第十二章 第二話
奏太と水上は夏休みの最後の機会を利用して、奏太の実家を訪れることになった。前回に訪れたのは大学祭の少し前だっただろうか。そのときに比べると、家族の空気感も変わっているように感じる。
「いらっしゃい、水上くん」
家の玄関を開けて迎えてくれたのは千鶴だ。奏太の姉で、二人の関係を早くから理解してくれた心強い味方でもある。彼女はにこやかな笑顔で二人を出迎えた。夏が終わりかけとはいえ、日中はまだ汗ばむ陽気だ。千鶴も髪をまとめて、少しだけラフな装いをしている。
「お久しぶりです。お世話になります」
水上が丁寧に挨拶をすると、千鶴は気さくに笑った。
「いいのよ、そんなにかしこまらなくて。水上くん、ずいぶん日焼けしたみたいね」
「ええ、ちょっとだけ……奏太と海に行ったり、屋外で練習したりしたので」
水上の言葉に千鶴は楽しそうに頷く。リビングに通されると、奏太の両親が既にくつろいだ様子で迎えてくれた。父親も母親も、以前より柔らかな表情をしているのがわかる。大学祭での演奏を聴いたことで、奏太の音楽への情熱や、水上との絆を深く理解したのだろう。リビングにはどこか安堵感に似た、穏やかな空気が流れていた。
「おかげさまで、音楽祭の準備も少しずつ進んでいます」
水上がそう報告すると、父親は目を細めて頷く。その眼差しには、かつての懸念ではなく、温かな期待が宿っていた。
「そうか。奏太のこと、よろしく頼むよ。サックス以外の世界を広げてもらってるようで、最近の奏太は顔つきが変わってきたと思うんだ」
父親の言葉には、音楽に対する理解が以前よりも増している様子がうかがえる。かつてはやや厳格な雰囲気で、奏太が音楽の道へ進むことについて懸念を示していたが、今では随分と柔らかい眼差しを向けている。
そんな父親の言葉に、奏太は少し照れながら答えた。頬がほんのりと赤く染まり、目が柔らかな光を帯びている。
「ありがとう。俺もあの日は、自分でもびっくりするくらい集中してた。響と佐伯先輩と一緒に演奏できたことが大きいと思う」
会話が一段落したころ、母親が緑茶をいれた湯呑みを二人に差し出した。その温かさに触れると、心がほんのりほぐされるような気がする。畳のある和室と木の優しい香りが漂うリビングは、奏太が生まれ育った環境そのものを物語っている。水上はそんな空間に身を置くことで、奏太の育った背景をより深く理解できるような気がしていた。
ふと、父親が思い出したように口を開いた。眉間にいくつもの刻まれた深い皺が、彼の人生の経験を物語っている。
「ところで、音楽祭には特別なゲストが来るんだってな?」
「うん。十年前、響が受賞したときの審査員長だった森下先生。今は東京の音楽大学で教鞭を執っているらしくて、今回は特別審査員として呼ばれているんだって」
奏太が説明すると、千鶴が興味深そうに身を乗り出した。
「それはすごいわね。十年前に水上くんを評価してくれた先生が、またこの街に来るなんて、運命的なものを感じるわ」
水上も少し緊張した表情を見せる。そこには期待と不安が入り混じっているようだった。指先が微かに震えているのを、奏太だけが気づいたかもしれない。
「正直、プレッシャーも大きいです。でも、十年前とは違う自分の音楽を聴いてもらいたい。あの頃は、ただ与えられた曲を必死にこなしていただけでしたから」
母親は花を活けるような繊細な手つきで湯呑みを整えながら、ふんわりと微笑み、優しい声で続ける。その声は奏太に似ていて、どこか心を穏やかにさせるような温かさを持っていた。
「大丈夫よ。あなたたちの音楽なら、きっと聴く人の心を打つわ。大学祭でもそれは十分に伝わってきたもの」
奏太の家族の温かい励ましは、水上にとって大きな支えになっていた。自分の両親との間にあるわだかまりも、少しずつ解けてはいるものの、ここまで自然に受け入れられてはいない。それだけに、奏太の家族が向けてくれる理解と親愛の情は、ありがたく、そして少し照れくさいものでもあった。
「ところで……」
千鶴が何かを思い出したように声を上げる。彼女の眼差しには、姉としての愛情と同時に、少しばかりの心配が浮かんでいた。
「あなたたち、将来のことはもう考えているの? ほら、大学卒業まであと何年かあるけど、その先の進路とか、そういうこと」
その問いかけに、奏太と水上は顔を見合わせる。二人の間では、大学卒業後の話を何度かしていたが、まだはっきりとした道筋を決め切れてはいなかった。視線の交差には互いを尊重する気持ちと、将来への迷いが混ざっていた。
「正直、まだ決まっていないんだ。俺は音楽の道に進みたいと思っているし、響も同じ気持ちなんだけど……」
奏太が言いかけると、水上が言葉を継ぐ。彼の声には熱が込められ、瞳には決意の光が宿っていた。
「大学院への進学も視野に入れています。さらに高い技術と知識を身につけて、いずれは演奏家として、また教育者としても活動していきたいんです。奏太とも、できるだけ同じ道を歩んでいければと思っています」
そう語る水上の横顔を見ながら、奏太は改めて彼の真摯さと情熱を感じ取る。きちんと整えられた髪、真っ直ぐな背筋、そして何より強い意志を秘めた瞳。それらすべてに魅了されてきた自分を、奏太は改めて自覚した。
父親はそれを聞いて深く頷き、柔らかな口調で言った。その声には人生の経験から来る知恵と、静かな応援の気持ちが込められていた。
「焦ることはない。自分の道は、自分で探していけばいい。人生は長いんだからな。大事なのは、本当にやりたいことを見極めることだ」
その言葉に、二人はほっとした表情を見せる。同時に、この家に来るたびに感じる「家族」の温かさが胸にしみた。
「ただ……一つだけ、確かなことがあります」
水上が静かに言葉を切り出す。彼は視線を奏太に向け、その手にそっと触れた。指輪が小さく光る。
「僕たちはこれからも、一緒に音楽を作っていきたいんです」
ほんの一瞬、リビングに静寂が訪れる。父親と母親の視線は指輪に留まっているようだったが、すぐに父親が穏やかな口調で言った。深い皺の間から温かい笑みがこぼれる。
「それが一番大事なことなんだろう。お前たちのそういう気持ちは、きっと音楽に表れるに違いないからな」
父親の言葉には「二人が共に歩むこと」への理解がはっきりと感じられた。それを聞いた奏太は、胸が熱くなるのをこらえきれなかった。家族の承認は、何にも代えがたい後押しになった。
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