第三章 第三話
翌日の夕方、奏太は迷った末に、水上のスマホ番号へ思い切ってメッセージを送ることにした。文面を何度も書き直しながら、時間だけが過ぎていく。
「先輩、葉山です。アンサンブルの練習についてお聞きしたくて……。もしご都合よければお返事ください。」
自分で見ても固すぎると思うが、仕方ない。下手に砕けた文面にすると、また警戒されるかもしれない。送信ボタンを押し、スマホを伏せる。ドキドキしながら数分待ったが、なかなか既読にならない。
「はぁ……ダメかな」
そう呟いた瞬間、通知音が鳴る。画面を確認すると、なんと水上からの返信だ。
「寮の前なら少しだけ会える。今から来られるか?」
思わず「マジか……」と声が出た。ダメ元で送ったメッセージに、わりとすぐ返事が来た。それだけで希望が湧いてくる。
「行く行く!」
急いで用意を整え、水上の学生寮へと向かった。外は夕暮れが近づき、すでに空の一部が茜色に染まっている。どこか胸騒ぎを覚えながら、寮の中庭に急ぎ足で向かう。
すると、ベンチに座っていた水上の姿が目に入った。いつものきちんと整えられた髪が、やや乱れているように見える。顔色も優れないが、こちらに気づくとゆっくり立ち上がった。
「すみません。急に呼び出して……」
「……いや、気にしないでくれ」
声にはまだ警戒心が混じっているが、まったく拒絶する様子ではない。そこが以前と少し違うように思えた。
「先輩、体調は大丈夫ですか? アンサンブル実習で会わなかったから、ちょっと心配してたんです……」
その問いに、水上はほんの少しだけ目を伏せる。左手に包帯は巻いていないものの、まだ軽い腫れがあるように見えた。
「完璧な状態ではないが、前ほど酷くはない。少し無理をしたらまた痛むくらいだ」
「そうなんですね……。でも、無理しないでください。演奏は大事ですけど、身体を壊したら元も子もないですし」
さりげなく気遣うつもりが、どこか空回りしている気もする。水上は短く頷いただけで答えなかった。しかし、それを否定されないだけでも奏太には十分だった。
「それより、練習のことだろう? どうするつもりだ?」
「あ……はい。先輩が大丈夫なら、来週からでも再開したいと思ってます。俺もまだまだ吹き込みが足りないですし……」
水上はやや考え込むような表情になる。どこか苦しそうにも見える。
「完璧な演奏は今はできない。以前のようには……」
「完璧じゃなくていいんですよ!」
思わず奏太は声を張り上げてしまう。水上が驚いたようにこちらを見た。
「え?」
「俺は完璧なんて程遠いですし、お互い足りないところを補い合えれば、それでいいと思うんです。……正直、先輩の演奏をもっと聴きたいんです」
言いながら、先日の衝突のことを思い出す。あのときは傷つけるような言葉をぶつけてしまったかもしれない。でも、ここで逃げ出したくはない。あの日、練習室で聴いた圧倒的なピアノを忘れたくないから。
「俺があの日、練習室で聴いたピアノが……忘れられないんです」
その言葉に、水上の目がわずかに揺れる。まるで疑念と喜び、そして恐れを同時に抱いているような複雑な表情だ。
「……わかった。来週からまた練習をやろう」
そう答えた水上に、奏太は安堵の笑みを浮かべる。心の中の重石が少しだけ取れたようだ。しかし、ここからが本題だった。奏太は意を決して切り出す。
「あの、それとは別に……ちょっとお願いがありまして」
「お願い?」
「はい。明日の夜、僕のバイト先に顔を出してもらえませんか?」
水上が怪訝そうに首をかしげる。奏太は急いで説明をつけ加える。
「青葉駅の近くにある“ブルーノート”ってジャズバーで、週末だけアルバイトしてるんです。そこのオーナーの鈴木さんと一緒に、ちょっと演奏することになってて……どうしてもピアノの伴奏が欲しいんです」
――実のところ、この話は半分は嘘だ。バイトをしているのは本当だが、水上に伴奏を頼む必要があるわけではない。とはいえ“ジャズバー”という場所に彼を誘いたいがための口実だった。
水上は面倒くさそうに眉間に皺を寄せる。
「ジャズバー……? そこに俺が行って何をすればいい?」
「簡単なコード進行をなぞる程度ですから、即興をしなくても大丈夫ですよ。楽譜は用意しますし」
無理やりな誘いだと自分でも思う。しかし、奏太は少しでも興味を持ってくれることを願う。
