吾輩はカラスである

@S_yumemi_1867

第1話


吾輩はカラスである。名前はまだ無い。

どこで生れたかとんと見当がつかぬ。

何でも鉄塔のてっぺんでガーガー鳴いていたことだけは記憶している。

吾輩はここで初めて空というものを見た。

しかもあとで聞くとそれは人間どもが「都会」と称するところの真ん中であったそうだ。

この都会というものは時々騒がしく、時々静かで、

その騒音の合間に、どこからともなく漂ってくる香ばしい匂いや、

時には甘い匂いが鼻をくすぐる妙な場所である。

吾輩がここにいるのも何かの縁であろう。


初めて見た人間というものは、妙にてかてかした黒い布を纏っていた。

しばらくは何であろうかと眺めていたが、どうも敵意があるようには見えぬ。

その黒光りする布は、風に揺れるたびに太陽の光を反射して、

さながら水面がきらきらと輝くような不思議な魅力を放っていた。

吾輩は、その黒い布が何であるのか気になって仕方がなかった。

時折、その布の足元を覆う同じく黒い塊が見えた。

それが動くたびに、硬い音が地面に響く。

妙なことに、あの黒い塊はまるで自分の意志を持っているかのように

「カツ、カツ」と鋭い音を立てて地を打つ。

これが人間というものの特徴なのかと、吾輩は思案した。

あの音は、まるで何かを威嚇するかのように地面を打ち据えている。

まるで「ここは俺の縄張りだ」とでも言うように、

その音は周囲に響き渡り、他の生き物たちを萎縮させているように感じた。

吾輩は思った。

人間というものは、あの「カツカツ」という音を使って、

この街全体を支配しているのではないかと。

確かに、吾輩のようなカラスも、あの音を聞くたびに反射的に身をすくめてしまう。

道端にいる猫ですら、黒い布を纏った人間が「カツカツ」と歩いてくると、

影に身を潜めて動きを止める。


吾輩は妙に不安になった。

「人間というのは、音ですら武器にしているのか」と。

鉄塔の上で出会ったガーラにこの考えを話すと、彼は一瞬沈黙し、

ふと首をかしげてからニヤリと笑った。

「人間は音だけじゃない。何でも自分の支配下に置こうとする。

街を作り、木を切り倒し、空すらも自分たちのために使う。

奴らが空に飛ばす鉄の鳥を見たことがあるか?」

吾輩はうなずいた。

あの巨大な鉄の鳥が、轟音を響かせながら空を裂いて飛んでいく様子を何度も見たことがある。

鉄の鳥が遥か頭上を轟音と共に通り過ぎたとき、

吾輩はただその圧倒的な存在感に圧倒された。

空を切り裂くような音が遅れて届き、

その音がまるで地面を揺るがすかのように響いた。

吾輩は悔しさと憧れが入り混じった感情を抱きながら、

高く飛び立とうと何度か挑戦したことがある。

鉄塔のてっぺんやビルの屋上から、思い切り羽ばたき、

空へと舞い上がろうとするが、すぐに息が上がり、翼が重く感じた。

そのことを思い出すと、少々腹が立ってきた。


吾輩はガーラに問いかけた。

「なあガーラ、なぜ奴らはあれほど高く飛べるんだ?」

ガーラは鼻で笑った。

「バカだな。あれは人間が作った鉄の鳥だ。

奴らが自分で飛んでいるわけじゃない。

機械に頼って、無理やり空を突き抜けているだけさ」

その言葉に少し安堵しつつも、

「じゃあ、なんでそんなに高く飛ぶ必要があるんだ?」と問い返した。

ガーラは空を見上げながら、ぼんやりと呟いた。

「さあな。ただ高い場所が偉いと思ってるんじゃないのか。

あいつらは何でも、自分が上じゃないと気が済まないらしいからな」

「奴らは、地面を打つ音一つにさえ権威を持たせているように見えるのさ。

あの『カツカツ』という音は、我々への警告でもあり、

他の生き物を服従させるための音に感じるんだ。

まあ、本当にそんなつもりがあるかどうかは知らねぇがな」とガーラは言った。

吾輩はそれを聞いて納得した。

確かに、人間は地を踏みしめ、音を鳴らし、

周囲の生き物を無意識に従わせている。

音だけでなく、視線、声、物の動かし方、

あらゆる手段で「自分が強者である」と示しているのだ。

ガーラの言う通り、人間が強さを誇示しているのか、

ただ無意識にそうなっているのかはわからないが、

都会という場所で生きるためには、あの音や姿勢に警戒心を持たねばならないということだけは確かだった。

ガーラは続けた。

「奴らは自分たちの都合で、ルールを作り、従わせる。

我々も、猫も、犬も、人間の作った道に沿って生きているだけだ。

おかしな話だろう? 我々の方が空を自由に飛べるというのに、

なぜ地に縛られた人間どもに従わなければならない?」

