それに縛り付けられた自分を否定したがっているような、そんな視線だ。
「家までは中々の距離があるもので、話し相手がいて助かりました」
「友達とでも話せばいいでしょう?」
「それも見てわかる通り。こんな性分ですから、友人と呼べる相手などいないのです」
「そうですか?貴女が心を許していないだけなのでは」
「……どうしてそうお思いに?」
「貴女のような人はよく知っています。そういう人間ほど、人前では損得に囚われて善人を演じる。善人というか、ここでは人気者ですね」
明らかに、彼女は奥歯を噛み締めた。侮辱されたのなら素直に激情すれば良いものを、相手を下に見ているものだから正直に感情を吐露することもできない。
そこまで含めて、自分を見ているようだった。飼い鼠に指先を齧られたような不快感をにじませたかと思えば、おもむろに彼女は微笑んだ。
それは今までの気に障るようなニヒルな笑みではなく、ある意味人間らしい笑い方だった。
「随分嫌な人ですね」
「あなたも」
僕もいつの間にか嗤っていて、肩の力が指先へと流れ、霧散していくのがわかった。
こうなってしまえば、腹のさぐりあいのような会話をする必要もない。初対面の相手を侮辱し、軽蔑するような屑が二人いることがわかったのだから。
「やり直そっか。お兄さんは何処に?」
気色の悪い口調を脱ぎ捨て、通常通り会話を始める。
その彼女の姿を見て、何処か親近感とも懐古とも呼べない温い感情が湧き上がった。いつもこうして会話をしていたような気さえしていた。
「死にに行く。できれば、僕に興味のなかった人が探さなきゃいけないくらいひっそりと、静かに死ぬ」
「自殺かぁ。動機は復讐?」
「そんなものかな。そうとも言えないかもだけど」
「ふぅん」
彼女はずっと僕の瞳を見ていた。深淵めいて淀んでいる黒い瞳が、僕の心境を見透かすように光っている。
そこでようやく、僕の興味が彼女に向いた。似て非なるこの気色悪い人間は、どんな要素で構成されているのか。
桃色の脳に仕舞われた思考や記憶が、どうできているのか。
好奇心が口を突き動かした。
「君は?」
「私は変わらない、家に帰るだけだよ。何百回も繰り返した通り、この壱時間と少しの帰路を繰り返す」
「……学校が嫌い。いいや、それに甘んじている自分が嫌い?」
「その通り。やっぱり、経験ある人でしょ」
「ある程度は」
心情を読まれた彼女は、驚いた様子もなく淡々と言葉を受け入れる。あの時、最初に言葉を交わした時。
僕が彼女の性根を察知したのとどちらが早いか、彼女もきっと知り得たのだろう。僕らが似たもの同士であることを。
だからあんなにも憎たらしく、厭味ったらしい言葉を用いたのだ。
それは同族嫌悪のようなもので、相手を試す通過儀礼でもあった。
「思い切ったねぇ、お兄さんは」
「そんなこともない。選んで死んだ奴よりは、もう少し情けない」
言葉にしてようやく心情と理解が釣り合う。僕の決断は、わずかに視点を傾けてみれば決断とも言えないものである。
何処か遠くへ、誰も知らない場所へという原初の逃避願望が形を変えた、何も選ばず、変わろうとしなかったからこその死なのである。
「そうかなぁ。死のうとする時点で大事だと思うけど」
「捉え方次第だろ?」
「それなら、より一層私にとってはそうだよ」
彼女は窓に触れる。揺れる車窓が映し出したのは、一面の白銀世界。
けれど僕が見たのは窓硝子が映し出した憂鬱そうな彼女の表情で、感情であった。掌で掬った泥のように陰鬱としながらそこにぽつんと浮かぶ、絶望だった。
「私にとって列車でしか無いここが、棺になるお兄さんが羨ましい」
「隣の芝生は青いものだな」
「ええ。情けないくらいに」
車窓は二つの虚像を映し出していた。一つは先程行った通りの彼女であって、もう一つは彼女を眺める僕の姿である。
そのモニターが映し出す景色を、苦々しい面持ちで見つめる。だってそれはどうしても、僕が嫌いな世界の縮図だった。
絶世、傾国という言葉が似合う美女がいる。澄み渡った蒼空を彷彿とさせるほど清潔で爽やかな彼女がいた。
一方、まともな様相ではなく、例えば汚れた洗濯物が掛けられた窓辺が並び立つ路地裏のような僕が居る。
だと言うのに、彼女は僕に憧れていた。皮肉にしか感じられないそれを、見届ける。
「自由になりたい、と?」
「望まれることに、苦はないと思う。でも才能と努力が、気に食わないって吐き捨てられる場所でどう生きていけば良いのか、私にはわからない。……有る側の苦悩だって言われれば、否定はしないけど」
