未来へと続く道

遠山悠里


 あの夢を見たのは、これで9回目だった。


   ***


 あの夢を見始めたのは、いつの頃だっただろう。それが何歳の時だったのかはよく覚えていない。

ただ、それが、夏だったのは、よく覚えている。


 その夏、家族で旅行に行くことになった。

 仕事でいつも忙しい父が、偶然、長期の休みを取れることになったのだ。

 海に行くか、山に行くかの選択となり、まだ幼い自分は強く海を主張した。これまで、短い時間、砂浜で波と戯れるようなことはあったが、本格的に海で泳いだことは一度もなかった。幼い自分の希望はすぐに通り、家族旅行の行先は伊豆半島の閑静な別荘地ということになった。


 その旅行先の海で、俺は溺れた。


 幸いすぐに助けられ一命をとりとめたが、俺はそれから、水が怖くなった。

 どうしても、水に入ることができない。


 夏、体育の水泳の時間、俺は一人、見学をしていた。

 暑い夏、プールサイドの日除けの下、みんなが水遊びをしているのを一人見学しているのは、ものすごく悔しかった。だからといって、水に入れるかと言えば、それがどうしてもできない。もしかしたらもう大丈夫ではないのかと思い、プールサイドから足を伸ばして足先を水に漬けてみたが、溺れた時の恐怖が湧き上がってきて、俺は気が遠くなり、倒れた。

 担任の先生や同級生たちがこちらに向かって走ってくる足音が聞こえる。


 俺は思った。あの、家族旅行の行先を決める話の時に、もし俺が海でなく山を希望していたらこんなことにはならなかったのに。そうだ、あの時の決断が間違っていたのだ。ああ……もし、あの決断の時に戻れたら……。


 運び込まれた保健室で休んでいる時、俺はずっとそのことばかりを考えていた。


 そして、あの夢を見たのだ。


 俺は道を歩いている。周りは霧に包まれたようで、他のものは見えない。ただ、道だけが先に続いている。


 やがて、道が2つに分かれているのが見えてくる。

 それぞれに立て看板があり、そこには、


『今来たのと同じ道』

『別な選択肢を選ぶ道』


 選択肢……というのは、あの家族会議の時の『海』と『山』の選択のことだと、すぐにわかった。

 それなら、迷うことはない。俺は『別な選択肢を選ぶ道』の方に進んだ。


 そして、しばらく歩くと、俺は、家族会議の時間にいた。


「なあ、武志。どちらがいい? 海か山か?」

 俺は、すぐに叫んだ。

「山、山、山、僕は山がいい!」

「海じゃなくていいの? 武志、いつか『海』に行きたいって言ってたでしょ」

「山だよ、山。絶対、山にして」


 俺の強い主張に、家族は皆、驚いていたが、それで家族旅行の行き先は決まった。山だ。軽井沢にある会社の別荘に行くこととなった。


 選択を外せたのは、そこだけだった。俺は、『山を選択』した瞬間に『海を選択した』あとの過去の記憶をすっかり忘れてしまったのだ。ただ、海にまつわる記憶……水に入れなくなったということやそのため水泳を見学しなければならなかったことだけは、断片的にであるが覚えていた。『山を選択』したことにより、俺は、水への恐怖はなくなった。水泳の授業にも出れたし、なぜか水泳が得意になった俺は、都の小学生水泳記録会にも選ばれもした。

 あの時の選択が正しかったのだ。


   ***


 次に、あの夢を見たのは、中学2年生の時だった。


 あれは、二学期の期末テストの時だった。

 数学と国語の中間テストで失敗し、成績が下がる可能性が高くなっていた。俺の中学は私立でかなり成績にうるさい。特に二学期の成績は、2年から3年に上がる際の大きな基準となっていた。ここで失敗すれば、3年に上がる時のクラス分けに影響し、つまるところ、その後の進学にも影響するという大きな意味をもつテストだった。


 あとがない俺は、席が一番うしろで窓際であるという絶好の位置にあるということで、つい魔が差してしまった。誰にも見られていないつもりで密かに机の中のノートを盗み見していた俺のカンニングは、しっかり、先生に見られていた。


