第十一章 二重奏

第十一章 第一話

 夏の始まりの青空は一段と高く澄み渡り、光の粒がキャンパスの木々や建物をきらきらと照らしていた。大学祭当日の朝、奏太は自室のベッドで目を覚ますなり、鼓動がやけに速いことに気づく。まるで何か大切な約束の日や、人生の岐路に立たされた日を迎えたかのように、胸が落ち着かない。


 実際、それはただの思い過ごしではなかった。今日の演奏――水上が書き上げたオリジナル曲『光と影のアンサンブル』を三人で披露することは、奏太にとって長い道のりのゴールであり、同時に新たな始まりを意味していた。これまでの大学生活のなかで起こった無数の出来事――水上との出会い、佐伯との微妙な三角関係、水上が抱えていた手首の怪我と心の傷、そして自分の家族への葛藤――それらが集約され、音楽という形で大きく結実する日。それが、この大学祭の日なのである。


 ベッドから起き上がると、奏太は軽くストレッチをして体をほぐす。普段はそれほど神経質ではないが、今日はさすがに落ち着かないので、いつもより早めにシャワーを浴び、軽い朝食をとった。テーブルの上に置いてあるサックスケースに手を伸ばし、愛用しているリードを一通り見直す。演奏家としての準備はきちんと整えたいと思うのはもちろんのこと、心の準備も万端にしておきたいという気持ちがあるからだ。


 鏡の前に立つと、いつもと変わらない自分の姿が映る。少し長めの黒髪をすっきりまとめ、私服のシャツにパンツという装い。大学祭というお祭りムードに合わせて少し華やかなものを着ようかとも考えたが、結局は動きやすい服を選んだ。何より大切なのは、舞台の上でサックスを吹く自分自身と、その音色だろう。


「よし……落ち着け、落ち着け」


 自分にそう言い聞かせるが、胸は高鳴ったままだ。あまりに緊張しすぎていて空回りしないよう、深呼吸をして静かに目を閉じる。ステージで、水上と佐伯と三人で演奏するイメージを頭の中に描く。いつも通りやれば大丈夫――そう言い聞かせても、今日は特別な日だという意識が頭を離れない。


 スマートフォンが振動し、メッセージの着信を知らせる。画面を見ると、やはり水上からのメッセージだった。


『準備はどう? 音楽棟の裏口で待ってる』


 奏太は思わず笑みを浮かべ、返信を打ち始める。


『今から出るところ。ちょっと緊張してるけど大丈夫。そっちは?』


 送信するとすぐに既読マークが付き、返事が返ってくる。


『俺もドキドキしてる。でも君のサックスを信じてるから。あとで会おう』


 たったそれだけの言葉が、まるで特別な魔法のように奏太の心を穏やかにしてくれる。そもそも、水上があの怪我と完璧主義からのプレッシャーを乗り越えて、こうして新しい音楽表現に踏み出せているのは、互いを信じ合えたからこそだ。奏太はサックスケースを背負い、部屋の鍵をポケットに収めると、意を決してドアを開けた。



 寮の廊下に出ると、すでに何人かの学生が慌ただしく行き来している。屋台で使う機材を運ぶ者、ポスターを抱えたまま駆け抜ける者、衣装に着替えてダンスのリハーサルへ向かう者――まさに大学祭一色の賑わいだ。奏太はそんな彼らの熱気に背中を押されるように階段を下りていく。


 すると、一階の踊り場ですぐに見覚えのある顔を見つけた。トランペットケースを手にして佇んでいる姿は、どこか落ち着いた雰囲気がある。佐伯も同じように奏太を見つけ、にこりと微笑む。


「おはよう、葉山くん」


「おはようございます、先輩。今日はよろしくお願いします」


 二人は自然に歩調を合わせて玄関を出る。外に出ると晴れ渡った空が目に飛び込み、キャンパスの各所にはカラフルな装飾が施されているのが見える。どこからともなくバンド演奏の音や、屋台から立ち上る食べ物の匂いが漂い、まさにお祭りの雰囲気一色だ。


「緊張してる?」


 佐伯が穏やかな声で尋ねる。


「はい、正直に言うと……すごく。でも、どこか楽しみでもあるんです」


 奏太は正直に打ち明ける。


「同感だよ。僕も長いこと本格的なステージから遠ざかっていたから、心臓がバクバクだ。でも、嫌な緊張じゃないな」


 そう言って佐伯は遠くを見つめる。音楽棟へ続く道には、大勢の学生と来場者が歩いている。


「三人であの曲を演奏できるだけでも嬉しいのに、こんなに大きな舞台で披露できるなんてね……。思えば、不思議な縁だよ」


 奏太は軽く頷きながら、ふと佐伯の表情を窺う。高校時代から水上に想いを寄せていた彼が、今こうして心から一緒に演奏を楽しみにしてくれることに、改めて感謝の気持ちを抱く。一時期のギスギスした三人の関係は、ある種の試練だったかもしれないが、その試練を乗り越えて得られた友情と信頼感は、本物のアンサンブルを生む力になっているのだ。