その言葉を受けて、僕は雪を幻視した。雪の結晶が入り込むはずのない電車の中で、僕の心にだけ雪が積もっていた。
あの駅に重なっていたのと同じ、寂寥感の結晶だ。そして、世界への嫌悪を核に形作られた、恨み言でもあった。
そうだ。僕は大嫌いだった。
いつの間にやら世界は弱肉強食を捨てた。いや、実際はそうであったとしても、そう認めるのをやめていった。
踏み置かれた弱者は、強者を言葉で貶めることで自分を正当化する。
「世間を構成する殆どは弱者だから、それ以外に厳しいんだ」
「それって、変じゃない?」
「ああ」
対面に座った孤独な強者は、寂しそうに眉を顰めた。僕が嫌いな世界の象徴で、被害者が、そこには居た。
食いつぶされる強者、言葉という鎖で繋がれた捕食者が、居る。
目線をそらす。
そこには雪景色が有る。雪国に住んでいる僕からすれば実際、雪は憂鬱なものにほかならなかった。
雪害を伴う、冬という極寒の季節が齎した障害である。だというのに、人間はそれに異なる意味を見出した。それが美しく、意味のあるものであるかのように。
そこに、何の違いがあっただろう。
彼女と雪景色に、さほど異なる点は無いように思えた。正当化されたものは、何であっただろうか。
「かくあるべし。私達がそう思うのだから、貴方はそうあれ。そうやって世界は回ってるもんだと、俺は思うよ。持たない人間からの視点だけど」
何を隠そう俺は弱者であった。押し付けることに辟易した、図々しくもなれない弱者でしか無い。ごとん、と大きく一度電車が揺れて、俺の体が跳ねた。
彼女は揺れた勢いのままに、座席の上へと突っ伏した。
「……面倒」
「そうだろうな」
泡沫のような、かすれた声で彼女はそう呟いた。
彼女が、遍く強者が歩いていくのはそんな道だ。舗装されたレールの下には、恨み節をつぶやき、車輪に小石を挟む弱者が棲んでいる。
「本当に、本当に面倒。考えれば考えるほど、嫌なことしか無い。面倒くさいことしか、待っていないような気もする」
横に倒れながら、彼女は滔々と言葉を連ねていく。けれど不思議なことに、その口調は上がり調子であった。
何処か楽しむように、慈しむように彼女は舌を動かしていた。
「でもちょっとだけ、今はそれでも良い」
「どうして?」
「お兄さんの言葉が聞けたから」
何やらロマンチックにも取れそうな言葉であったが、耳で聞けばそうは感じなかった。はっきりとした熱と、底冷えするような覚悟を持った響きだった。
「覚悟がなくても、選べなくても、私が羨ましいような場所にいる。なら私もそれで良いんじゃないかなって。選べないまま、私は生きててもいいかなって」
「……そう取るか。死にに行く人間の言葉を」
「捉え方次第、でしょ?」
意地悪く微笑む彼女を、呆然と眺めた。やはりこの女は、意地の悪い女だ。僕が諦めるために使った言葉を態々用いて、諦めない理由にした。
そして、その意志を持って俺の首に選択肢を突きつける。
私はこうする。ならば、お前はどうすると。
そこで、一つの駅にたどり着いた。気づいて居なかったが、どうやら車内アナウンスは行われていたらしい。
加えて、ここは彼女の目的地でもあったようだ。横たわっていた彼女はそろりと立ち上がり、鉄の蛇の腹を抜けようと歩いていく。
「じゃあ、私はもう少し生きておきます。……あと、私はこの時間の電車に毎日乗るので。では」
「……どういう意味だ?」
「またね。お兄さん」
肺に充満していた溜息が、喉を通り過ぎて大気に吐き出されていく。彼女が突きつけていたのは選択肢ですら無い。
私が諦めないのだから、お前も諦めるなという片道切符だ。
俺が大嫌いな世界、そこへの線路しか引かれていない道へ、無理矢理運び込むための紙切れだった。
扉が閉じる。
雪が降りしきり、田舎だからか碌な屋根もないというのに彼女は立ち去る電車に手を振り続けていた。
「……嫌な人、だな」
吐き捨てるようにそうつぶやきながら、俺は財布を取り出した。そして、その残高を確認し始める。
正直、なんでこんなことをしているのかはわからない。
けれど、納得もあった。
元々強い意志で旅立ったわけでもなく、選べないままにこの座席に座っていたのだ。なら、彼女から受け取ってしまった切符を捨てられないのも、決められたことだったのだろう。
そうして、僕は財布の中を確認し終えて。
帰りの電車に乗るための賃金を残すための計算を始めた。
列車、雪 獣乃ユル @kemono_souma
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