「……まあ、気が向いたら行く」
一瞬断られるかと思ったが、意外にもその返事はやんわりとした肯定だった。奏太は思わず声を上げそうになるのを堪え、深く頭を下げる。
「ありがとうございます! 待ってます、場所は駅から徒歩5分くらいで……」
地図アプリで詳しい住所を見せると、水上はそれをスクロールしながら小さく頷いた。
「分かった。時間は何時だ?」
「夜八時頃からなんですけど、できれば少し早めに来てもらえると……」
「分かった」
そこで会話が途切れる。奏太は「よかった、誘いに乗ってくれた……」とほっと胸を撫で下ろすが、水上のほうから不意に声がかかった。
「葉山。どうしてそこまで俺に構うんだ?」
核心を突かれたようで、奏太は一瞬言葉に詰まる。しかし、やがて自分の本心をそのまま伝えることにした。
「先輩の音楽が……好きなんです。以前のようにキラキラした演奏も、今の葛藤してる姿も、全部ひっくるめて。だから、何か力になれたらと思って……でも、余計なお世話かもしれませんね」
最後の言葉は少し自虐気味になってしまった。だが、水上は「余計なお世話だ」と言いながらも、それを頭から否定はしなかった。ただ小さく息をつくと、少しだけ顔を背けて一言だけ呟く。
「……分かった」
それが了解を示すのか、それとも困惑の現れなのか判別がつかない。でも、奏太にはもうそれで十分だった。
翌日の夜、奏太は「ブルーノート」の店先で落ち着かない面持ちで時計を確認していた。時間は夜の八時ちょうど。しかし、水上の姿は見えない。駅からここまでの道はさほど難しくないが、初めてなら迷うこともあるかもしれない。
「大丈夫かな……やっぱり来ないかも」
不安そうな顔で呟いていると、店の中から渋い声がかかった。オーナーの鈴木海だ。
「奏太、そんな浮かない顔するなよ。せっかく面白そうな話を持ってきたんだろ?」
「はい、すみません。でも、来るかどうか分からなくて……」
鈴木は無精ひげを撫でながら苦笑する。三十代半ばとは思えない落ち着きがあり、店を切り盛りしている手腕に加え、かつてはプロのジャズサックス奏者として活躍していた。
「まあ、待ってみろ。天才ピアニストが本当に来るなら、それはそれで楽しみだし、来なければそれまでだ」
そう言って鈴木が店に戻ろうとしたとき、向こうの通りから水上の姿が見えた。いつも通りの整った服装で、少しだけ息を切らしている。
「先輩、こっちです!」
奏太は嬉しさを隠せずに声を上げる。水上は息を整えながら、「迷った」と小さく呟いた。
「でも……ちゃんと来てくれたんですね。ありがとうございます!」
店の看板には“Blue Note Aoba”と書かれている。夜の街に柔らかな明かりが漏れているが、どこか落ち着いた雰囲気を醸し出している。水上はその扉を見つめ、微かに戸惑いを浮かべた。
「本当に、俺なんかが入っていいのか?」
「もちろんです! ここは誰でも音楽を楽しめるお店なんですよ」
扉を開けると、ほんのり暗い照明の店内が広がっていた。壁にはジャズの名盤のレコードジャケットが並び、テーブルと椅子がこぢんまりと配置されている。ステージにはアップライトピアノやドラムセット、そしてマイクスタンドが整然と置かれていた。
「へえ……」
水上が小さく息を吐いた。まるで異世界に来たかのように感じているのだろうか。クラシックのコンサートホールとは違う、温かみのある空間だ。
「いらっしゃい。君が水上響……だな?」
鈴木が短髪を撫でながら話しかける。水上は軽く頭を下げ、「ピアノ専攻の水上です。よろしくお願いします」とぎこちなく応じた。そんな二人の様子を見て、奏太は内心ほっとする。
「今日はちょっとしたセッションをする予定なんです。先輩、ピアノ触ってみませんか?」
奏太が誘うと、水上は戸惑い気味に「いや……俺は、ジャズはまったく弾けない」とかぶりを振った。だが、鈴木はすかさず口を開く。
「構わないさ。クラシックでもいいし、好きな曲があれば。ここは自由な空間だからな」
そう言って鈴木はニヤリと笑う。水上はやや警戒するが、奏太が小声で「大丈夫です。緊張しなくてもいいんですよ」と声をかけると、仕方なさそうにステージのアップライトピアノを見やった。
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