 期末テスト後、俺は、保護者共々学校に呼ばれ、そして、全ての成績が0点となってしまった。

 全ての成績が0点というのは、カンニングしたということを皆が知ることになってしまうということだ。

 学校に呼び出された後、俺は、もちろん、両親共々に、カンカンに怒られた。


 しばらくは外出禁止という通達を受けたその夜、俺は、ベッドに横になっても眠れなかった。どうして、俺はカンニングなんてしてしまったんだ。あの時、止めることもできたはずなのだ。それなのに俺は、カンニングをすることを選んでしまった。ああ、あの時に戻れれば……そう、考えながら、鬱々としているうちに、やがて俺は眠りに落ちた。


 そして、また、あの夢を見たのだ。


 俺は道を歩いている。周りは霧に包まれたようで、他のものは見えない。ただ、道だけが先に続いている。


 やがて、道が2つに分かれているのが見えてくる。

 それぞれに立て看板があり、そこには、


『今来たのと同じ道』

『別な選択肢を選ぶ道』


 ああ、あの夢だと思い出した。ただ、今回気づいたのは、看板に『8』という数字が書いてあったことだ。

 そう言えば、以前同じ夢を見た時に、看板に『9』という数字があった。ということは、全部で9回選択を変えられるチャンスがあり、今回はその2回目ということか。


 俺は、今度も選択を誤らない。


『別な選択肢を選ぶ道』を選んだ。


 気がつくと、期末テストの教室だった。まだテストは始まったばかり。

 視線を落とすと、机の棚から少しノートがはみ出しているのが見える。

 俺は、迷わず、ノートを胸で押し込むようにして、それから、テストに向かった。


 成績は悪くはなかった。中間テストの失敗は響いていたが、かろうじて、通知表の成績が下ることは回避された。


   ***


 その後、何度も、俺はあの夢を見た。

 道を歩いていると、やがて、道が2つに分かれているのが見えてくる。

 それぞれに立て看板があり、そこには、


『今来たのと同じ道』

『別な選択肢を選ぶ道』


 と書いてある。俺はいつも、『別な選択肢を選ぶ道』を選び、そして、選択を迫られる時、以前と別な道を選んだ。


 ふと、思うことはある。もし、『別な選択肢を選ぶ道』を選んで、その上で同じ選択をしたらどうなるのだろうと。

 だが、俺は、そうはしなかった。選択を迫られた時の失敗を悔やむことから、あの夢を見ることは始まっている。だから、夢を見た段階で、もうどちらを選ぶかは決まっているのだ。


 では、別な選択肢を選んだことが最善手だったのかどうかは、それはわからない。


 最初の『海』から『山』への別な選択肢への転換は、最善手だったのではないかと、今でも思う。しかし、それが、最善手だったのかどうかはわからないこともあった。


 例えば、4回目の『あの夢』は、こんな状況の時に見た。


   ***


 高校時代、俺は、ある女の子に恋をした。同じ水泳部の女子で、ショートカットの可愛い子だった。彼女とは大会に向けてよく一緒に練習もし、部活がない時ハマっていたゲームが同じだったということを知り、その話題でも話が合った。俺は、彼女とつき合いたいと思った。だが、一歩を踏み出す勇気がなかった。


 ある日、意を決した俺は、彼女へのかなり長いメールを書いた。そして、いつも彼女と他愛もないやり取りをしているSNSのLINEで、その長いメッセージを送ろうと思った。しかし、いきなりそんな長いメッセージを送って、彼女に引かれるのが怖かった。

 俺は、結局、彼女にそのメッセージを送れなかった。


 それからひと月後、彼女が水泳部の1年先輩から告白され、つき合い始めたことを知った。


 俺は、後悔した。もし、あの時、メッセージを送っていたら、先輩ではなく俺とつき合うということになる可能性もあったのではなかろうか。そう考えると、俺は、あの時メッセージを送れなかったことを後悔しても後悔しても後悔しきれなかった。そして、俺は、またあの夢を見た。


 道を歩いていると、やがて、道が2つに分かれているのが見えてくる。

 それぞれに立て看板があり、そこには、


『今来たのと同じ道』

『別な選択肢を選ぶ道』


 と書いてある。看板の上には『4』の数字があった。

 選択の場面は、分かっている。

 俺は『別な選択肢を選ぶ道』を選び、そこを歩いていく。


 戻った場面は、やはり、メッセージを書き終え、LINEの画面を開き、送信ボタンを押すか押すまいか迷っているところだ。俺は、ここでもしばし迷ったが、やがて意を決して、送信ボタンを押した。


