死んだはずの元Sランク冒険者、不死の人形にされても贖罪を貫く 〜罪を背負う者たちと、世界を喰らう魔神を断つために結ばれた不死の契約〜
井浦 光斗
第1章 氷雪の防衛戦
第1話 血濡れの契約
夜の荒野は、静まり返った大地に冷たい風を走らせていた。かすかな月光が吹き荒ぶ中、鉄のような血の匂いが漂う。その先には、一体の巨大な化け物の影が倒れこんだまま、動かない。
地面に伏した青年がいた。血濡れのまま浅い呼吸を繰り返す彼は、レオール・ブラッケン――かつてギルド最高ランクSの称号を得た冒険者だった。だが、今の姿からはその面影すら感じ取れない。鎧は砕け、繋ぎ留める革ベルトも断ち切られ、腕を持ち上げようとするたびに痛みが全身を蝕む。
「……まだ……終われない……こんな……ところで……」
そのかすれた声が夜気に溶ける。レオールの瞳には、わずかながら光が残っていた。何としてでも償いを果たさねばならない――その意志だけが、潰えかけた意識を辛うじて繋ぎ止めている。しかし、傍らに転がる砕け散った剣を見やり、彼は唇を引き結んだ。剣は自分を支える杖にすらなり得ないほど壊れている。こうして死ぬには、あまりに報いが足りない。己が背負った罪――まだ何ひとつ償えていないのだ。
「償い……」
視線を巡らせる先には、闇に溶け込むように横たわった異形の亡骸。人の背丈を踏み潰すほどの化け物だった。それを打ち倒したのは彼なのか、それとも運命がそう導いたのか。どちらにせよ、レオールの意識はもう一歩で深い闇へ沈みそうだった。
「強すぎた……」
かろうじて吐き出した言葉とともに、血の泡が口元を濡らす。彼の胸に残るのは、もっと多くを守りたかったという思いなのか、無念か、それすら判然としない。風の音だけがやけに大きく耳を打つ中、五感が遠のいていく。
そのとき、小さな足音が聞こえた。荒れ果てた夜の荒野に似つかわしくない、か細い足音。虫の声にまぎれてしまいそうなほど弱々しいのに、なぜかレオールの耳には異様に大きく感じられる。
(誰か……が、この地獄にいるのか……?)
首をわずかに回して見遣る。夜闇を切り裂くように浮かぶのは、幼子のシルエットほどの小柄な人影。月光に照らされ、髪か瞳か、何かが冷たく光っていた。まるで底知れぬ圧を放つそれが、レオールを見下ろす気配。
「……誰……だ……」
喉がひび割れて声が出ない。血と痛みで呼吸もままならない。すると、相手――幼い少女らしき存在――が静かに息をつくように微かに笑った。そして、凪いだ湖面のように波立たない口調で問いかける。
「生きたいのなら、私と契約しなさい」
かすかな囁きにも似た声が、レオールの耳にははっきり届いた。「まだ死ねない」という意志を、自分の内側から掻き立てるような言葉。幻聴かもしれないが、それでも渇いた心がその一言に縋ろうとする。
(死ぬわけには……いかない。俺にはまだ、償うべきことが……)
仲間も倒れ、救いの手などあり得ないはずの場所。にもかかわらず、少女は荒野を散策するかのように歩み寄ってきた。薄暗い空気の中で、その小さな足が血だまりを踏む音が虚しく響く。
「私と契約するか、それとも……」
少女が続ける声は、死神が静かに選択肢を突きつけるようだ。それでもレオールはまだ死にたくない。唇を動かし、声にならない声を押し出す。
「生き……たい……」
少女の目元がほんの少し揺れたかに見えたが、それは情でも同情でもなく、冷たく計算された興味のよう。視界が揺れる中、レオールの体から血が失われ、寒気が骨の奥まで染み込んでいく。
「どうするの?」
凪いだ声。答えなければ死が待っている。わかっていても、レオールは呼吸すらままならない。だが胸の奥で必死に叫び続ける――「まだ終われない」「このままでは許されない」と。
「……契約……する……」
掠れた声がそう呟いた瞬間、少女は息を吐くように微笑んだ。冷たい満足感のようなものが夜気に広がり、レオールの肌を刺す。その場に横たわる異形の死骸すら影が薄れるほど、少女の存在感だけが強まるようだった。
「いい判断ね」
舌先で囁くような気配が過ると同時に、遠くから雷鳴じみた振動が足元を揺らす。呪文めいた、古語のような響きが闇に溶けていく。レオールの視界が徐々に光の揺らめきに染まり、もはや現実と幻の区別がつかなくなりかけた。
「眠りなさい……すぐに終わるわ」
少女の柔らかな声に、何か凍りつくような響きが混ざる。痛みや寒さすら遠のき、意識が底なしの沼へ沈もうとしていた。死への階段なのか、別の何かへの入り口なのか、確かめる術はない。
最後の力を振り絞り、声を出そうとするが、血泡が唇から零れるだけ。漆黒の空が視界を覆い、レオールは地に額をつけるように伏せた。――それは終わりなのか、あるいは始まりなのか。
心臓の鼓動だけがかすかに続いているが、それすら遠ざかる。砂混じりの冷風に肌を刺されても、もう感覚は朧げだ。深い暗闇の向こうに、少女の静かな足音が響いている気がした。
こうして、レオール・ブラッケンは意志を手放すまいとしながらも、闇の底へと沈んでいく。血濡れの荒野で行われた契約が、彼の運命を大きく狂わせるとも知らずに。
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