第十章 第二話

 翌日の午後、水上は意を決して実家を訪れた。青葉市の高級住宅街に建つ立派な洋館は、代々音楽一家としての歴史を映すように、家の中に練習用のホールや数えきれないほどの楽譜を備えている。その重厚な扉の前で、水上はわずかに呼吸を整え、インターホンを押した。


 出迎えたのは母だった。落ち着いた雰囲気の黒いワンピースに身を包んだ彼女は、息子の突然の来訪に驚いた様子を見せる。


「響? 連絡なしにどうしたの?」


「すみません、急に。ちょっと話したいことがあって……父さんは家にいますか?」


「ええ、書斎にいるわ。入りなさい」


 リビングに足を踏み入れた瞬間、水上は懐かしさと微かな緊張が入り混じった感覚に襲われる。壁に飾られた音楽家たちの肖像画、きらめくグランドピアノ、棚に並ぶトロフィーや賞状――すべてが何年も変わらないままそこにある。


 そこへ現れたのは、父だった。厳格そうな面差しを崩さず、階段を下りてきて息子を見つめる。


「響……めずらしいな。連絡なしで来るなんて」


「話があるんです。いいですか?」


 三人は静かにソファに座る。父は腕を組んだまま黙っているが、その視線にはわずかな興味が見て取れた。


「実は、今度の大学祭で、新しい曲を演奏することになりました」


 水上は深呼吸をして、口調をはっきりさせる。


「クラシックの要素とジャズの要素を融合させた曲を作っていて、サックスとトランペットとのアンサンブルになる」


 父の表情が一瞬だけ動く。


「ジャズ……か。そうか、以前大学で聴いた演奏を思い出すな。あれも確か、サックスと合わせていたな」


 水上はうなずく。


「はい。あれをさらに発展させた形です。曲名は『光と影のアンサンブル』。十年前の音楽祭で感じた思いを、音にしたいと思って……」


 父親は眉をひそめながらも、どこか思い出に浸るような表情を見せた。あの地方音楽祭での演奏は、父親にとっても息子の成長を確かめた特別な機会だったのだろう。


「……聴かせてくれ」


 短く言うと、母が柔らかい笑みを浮かべて水上を見やる。


「弾いてみなさい。折角ピアノがあるんだから」


 水上はほっとしたように立ち上がり、グランドピアノへ向かった。深呼吸をして気持ちを整え、ゆっくりと鍵盤に指を置いた。サックスやトランペットがない代わりに、そのパートも含めた全体像をピアノだけで表現する必要がある。


 しっとりとしたクラシックの序奏から、ジャズのスパイスを加えたリズムへと移行し、さらに自由に広がっていく旋律――そこに、奏太の故郷の海を見たときの感動と、大学で出会った仲間たちとの思いが織り交ぜられている。


 水上は最後の和音を鳴らし終えると、静かな余韻がリビングを満たした。その沈黙の中、両親の顔色をうかがいながら、息をのむ。


「前よりも深みが出たな」


 最初に言葉を発したのは父だった。以前の厳しい表情は少し和らいでいるように見える。


「……ありがとうございます」


 水上は思わず息を吐き出す。横目で見る母の目には、ほんのり涙のような光が宿っていた。


「素敵な曲ね。前に大学で聴かせてもらったときも思ったけど、あなたの音がすごく生き生きしているわ」


 父はゆっくりと立ち上がり、窓の外へ視線を移す。洋館の庭にはマグノリアの花が咲き始め、初夏の陽射しを浴びて揺れている。


「大学祭……見せてもらおう。そこで完成した演奏を聴けるんだな」


「はい。もしよかったら、ぜひ来てください。僕の新しい一歩を見てもらいたいんです」


 父は背を向けたまま、少し間を置いてから小さく頷いた。


「わかった。期待している」


 その言葉に水上の胸は満たされる。厳格な父にとっては、意外なほど素直な返答だったからだ。


 玄関先へと向かう廊下を歩く際、父がふと水上の肩に手をかける。


「響……一つ聞きたいことがある」


 小さな声だが、その響きにはどこかためらいが感じられた。


「大学の練習室で、君が一緒に演奏していたサックスの少年……葉山君、だったか。彼との関係は、単にアンサンブルのパートナーというだけではなさそうに見えたが……」


 水上は一瞬動揺しながらも、嘘をつけないと悟り、意を決して正面から父を見つめる。


「……そうです。僕にとってはそれ以上の存在です」


 父は長く息を吐く。音楽以外のことで意見を交わすのは、もしかすると初めてかもしれない。


「そうか……まだ少し時間は必要だな」


 彼の声はどこか苦渋に満ちているが、鋭く否定するような響きはない。


「今はそれが君の道なら、私はやはり君の演奏を見守ろう。いつか理解できる日が来ると信じたい」


 それは完全なる承認ではなかったが、水上にとっては大きな一歩だった。これまで蓋をしてきた自分の内面を、初めて父に示したのだから。


「ありがとう、父さん」


 水上は心からそう言い、家を後にした。胸にはまだ緊張の余韻が残っていたが、それ以上に、十年近く積もっていた重い石が外れたような解放感を抱えていた。

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