 既読が付き、30分ほど経ってから、彼女からの返信が来た。それは、『つき合うこと』への承諾のメッセージだった。


 俺と彼女は、それから、つき合い始めた。

 恋人がいるということは、なんて楽しいことなんだろうと思った。

 デートを重ね、3回目のデートでは彼女とキスをすることもできた。


 しかし、つき合いが長くなるにつれて、少しずつ、二人の性格や考え方にズレがあることを知るようになっていった。

俺はだんだん彼女に合わせることが辛くなってきたし、彼女の方も同様だったのだろう。少しずつ、デートの数も減り、合っている時の会話も減っていった。やがて、俺達は、どちらからともいうことなしに別れを切り出すこととなった。


 『別な選択肢を選ぶ道』を選ぶことが最善とは限らない。しかし、では、最善でなかったのかというと、それも分からない。夢での選択が、必ずしも幸福へとつながるものではないということを、俺は知った。


   ***


 やがて、大学へと進み、卒業。俺は、都内の服飾メーカーに就職した。


 その間に、何度も、あの夢を見た。

 そして、俺はいつも、『別な選択肢を選ぶ道』の方へと歩いていった。


 それが、最善であったのかは、俺にはわからない。しかし、少なくともこれまでで8回、俺は迷った選択の場面に立ち戻り、そして、『別な選択肢』へと進んだのだ。


   ***


 そして、今、俺は、あの夢を見ている。これが9回目ということは、最後の夢になるはずだ。


 その選択が何かということは、俺にはよくわかっている。明日は、俺と、同じ職場で知り合った3歳下の玲香との結婚式なのだから。


 俺は、眠る前、考えていた。

 明日から、俺と玲香との結婚生活が始まる。本当にそれでいいのだろうか。

 これまでの孤独だが自由な生活は今日で終わり、明日からは、彼女と共に歩んでいくのだ。

 子供もできるかもしれない。

 もし、家を買うなどしたら、その家のローンを一生かけて払わなければいけない。

 結婚とは、結婚前に俺が持っていた多くの可能性を捨て去ることだ。

 俺にそれができるのか。


 何より、俺には、もう選択肢を変える機会は一回しか残っていないのだ。


 もし選択肢を変えられるとしたら、それは、結婚を承諾した時か、あるいはもっと遡って、彼女とつき合い始めた頃か……そう考えながら、眠りに落ち、俺はあの夢を見た。


 9回目だ。


 俺は道を歩いている。周りは霧に包まれたようで、他のものは見えない。ただ、道だけが先に続いている。


 やがて、道が2つに分かれているのが見えてくる。

 それぞれに立て看板があり、そこには、


『今来たのと同じ道』

『別な選択肢を選ぶ道』


 看板の上には『1』の文字が書いてあった。そう、これが最後の『あの夢』だ。


 俺は、どちらの道を歩いていくか、迷った。

 今回だけは、本当に迷った。

 今までのことをいろいろ思い返した。そして、俺は、決意した。


 俺は、初めて、『今来たのと同じ道』の方に進んだ。

 初めての、『今来たのと同じ道』だ。

 俺は、振り返らず、ただ、その道を歩いていく。


   ***


 翌日は、好天だった。

 朝、起きて、俺は、式場に向かうための準備を始めた。


 これまで一度も『今来たのと同じ道』へと進んだことはなかったので知らなかったが、その道は、選択の時に戻ることなく、ただ、未来へと時が進むだけなのだ。


 選択の時はこれからも山ほどあるだろう。そして、その時に選んだ道を後悔することもあるだろう。

 しかし、常に俺は、自分の意志で選択をしてきた。

 たとえそれがどのような道につながっていようとも、俺は、もう、選択した道を変えることはない。


 俺は、『今来たのと同じ道』を選んだことに満足しているし、その覚悟もある。

 俺は、晴れ晴れとした気持ちで、家を出た。


 今日からは、新しい道が始まる。


 過去ではなく未来へと続く道が。


 後悔はなかった。


 

    (終)

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未来へと続く道 遠山悠里 @toyamayuri

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