光と影のアンサンブル

海野雫

第一章 初めての音色

第一章 第一話

 穏やかな春の風が、満開の桜の枝を優しく揺らしていた。花びらがひらひらと舞い散り、その鮮やかな薄桃色が、青葉音楽大学の広大なキャンパスを一層華やかに彩っている。


 四月初旬。日本中の学生が新たなスタートを切るこの季節、漁師町の実家を離れ、晴れて音大生としての一歩を踏み出した葉山奏太は、胸に抑えきれない期待とわずかな不安を抱きながら大学の正門をくぐった。


 ──音楽で生きていく。


 そんな夢を本格的に追いかけたいと思ったのは、高校二年のとき。家業の漁業を継ぐか、進学して音楽を学ぶか、悩みに悩んだ末にやっと出した答えだった。両親は反対こそしなかったが「将来はどうするんだ?」という問いは常につきまとい、姉の千鶴は何も言わずに背中を押してくれた。その家族への思いと、自分の選んだ道への決意が混ざり合い、奏太の足取りをほんの少しだけ重くも軽くもしていた。


 それでも、音大の校舎を間近にした瞬間、彼の中で高鳴る興奮は隠しきれない。まるで新鮮な潮風を肺いっぱいに吸い込むような、そんなワクワクが体の奥底から湧き上がってくるのだ。


 朝のオリエンテーションを経て、広々とした中庭では新入生同士が自己紹介を交わし合っている。クラシック、ジャズ、ポップス、民族音楽……あらゆるジャンルから集まった若き音楽家の卵たちが、気恥ずかしそうな笑い声を上げつつ「よろしくお願いします」「これから仲良くしてね」などと言い合っていた。


 奏太も同じサックス専攻の一年生たちと自己紹介しながら、改めて自分が音楽大学に来たのだと実感していた。海辺の町では吹奏楽部があるとはいえ、音大を受験する仲間はほとんどいなかったため、こんなに大勢の音楽仲間と出会えるのは生まれて初めての経験だ。


「ねえ、葉山くんってどんな音楽をやりたいの?」


 同じクラスになりそうな男子学生が尋ねる。


「俺はジャズが好きなんだ。祖父の影響で、小さい頃からレコードを聴いてて……。もちろんクラシックも勉強はするけど、メインはジャズかな」


「へえ、そうなんだ。ジャズってなんだか格好いいよね。即興演奏とか憧れる」


 ひとしきり会話を弾ませた後、奏太は「そうだ、サークル見学に行ってみよう」ということを思い出した。今日は新入生歓迎イベントで、各サークルのオープンキャンパスが行われているらしい。ジャズ研究会もこの日に合わせてセッションを披露するという噂を聞き、すでに楽しみにしていたのだ。


 午後一時。講義棟のホール前には、軽音楽部や吹奏楽部、合唱サークルなど、幅広いサークルのテントが並んでいる。ボランティアで先輩たちが受付をし、新入生に「うちに来ない?」と声をかける姿があちこちで見られた。奏太はパンフレットを片手に「ジャズ研は三階の三〇五教室」と書いてある一文を確認し、足早に建物の中へ向かう。


「よし……ここを上がっていけばいいんだな」


 一階フロアにはピアノやバイオリン、チェロなどの練習部屋があり、カーペットの敷かれた廊下には防音のドアがずらりと並んでいる。そこからかすかに漏れてくる音はクラシックが多いようだ。モーツァルトやベートーヴェン、バッハなど、それぞれの楽章が耳に入るたびに、奏太は「ああ、本当に音大に来たんだな」と気持ちが上ずってくる。


 漁師町の高校でも、奏太は吹奏楽部に所属していた。だが、部員は少なく楽器も古く、上達できる環境とは言い難かった。その分、家では祖父のコレクションのレコードを聴き、youtubeなどでもプロの演奏を研究して独学に励んだ結果、どうにか受験を突破することができた。周囲からすれば「上手いかもしれないけど、所詮田舎レベルだろう」という声もあったが、奏太としては自分の音がどこまで通用するのか純粋に試したい気持ちが強い。


 階段を昇ろうとした瞬間、ふと耳をつくほど美しいピアノの音が流れてきた。最初は遠くで響いていたのが、徐々に近づいてくるように感じる。まるで廊下中の空気が、その音色で満たされていくようだ。