ガーラの言葉には、どこか含蓄があった。

都会という巨大な檻の中で、

人間が自分たちの支配を主張するために使う音、道具、

さらにはその立ち振る舞いさえもが、支配を強化するための手段なのだ。


吾輩は少し空を見上げた。

雲ひとつない青空が広がっているが、

その空の下に広がる都会は、人間の手で作り上げられた巨大な巣のようだ。

あの「カツカツ」という音に込められた威圧感は、

その巣の主であることを示す合図であり、

他者を遠ざけるための威嚇でもあるのだろう。

しかし、ガーラはその音に怯えない。

彼は悠々と鉄塔の頂から街を見下ろし、

「空は奴らのものじゃない。

どれだけ足音を鳴らそうが、この広がる空は俺らの領域だ」と言った。

吾輩はその言葉に少し安堵を覚えた。

地面を打つ音がどれだけ力強かろうと、

この都会の空を自由に渡り歩けるのは、我々カラスくらいのものだ。

だが、同時に、あの「カツカツ」の音が持つ意味を考え続けた。

音だけでなく、存在そのものが威圧となる人間たち。

その支配欲と、己を強く見せようとする意志の裏に、

何か隠された弱さがあるのではないかと思ったのだ。


吾輩が好奇心にかられて少しずつ人間との距離を詰めると、

その人間は突然「しっ!」と声を発し、棒のようなものを振り回してきた。

驚いた吾輩はすかさず飛び上がり、鉄塔の上へ逃げ帰った。

どうやら人間というものは、自らの身を守るために武器を持っているらしい。

あの棒の先は白くて細く、しなやかにしなる。

あとでガーラに聞いたところ、それは「傘」というもので、

「雨が降るときに使う道具だ」と教えてくれた。

なるほど、あれは雨をしのぐための道具かと納得したが、

何も雨も降らない晴天の日に振り回す必要があるのかと首をかしげた。

ガーラは鼻を鳴らして笑った。

「お前はまだ若いな。人間どもは、カラスが近づくだけで怯えるのさ。

特に、黒いスーツに黒い靴、そして黒いカラスが揃えば、

やつらは妙に神経質になる。黒が揃うと不吉だと信じているらしい」

「スーツ? 靴? あれはそういう名前なのか」と吾輩は思った。

不吉とは何だろうか。吾輩にはさっぱり分からぬ。

我ら黒き者が飛び交うこの都会で、

何ゆえ黒い布を纏い、黒い靴を履く人間が

同じ黒を忌み嫌うのか理解できなかった。

その後も吾輩は、自分と同じ黒を纏う人間への興味を捨てきれず、

しばしば通りすがる人間の足元に降り立っては観察を試みた。

中には、吾輩を見て怯える者や、

「うるさい!」と声を荒げる者もいれば、

「おい、こっちへ来るな」と睨む者もいた。


だが、まれに、ぼろぼろの布や薄汚れた衣服を纏ったまま動かぬ人間もいる。

その者たちは、鉄塔の根元で座り込み、時折、空をぼんやりと眺めている。

ガーラに尋ねると、それは『ホームレス』と呼ばれる者だという。

「汚れた布を纏いながらも、あの者たちは追われない。

なぜなら、もう誰からも期待されていないからだ」とガーラは言った。

吾輩にはその理屈が難解であった。

スーツという黒い布を纏った人間が忙しそうに足早に歩き、まるで何かに追われるように急ぎ足でどこかへ向かっている一方で、

ぼろぼろの布を纏った者たちは、動かずにいる限り誰にも気にされない。

なぜ、同じ人間なのに、あれほど対照的に振る舞うのか。

一方はせわしなく歩き回り、もう一方は地面に根を張るようにじっとしている。

その違いが何を意味しているのか、吾輩にはさっぱり分からなかった。

ガーラの言う「期待されていない」という言葉も、吾輩には理解しがたかった。

我輩は、他者から期待されるかどうかなど考えたこともない。

生きるために飛び、食うために動き回るだけだ。

人間どもは何かを成し遂げるために動くのか、

それとも動かなければ価値がないと考えているのか。

都会という場所で、動く者と動かぬ者の違いが、

なぜこれほどにも扱われ方を変えるのか、その意味がどうしても理解できなかった。


やがて夕日が落ち、都会の影が長く伸び始めたころ、

鉄塔の上から下界を見渡すと、

黒いスーツを纏った人間たちが列をなし、

まるで黒い川が流れているように駅へと吸い込まれていく。

その光景を見ながら、吾輩はふと思った。

「人間もまた、群れをなす生き物なのか」と。

黒きカラスと黒き人間。

その交わらぬようで交わる影が、

夕闇に溶け込む都会の片隅で、

吾輩は今日もまた考え込んでいるのである。

ガーガーと鳴きながら。

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