「先輩、本当にありがとうございます」


 奏太は少し照れながら言う。


「何が?」


「いろいろ……。もし先輩がいなかったら、響との関係もきっとぎくしゃくしたままだったと思うし、今回の曲もこんなふうに仕上がらなかったかもしれない」


「そんな大げさな……僕はただ、二人を見ていたかっただけだよ」


 佐伯は照れくさそうに首を振る。


「まあ、そう言ってもらえるなら素直に嬉しいけどね。僕も二人からたくさんのものをもらったんだ。だから、今日のステージでは遠慮なく力を出し切ろう。三人の音楽を最高の形で示そうよ」


 その言葉に、奏太の気持ちも高揚感を増してくる。視線を先に向けると、音楽棟の裏口近くに、すでに待っている人影が見えた。朝の光の中で立っている水上の姿は、どこか神々しさすらまとっているように見える。髪はやや長めで整っており、端正な顔立ちが朝日に照らされて凛々しく映える。


「おはよう、二人とも」


 水上は小さく手を振る。


「よく眠れた? 俺は興奮してなかなか寝つけなかったよ」


 佐伯は笑いながらトランペットケースを見せる。


「同じく。まだ心臓が鳴ってるけど、もうリハーサルも最後だし、本番に備えようか」


 奏太も口を開く。


「俺は思ったより眠れたほうかも。でも、朝起きてからずっと緊張がすごい……」


 そんな彼らの会話は微笑ましいほど率直だが、それだけにお互いの立場を自然に認め合う空気が漂っている。かつてはぎこちなかった三人の関係が、今では完全に融け合い、同じ方向を向いているのだということを感じさせる。


「よし、それじゃあ最後の確認をしようか。朝のうちにもう一度合わせておけば、心配も減るだろう」


 水上が声をかけ、三人は裏口から音楽棟へ入る。静かな廊下を進むと、まだ誰も使っていない小さな練習室を見つけた。ドアを開けると、中はひんやりとしていて、楽譜立てや椅子が整然と置かれている。


 部屋に入り、楽器を取り出す。水上はピアノの前に腰を下ろし、蓋を開けて鍵盤を確かめる。佐伯はトランペットのマウスピースを慎重に調整し、奏太はリードをチェックする。


「よし……じゃあ一度、フルで合わせよう。細かいミスは気にせず、全体の流れを確認する感じで」


 水上の提案に、奏太と佐伯がうなずき、奏太が深呼吸をしてサックスを構える。


 そして、まずは水上のピアノが部屋の空気を一変させた。クラシックをベースとしながらも、ジャズの色合いが見え隠れする独創的な序奏。奏太のサックスがそこへ寄り添いはじめると、一瞬で二人の旋律が呼応し合い、会話を始めたかのように聞こえる。そこへ佐伯のトランペットが合流する瞬間、部屋の空気は一気に厚みを増した。三つの楽器がそれぞれの個性を尊重しつつ、新しい景色を描き出していく。


 中盤ではクラシックの厳密な構造を保ちながら、即興のエッセンスを大胆に挿入する。一度はすれ違うように水上と奏太が走るが、佐伯のトランペットが橋渡しするように二人のフレーズを繋ぎ合わせ、再び一つのメロディへと収束する。


 クライマックスでは、水上が提示した新しいエンディングが力強く展開され、三人の呼吸がシンクロする。最後の和音が静かに解けていくと、部屋全体が余韻に包まれ、その中で誰も言葉を発しないまま数秒が経過した。


「……すごい」


 先に声を出したのは佐伯だった。少し息を切らせながら、トランペットを下ろし、満足そうに微笑む。


「うん、もう何も言うことないね」


 水上も脱力したように肩を落とし、鍵盤から手を離す。


 奏太はサックスのベルを見つめ、静かに頷く。心臓の鼓動が早まったままだが、それは不安というより純粋な高揚感だ。


「このまま本番に行けそうですね」


「そうだね。むしろこれ以上練習して消耗するより、この余韻を大事にしたい」


 三人は笑いあい、短い間でもいいから体力を温存し、本番へ臨むことを決めた。時計を見ると、まだ午前中。大学祭のコンサートは午後の二時から始まるので、あと数時間の猶予がある。食事を軽く取り、衣装や身なりを整えたら、すぐに本番といったところだ。

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