第二章 不協和音

第二章 第一話

 金曜日の練習が終わり、週末を挟んで火曜日がやって来た。奏太は練習室に向かう足取りが重かった。前回の練習は、初回よりもさらに噛み合わないものになっていた。


 水上の厳格さに奏太が反発し、奏太の自由さに水上が眉をひそめる。二人の間には目に見えない壁が立ちはだかっていた。


「やっぱり無理かな……」


 奏太は廊下を歩きながら、そんなことを考えていた。もう別のパートナーに変えてもらおうかとさえ思い始めていた。あまりに異なる音楽観を持つ二人が、どうして一緒に演奏できるというのだろう。


 春の陽光が差し込む窓ガラスを通り抜け、廊下の床に長い光の帯を作っていた。その明るさが、奏太の気持ちとは裏腹に感じられた。


 練習室のドアを開けると、すでに水上の姿があった。彼はいつものように楽譜を広げ、集中した様子でピアノを弾いていた。だが今日は、いつもの練習曲ではなく、聞き覚えのある別の曲だった。


 ドビュッシーの『月の光』――その幻想的な響きが、静かな練習室に満ちていた。

 奏太はドアの前で足を止めた。今、目の前で奏でられているピアノは、あの日初めて聞いたショパンの時と同じく、心を揺さぶる何かを持っていた。技術的に完璧なだけではない魂の震えが、その指先から紡ぎ出されていた。


 水上の横顔は穏やかで、日差しの中でまるで別人のように見えた。長い睫毛が影を落とし、常に緊張気味に引き締められている唇が、わずかに緩んでいる。


 曲が終わり、水上が顔を上げると、そこに立つ奏太に気づいた。彼の表情が一瞬で硬くなる。


「いつから来ていた?」


「今来たところです」


 奏太は素直に言った。


「先輩、また勝手に覗いてると思ったでしょ? 今日は約束の時間ちょうどですよ」


 時計を見ると確かに三時ちょうどだった。奏太は笑いかけたが、水上は無愛想に楽譜を片付けていた。ドビュッシーのスコアの代わりに、前回までの練習曲、フォーレの楽譜が置かれた。


「準備はいいか」


「はい」


 奏太はサックスを取り出し、準備を始めた。マウスピースをぬらし、リードを調整しながら、先ほどの演奏について言うべきか悩む。でも、それは水上が見せたくなかったものなのかもしれない。あえて触れないでおこうと思いながらも、奏太の好奇心は抑えきれなかった。


「さっきの『月の光』、すごく良かったです」


 水上の動きが一瞬止まった。


「……ありがとう」


 短く返されただけだったが、少なくとも否定はされなかった。それが救いだった。


 準備を終えた二人は、いつものように個別に練習から始めた。今日は先週までの課題曲に加えて、新しい曲も村瀬教授から指示されていた。サン=サーンスの『白鳥』だ。


 奏太が楽譜を初見で吹いてみると、水上は前よりも細かく指摘をするようになっていた。


「そこのフレーズ、もう少し流れるように」


「このスラーは、軽すぎないように。もっと歌うように」


 厳しい指摘だったが、単なる批判ではなく、曲をより良くしようという意図が感じられた。奏太はそれに素直に応えようとした。


 水上のピアノも、以前よりも少し表現が豊かになっていた。まだ自分を完全に開放するには至っていないが、奏太の演奏に合わせて、わずかに柔軟性を持たせている。


 二人で合わせると、まだぎこちなさはあるものの、少しずつ息が合いはじめていた。練習の終わりには、初回よりもずっと良い演奏ができるようになっていた。


「少し良くなったな」


 水上が曲の最後の音を弾き終えて言った。


「そうですね! もう少し二人の音が溶け合えば、もっと良くなると思います」


 奏太が明るく返すと、水上はわずかに表情を和らげた。


「次回までに、もう少しテクニックを磨いてくるといい。特に息の使い方だ」


「わかりました。先輩も、もう少し柔軟に弾いてくれると嬉しいです」


 その言葉に、水上は少し眉をひそめたが、以前のように強く反発はしなかった。


「何を言っているんだ。俺は楽譜通りに弾いている」


「そうなんですけど、もっと……感情を込めても素敵だと思うんです」


 水上は黙って楽譜を片付け始めた。話題を変えようと、奏太は思い切って質問した。


「あの……、先輩はなんでピアノを始めたんですか?」


 突然の質問に、水上は戸惑ったように奏太を見た。


「なぜそんなことを聞く?」


「いえ、こんな素敵な音楽を奏でる先輩に興味があって。僕は祖父のジャズレコードを聴いて音楽を好きになったんです。先輩はどうなのかな、と思って……」


 水上は少し考えてから答えた。


「特別な理由はない。親がピアニストで、家にピアノがあったから、自然と弾くようになっただけだ」


 そっけない答えだったが、奏太は諦めなかった。


「じゃあ、いつから弾いてるんですか?」


「……四歳から」


「えっ、そんな歳から? コンクールとか出てたんですか?」


 水上は一瞬、言いよどんだ。


「ああ、いくつか」


 その素っ気ない返事に、奏太はこれ以上の質問は控えようと思った。だが、その時、水上のスマートフォンの画面が点灯し、名前が表示された。《母》と書かれている。


 水上は着信に気づくと、すぐに電話を切った。


「もう時間だ。今日はここまでにしよう」


 そう言って、彼は急いで荷物をまとめ始めた。奏太も、言われるままにサックスをケースに片付け始めた。


「あ、そうだ。来週の火曜日は僕、ちょっと予定が入ってるんですよ……。別の日に変更できませんか?」


 水上はスマホのカレンダーアプリを開き、少し考えてから答えた。


「木曜の同じ時間なら空いているが」


「その日なら大丈夫です! ありがとうございます!」


 二人は練習室を出て、別々の方向へ歩き始めた。奏太はふと振り返り、水上の後ろ姿を見た。いつも完璧に整えられた姿だが、今日は少し肩が下がっているように見えた。あの電話が気になった。


 窓の外では、春の風が桜の残りの花びらを舞い上げていた。新緑の季節へと移り変わる境目の風景が、二人の関係性と重なって見えた。

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