第九章 第三話

 夕暮れが近づく練習室に、奏太と水上の姿があった。大学祭に向けて仕上げたい曲――『光と影のアンサンブル』――の完成度を高めるため、二人は連日、時間を見つけては音合わせに励んでいる。


 ドアの隙間からは、わずかにオレンジ色の光が差し込み、部屋の中を柔らかく照らしていた。外では日はまだ沈みきっていないが、空は淡いピンクや紫に染まろうとしている。


「まずはしっかり手首を温めよう。無茶はしないように」


 奏太は、響の左手首をゆっくりとマッサージしながら言った。あの怪我が再発することを恐れているのは、奏太自身も同じだ。


「ありがとう。もうほとんど痛みはないんだ。本当に不思議なくらい」


 水上は微笑む。痛みが和らいできただけでなく、心の重荷も少しずつ取り除かれているのを感じていた。自分の殻に閉じこもっていた時とは違い、今は心が解き放たれている。奏太や佐伯、そして周囲の人々が優しく支えてくれたおかげで、自分が進むべき道をもう一度見つけられたと思えるのだ。


 水上はピアノの前に座り、鍵盤を軽く叩いて音を確かめる。最初はそっと音を出していたが、すぐに指先から滑らかさが戻り、曲の冒頭部分を美しく奏で始めた。


「やっぱり、この出だしは優しく始めたい。光の差し込みが徐々に広がっていくイメージで」


 水上はそう言うと、少しずつダイナミクスを盛り上げていく。すると、隣に立っていた奏太がサックスを構え、同じフレーズをユニゾンでなぞる。クラシックの格調高い旋律に、ジャズの柔軟で変幻自在なニュアンスが混ざり合い、新鮮な響きが生まれる。


 途中まで演奏してみたものの、水上はふと顔をしかめるような仕草を見せた。


「どうした?」


 奏太がサックスを降ろし、心配そうに尋ねる。


「いや、手首じゃなくて、ここ……」


 水上は譜面の一小節を指差す。


「この部分、まだしっくりこないんだ。もう少し対話の要素を入れたいというか、ピアノとサックスが単に合わせるだけじゃなく、呼応し合う感じを出したいんだよね」


「そうか……」


 奏太は譜面を凝視しながら唸るように考え込む。


 数秒の沈黙の後、彼は顔を上げてにこりと笑う。


「それなら、即興セクションを少し長めにしてみようか。ピアノのフレーズを聴きながら、俺がリアルタイムで応答する形にするんだ。ちょうど“会話”をするみたいに」


 その提案に、水上の表情が明るくなる。


「なるほど、譜面に書き込むより、むしろライブ感を重視するわけだな。そこに瑞樹のトランペットが重なると、きっと立体感のある音楽になる……」


 そう言いながら水上は、ペンを取り出して楽譜のその箇所に書き込みを始める。小節数を再構成し、ピアノとサックスでフレーズを受け渡すようにアレンジし、さらにトランペットが加わる空間を確保する。音楽理論を緻密に活かしながらも、制約にとらわれない自由なアイデアを組み込んでいく。


 まるで、お互いの心を音符に映し出すかのように、二人はしばらく黙々と譜面と向き合った。


 夕暮れの光が一層濃くなったころ、奏太がふと切り出す。


「そういえば、佐伯先輩と話したんだ。もしかしたら、大学祭の演奏に先輩のトランペットを加えてみるのもいいんじゃないかって」


 水上は少しだけ驚いた様子を見せるが、すぐに納得したように頷く。


「やっぱりそう言うと思った。瑞樹も、きっと嬉しいはずだよ。でも大丈夫かな? 彼もいろいろ大変だと思うし」


「うん。だけど、先輩はもう前を向いているみたいだった。『三人で演奏できる日が来たらいいな』って言ってたよ」


 その言葉に、水上の目に一瞬涙がにじむ。長い間、佐伯に支えられてきたことを思い返すと、胸がいっぱいになるのだろう。


「そうか……瑞樹らしいな。だったら、ぜひ一緒にやりたい。俺も、彼の音をちゃんと受け止めたいんだ」


 二人は顔を見合わせ、小さく笑い合う。そこには、互いに信頼を寄せ合う安堵感と、新たな創作意欲が満ちていた。部屋の時計を見れば、すでに日は落ちかけている。しかし、音楽への情熱は衰えを知らず、二人はそのまま譜面を書き足し、アイデアを議論し合う。


 夜が深まっていくのをほとんど感じないまま、彼らは新しい音楽を形にすべく、鍵盤とサックスを手に取り合った。

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