第九章 第六話

 音楽祭に向けて奏太と水上は練習に没頭していた。一旦区切りがついたところで、水上が一度深呼吸をして、やわらかな声で言った。


「……本当のところを言うと、いつかもう一度、灯台公園へ行ってみたいと思ってたんだ」


「灯台公園……」


 奏太はその言葉に小さく驚き、すぐに胸がじんわりと温かくなるのを感じた。あの海辺の景色を、晴れた状態で改めて見てみたいと、自分も密かに思っていたからだ。


「あの日は大雨だったからね。今度は晴れた空の下で、ちゃんと景色を見たい。あそこで何が変わったのか、もう一度自分の心を確かめたいっていうか……」


 水上は少し照れながら言葉を継ぐ。心配や不安をいっぱいに抱えながら行った場所でもあるが、それでもあの夜以降、二人の距離は確実に近づいた。苦しかった時間を乗り越えた先にある灯台公園の風景――それを今度は穏やかな気持ちで眺めたいのだろう。


「うん、俺も行きたいと思ってた。今度は昼間の海を見るために。きっと全然違うんだろうな、印象が」


 奏太も素直な思いを口にする。


 そこで水上は思いきったように笑顔を向ける。


「じゃあ……近いうちに行こうか。土日とか、時間が合うときに。今は大学祭の準備で忙しいけど、ひと段落したタイミングでさ」


「うん、行こう。絶対行こう」


 二人は視線を交わし合い、静かながらも確固たる約束を交わす。まだ実際にスケジュールを決めたわけではないが、その意思ははっきりしていた。灯台公園――雨の夜に深い思いを共有したあの場所を、今度は晴れやかな気持ちで訪れよう。そして互いに、さらに音楽についてや、将来について、ゆっくり語り合おう。


 話を終えたころには、すっかり夜の帳が下り始めていた。練習室の窓から見える景色は、学内の灯りが点々と並び、ところどころに部活の残った学生の姿がシルエットのように浮かび上がる。


 水上はピアノの蓋を閉じ、譜面をまとめる。奏太もサックスをケースに収めながら、最後にもう一度水上に微笑む。


「じゃあ、今日はこのぐらいにしようか。大学祭までもう少し時間があるし、明日以降も合わせを重ねよう。……灯台公園のことは、また連絡する」


「うん、よろしく。早く行きたくなってきた」


 二人はそう言って練習室を出る。廊下の明かりが淡く二人の姿を照らし、声を潜めて話し合いながら階段を下りる。外に出ると、夜の涼しさが肌を撫で、遠くの街灯が静かに揺れていた。


 お互い帰り道は違う方向だが、改めて短い別れの挨拶を交わす。


「お疲れさま。明日もよろしくね」


「うん。おやすみ、響」


 別々の道へと歩き出しながら、それぞれの胸には新たな目標が宿っていた。大学祭での演奏を成功させたい、そして三人のアンサンブルを完成させたい。その先にある、さらなる音楽の可能性を掴みたい。そして、いつかの大雨の夜とは違う空の下で灯台公園を訪れ、自分たちが変わったことを確かめたい――。


 そうした思いが、夜風を受けながら自然と彼らの背中を押していた。あの場所で得たもの、そして失われたもの。そのすべてが、今の自分たちの音楽や人生に深みを与えてくれている気がする。それを確かめる旅は、まさに今から始まろうとしている。


 初夏の風薫る夜に、奏太と水上の未来へ向けた一歩が静かに刻まれた。雨の音にかき消されそうだった想いは、今や晴れやかな決意へと変わりつつある。


 明日に向け、そしてさらにその先に待つ新しい音楽と絆の形を探すために――彼らは、もう一度あの海辺の灯台公園へ足を運ぶことを、確かな約束として胸に抱きながら、この夜を終えたのだった。

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