「なんだろう……すごく透明感がある」


 胸にすっと入り込むようなピアノの旋律。小刻みな装飾音が、清らかな水の滴りを連想させる。その音を聴いた瞬間、奏太の心臓がわずかに高鳴った。まるで初めて海に潜った時、青く澄んだ世界を目にした時の衝撃に似ている。好奇心と畏怖に近い感情が入り混じり、不思議な力で惹きつけられた。


 三階へ向かうつもりだった足が、自然と音のする方向へ導かれる。二階の廊下の突き当たりには「第二練習室」という札のかかった扉が半開きになっていた。そこからこぼれるピアノの音は、先ほどのクラシックとは格が違うようにさえ感じる。


 奏太はそっと覗き込んだ。そこには長身でスリムな男子学生が背筋を伸ばしてピアノに向かい合っている。黒髪は短めに整えられ、かけている眼鏡の奥には鋭い光が宿っていた。


 耳を澄ますと、ショパンの「バラード第一番」が聞こえてくる。祖父のレコードコレクションにあった、数少ないクラシック曲の一つだから記憶に残っているのだ。しかし、この生演奏はレコードで聴いた何ものとも違う。技術的に完璧なだけでなく、表面には見えない激情が伝わってくる。深い水底から立ち上る泡のような、どこか哀しげな情熱が宿った音──それが、まっすぐに奏太の耳と心を打った。


「すごい……まるで生きているみたいだ」


 息をするのも忘れるほどに、その演奏に引き込まれる。やがて曲は最終部に差しかかり、音の波が激しくうねりを上げる。複雑に編み込まれた旋律が渦を巻くように展開し、最後に向かって感情を極限まで高めていく。奏太は思わず前のめりになって、体が練習室のドアに当たってしまった。


 ガタン……!


 やや大きめの音を立ててドアが開く。ピアノの音が一瞬にして止まり、練習室の中の張り詰めた空気がぷつりと途切れた。その学生がぎこちなく振り向き、目を細める。その瞳は、さっきまでの優美な旋律が嘘のように冷たく鋭い。


「……君は誰だ? 人が練習しているところを勝手に覗くなんて非常識だろう」


 低く、しかし腹の底に響く声。それだけで琴線に触れるような、独特の圧力があった。奏太は慌てて頭を下げる。


「す、すみません! その……あまりに演奏が素晴らしくて、つい聴き惚れてしまって……」


 言葉をつなげようとするが、こちらを睨むその学生の視線は頑なだ。まるで一切の侵入を許さない透明な壁を築いているかのよう。


「出ていってくれ。集中が途切れた」


 それだけ言い放つと、彼は再び鍵盤に指を置いたが、すぐに動きを止めた。奏太がまだドア口で立ち尽くしているからだ。


「あ、あの……本当に申し訳ないです。でも、本当に凄かったんです。こんな演奏、初めて聴きました」


 奏太は必死に伝えようとするが、相手の冷淡な態度は変わらない。まるで“それ以上は言葉を重ねるな”と言わんばかりだ。ついにいたたまれなくなった奏太は「失礼しました」と小声で告げ、部屋を出る。


 廊下に戻ってドアを閉めると、鼓動の音が自分の耳にうるさいほど響いている。恥ずかしさと驚きと、それを上回る興奮。自分がジャズを愛する理由を忘れてしまうほどに、あのクラシックの演奏は衝撃的だった。


「……何だったんだろう、あの人」


 思わずつぶやきながら、ドアに貼られた予約表に目を留める。そこには《水上響(二年)》《使用時間:13:00〜15:00》と記されていた。


「水上……響さん、っていうんだ」


 その名前を口にした瞬間、自分の胸に焼きつくような感覚がした。柔らかさと鋭さを両立させたあのピアノ。どうやってあんな音を生み出すのだろう。奏太はサックスケースを強く握りしめながら、もう一度聴いてみたい衝動に駆られる。だが、先ほどの態度を思い出し、入口をうろつくのはやめておいた。


 結局、その日はジャズ研の見学にも行かず、奏太は帰路についた。自分でも訳が分からないが、水上響の演奏が頭から離れない。あの冷たい態度も含め、いったい何者なのか。


 音楽大学に入学したばかりだというのに、こんなに強烈な印象を与えてくる人物がいるとは思わなかった。胸がざわつく。もしかしたら、この大学生活の中で水上と深く関わることはないかもしれない。だが、奇妙な胸騒ぎと高揚感を同時に抱えながら、「もっと知りたい」という思いが小さな種火のように心に残っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る