第十二章 第四話
九月下旬、青葉音楽祭の当日がついに訪れた。市民会館のホールは朝から大忙しで、あちこちで楽器の調律や音響チェックが行われていた。舞台袖では奏太が窓の外を眺めている。落ち着いた表情を見せているものの、瞳の奥には高揚感と緊張が渦巻いていた。
「緊張してる?」
水上が奏太の隣に立ち、外の景色を一緒に見つめる。彼のピアノの指使いを思い出すような、繊細で優雅な指がそっと奏太の背中に触れた。そこから伝わる温もりは、言葉よりも心強い。
「少し……でも、いい緊張感だと思う。これまでの努力を出し切れるように頑張る」
奏太は自分に言い聞かせるようにそう言うと、水上はその手をそっと握った。その温もりは奏太の心をほぐし、自信を取り戻させてくれる。二人の指輪が舞台の照明に反射して小さく光る。
「佐伯先輩は?」
「森下先生と舞台裏で話してるって。俺たちの曲に興味を持ってくれているみたい」
奏太は顔を輝かせた。その表情には、これまでの練習や苦労が報われるような喜びが浮かんでいる。
「ほんと? それは嬉しいね」
そこへドアが開いて、佐伯が戻ってきた。彼の顔はやや興奮混じりで、期待に満ちている。頬が紅潮し、普段の落ち着きはどこへやら、まるで子供のように目を輝かせていた。
「そろそろ出番だよ。準備はいい?」
三人はお互いを見合わせ、小さく頷いた。サックス、ピアノ、トランペット――それぞれの楽器に対する深い愛情と仲間への信頼が、言葉以上に雄弁に交わされた瞬間だった。
スポットライトを浴びてステージに立つと、客席にはたくさんの人々が待ち構えているのがわかる。最前列には水上の両親、奏太の家族。そして佐伯の両親も来ている。特別席には、森下先生の姿も見える。拍手が始まり、その波がホール全体に広がっていった。
水上はグランドピアノに腰掛け、演奏のスタンバイに入る。ピアノの艶やかな黒さが照明を反射して、まるで宇宙を内包しているかのようだ。奏太はサックスを胸に抱え、佐伯はトランペットを軽く構えた。客席からの期待に満ちた視線を感じながら、一瞬だけステージ上に静寂が訪れる。
やがて、水上が合図を送り、最初の音が鳴り響いた。『光と影のアンサンブル』――大学祭で披露した曲をさらに洗練させたバージョンだ。クラシックの重厚感を下地にしつつ、ジャズのリズムや即興要素が自由に駆け巡る。三人の息遣いや感性が絡み合い、まるで一つの生命体のように曲を生き生きと動かしていく。
奏太のサックスは朗々としたメロディを運び、その音色には海の広がりと太陽の輝きが感じられた。佐伯のトランペットがその裏でカウンターメロディやアクセントを添え、時に天高く舞い上がる鳥のような躍動感を生み出す。水上のピアノは、全体を支えるハーモニーだけでなく、ときにダイナミックなソロを披露し、観客を驚かせる。音と音が絡み合うたびに新たな響きが生まれ、ホール全体が深い音の渦の中に飲み込まれていくようだった。
終わりのフレーズでは、三つの楽器がひとつの声のように溶け合い、最後は静かに、しかし確かな余韻を残して消えていく。まるで永遠の約束を告げるかのような、静かな決意に満ちた終わり方だった。
最後のコードが静かに消えゆくと、ホール全体に一瞬の静寂が訪れ、それから大きな拍手と歓声が巻き起こった。まるで波が押し寄せるような拍手だ。観客はスタンディングオベーションで称え、前列の家族たちは笑顔で涙を浮かべながら手を振っている。森下先生の姿が見える特別席でも、先生が満足げに頷きながら拍手していたのが印象的だった。
三人は深々とお辞儀をし、互いに顔を見合わせる。言葉では言い尽くせない達成感がそこにあった。時間にすれば十数分の演奏だったが、過去の苦悩と喜び、そして未来への希望がすべて詰まった尊い時間だった。
音楽祭の帰り道、奏太と水上はまた灯台公園に立ち寄った。夕方の赤紫色に染まった空が、彼らを静かに出迎える。海と空の境界は少しずつ闇に溶け込み始め、遠くには港の明かりが瞬いていた。
「今日の演奏、すごく気持ちよかった。こんなに自分の音が自由に飛んでいくのを感じたのは初めてかも」
奏太は満足げに深呼吸し、頬に吹く風を心地よさそうに感じている。汗をかいた身体には、秋の風がとても涼しく感じられた。彼の横顔には達成感と、新たな目標に向かう決意が同居していた。
「ああ。あれこそが俺たちの音楽だったと思う」
水上も微笑み、二人の指輪を見つめる。それは今日の演奏の輝きと同じくらい、確かな絆を放っているように見えた。
「森下先生、東京の大学院を強く勧めてくれたね。『二人で来なさい』って言葉、ちょっと驚いたよ」
「うん。先生も、俺たちのアンサンブルには何かしらの可能性を感じてくれたみたいだ。厳しい道になるかもしれないけど、一緒に頑張ろう」
水上は奏太の手を握りしめる。その手のひらから伝わる温もりは、言葉を介さずとも「一緒に未来へ進もう」という強い意志を共有してくれる。その手の確かさが、奏太の心を勇気で満たしていく。
「そうだ、東京に行く前に、子供たちのために小さなコンサートを必ずやろう。今日みたいな大きなステージじゃなくて、もっと近い距離で。子供たちの目を見ながら演奏したいんだ」
奏太が目を輝かせながら語ると、水上も賛同する。彼の瞳には、奏太の夢を自分の夢としても大切にしたいという思いが宿っていた。
「俺も全力で協力する。子供たちに音楽を届ける活動は、自分の夢の第一歩にもなるし」
二人はあれこれと話し合い、やがて公園を出ることにした。空はすっかり藍色へと変わり、灯台が光を放っている。かつて雨の夜に見た景色とはまるで違う、穏やかで美しい夜だった。
「じゃあ行こうか。今日は鈴木さんのブルーノートで、みんながパーティーを開いてくれるみたいだよ。俺たちを応援してくれた人たちが集まるらしい」
水上が腕時計を確認しながら促す。奏太も立ち上がり、水上と手をつないだ。足元を確かめるように一歩一歩進むうち、自然と歩幅が揃ってくる。それはまるで、ふたりの未来を示すようでもあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます