第九章 調和への道

第九章 第一話

 五月の空は、冬の名残をすっかり洗い流したように澄み渡り、暖かな日差しが青葉音楽大学の音楽棟の窓ガラスに映り込んでいた。中庭には彩り豊かな花々が咲き誇り、遠くには青々とした木々が風にそよいでいる。校舎に続く白いタイル貼りの廊下には、春の陽光が四角い光のパターンを作り出し、通り抜けていく学生たちの足音がリズムを刻む。


 その廊下の一角で、奏太はふと足を止める。視界の先には、トランペットケースを手にした佐伯の姿があった。佐伯が練習を終えて部屋から出てきたところを、偶然見かけたのだ。先日の灯台公園での一件から、二人はまともに話していなかった。もともと奏太と佐伯の間に大きなわだかまりがあったわけではないが、あの夜に起きた出来事――雨の中での再会と、水上との想いが交錯した瞬間――を経て、お互いに遠慮のようなものが生まれていた。


 奏太は一瞬ためらう。胸の奥からわずかな緊張がこみ上げるが、思い切って声をかけることにした。


「佐伯先輩……!」


 その声に反応して、佐伯は振り返る。予想外の呼びかけに少し驚いたように見えたが、すぐに穏やかな表情になった。


「葉山くん。ちょうど探していたんだ」


 佐伯の口調は想像していたよりも柔らかく、ぎこちなさのないものだった。奏太は少し拍子抜けしながらも、安堵のため息をつく。


 視線を交わす二人のあいだには、微妙に張り詰めた空気が漂っていた。しかし、それでも佐伯が少し話せるかと持ちかけてくれたことで、奏太は救われたような気持ちになる。二人は周囲の目を気にせず話せる場所を求め、音楽棟の最上階にある屋上へ向かうことにした。


 屋上に通じるドアを開けると、一気に開放的な空気が二人を包む。まだ春の気配が残る五月の風が心地よく、見渡せば青葉市の街並みが遠くまで続いている。大学の建物群や遠くにそびえる山々、そして視線を下ろせば中庭の緑が鮮やかに揺れていた。


 奏太は心が洗われるような感覚に襲われ、思わず深呼吸をする。佐伯もまた、微かに目を細めながら風の吹き抜けを楽しんでいるようだった。


「響は元気?」


 先に口を開いたのは佐伯だった。彼の視線はまっすぐ遠空を見つめているが、その問いかけには深い思いがにじんでいる。


「ええ、だいぶ良くなったみたいです。手首の痛みも落ち着いてきたと聞いています」


 奏太は少し緊張しながら答えた。灯台公園での出来事が脳裏に蘇る。雨に濡れた響を探し回り、ようやく見つけ出したあの夜のことだ。


 佐伯はそっと息を吐くと、空を見上げるように首を傾ける。その横顔には、何とも言えない寂しさと、それを受け入れようとする意志のようなものが滲んでいた。


「謝らなきゃいけないと思って。あの日は、僕も取り乱していたから」


 思いがけず先に頭を下げたのは佐伯だった。


 奏太は慌てて顔を上げる。


「俺こそ、すみません。あんな形で……」


「いや、いいんだ」


 佐伯はかぶりを振る。表情はどこか吹っ切れたようでもあり、優しげでもあった。


「君が響を救ってくれたんだから、むしろ感謝したいくらいだよ」


 その言葉に、奏太の胸が熱くなる。佐伯はきっと複雑な感情を抱えていただろう。昔からの親友としての思いと、それ以上の感情――その狭間でどれほど葛藤したのか、想像するだけで苦しくなる。


 しかし、佐伯はまるで全てを受け入れたかのような澄んだ目をしていた。


「正直に言うとね、最初は辛かったんだ。自分は響の一番近くにいる存在だと思い込んでいたから。だから、あの夜に気づいたんだ。君と響の間には、僕が入り込めないほどの何かがあるんだなって」


 彼は軽く苦笑しながら手すりに寄りかかる。その動作にどこか切なさが宿っているものの、彼の口調は穏やかだ。


「でも、考えてみたら、響が本当に輝いていたのは、君と一緒にいるときだったんだよね。最近はそういう彼の表情を見なくなっていたけど、君の存在が彼の心を解き放っているんだと思う」


 奏太は言葉を失う。自分が響にもたらした影響を、他者の視点から聞かされるのは初めてだった。ましてや、響を長く支えてきた佐伯からそう言われることには、大きな重みがある。胸の奥が熱くなると同時に、どう言葉を返せばいいのか分からなくなる。


 佐伯はそんな奏太の様子を見て、表情を緩める。


「大丈夫、そんなに深刻にならないで。僕もようやく踏ん切りがついたんだ。彼が本当に幸せになれる道を、そっと応援するのもいいじゃないかって。そう思えるようになったよ」


 屋上を吹き抜ける風が、二人の間の沈黙を一瞬だけ包み込む。遠くで鳥のさえずりが聞こえ、校庭で練習している吹奏楽部のトロンボーンらしき音色がかすかに響いていた。


 奏太はそっと佐伯に向き直り、頭を下げる。


「佐伯先輩、本当にありがとうございます。俺がこんなことを言うのはおかしいかもしれませんが、響のことをずっと見守ってくれたのは先輩です。だからこそ今、彼が前向きになれたんだと思います」


 すると佐伯は照れたように首をすくめ、わざと茶化すような口調で言う。


「まあね。でも君もなかなかやるじゃない。あんなふうに雨の中で響を抱きしめて……僕の立場がなくなるよ」


 最後の言葉は冗談めかしているようだったが、その笑みの裏には切なさが混ざっている。奏太はどう返事をすればいいか迷ったが、正直な気持ちを伝えることにした。


「俺は、あのときとっさに動いてしまっただけなんです。でも、もしあのまま水上先輩を一人にさせていたら、何か大切なものを失っていたんじゃないかと思って……」


 佐伯はうなずきながら、遠くを見つめる。


「君のそういうところが、彼の心の扉を開けたんだろうね。昔の彼なら、絶対にそんなふうに弱音を吐いたりしなかったはずだから。だからこそ、君たちが奏でる音楽は特別だよ。聴いていると、何というか……魔法にかかったみたいに感じるんだ」


 そう語る佐伯の瞳は穏やかで、それでいて力強い。まるで友人以上の感情を抱いてきた水上への想いを、自分なりに整理して昇華したようにも見える。


「これからも三人で演奏するのが夢だよ」


 佐伯は微笑む。


「君のサックス、響のピアノ、そして僕のトランペット。それぞれの音色が混ざり合って、一つの音楽を作り上げられたらいいなって思う」


 奏太は驚きと喜びに打たれつつ、力強く頷く。


「はい。僕も、三人でまた演奏したい。先輩のトランペットが入れば、きっともっと豊かな音になるはずです」


 その言葉に、佐伯の顔が少しだけほころぶ。


「よし、約束。楽しみにしてるから」


 そう言って二人は手を取り合うように軽く握手を交わした。風が強く吹き、髪をさらう。屋上の柵から見下ろす青葉市の景色が、どこかいつもよりも鮮やかに見えた。和解というより、より深い友情の始まり――そんな予感が、奏太の胸の中で柔らかな温かさに変わっていくのを感じる。

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