第1話

 ついに七夕の日が近づいてきてしまった。前までは一年ぶりに彦星と会えることを喜び心の奥底から随喜していたというのに、今はとても嬉しく思うことが出来ない。

 暗闇の向こうを見張り、満点に輝きながら流れる天の川をぼんやりと見ながら私は記憶を追憶する――。


 物心がつく頃から着物を作る仕事を私はずっとしていた。年頃になった頃、父は私にお婿さんを迎えると言った。気乗りなどしなかった。今まで男性と付き合ったこともなかったし着物を作る仕事が好きだったから、結婚などせずにずっとずっと着物を作っているままで良いと思っていた。

 でも父は方々を探し回り天の川の岸で牛を飼っている、彦星ひこぼしという若者を見つけて連れてきた。早くに両親を亡くしてずっと仕事を一人でこなしており、よく働く立派な若者であると父は説明した。私は毛頭話すのも会うのも嫌だと言ったが、ついに根負けして彦星と会うことになった。

 私が生まれてまもなく母がすぐに亡くなり、男で一つで育ててくれた父をむげには出来なかったから。

 彼を初めて見た時、綺麗な艷やかな黒髪が印象的だった。そして、私と目が合うと優しく微笑んだ。

 彼の暖かな優しい目を見た時、私はすぐに彼のことを好きになった。

 出会った時に初めて恋というものを知り、恋はするものではなく落ちるものであると初めて気づいた。心や感情だけではなく全身から彼を愛おしく思った。

 彦星も初めて会った時、私を一目見ただけで好きになったとのちに語っていた。

 私達はすぐに結婚をして楽しい生活を送るようになった。

 とても濃い蜜月だった。どの花の蜜よりも甘く、どの花の匂いよりも甘美な匂いを思わせる日々で私の今までの日常を全て取り払い彦星に捧げた。彦星も同様に私との時間のために全てを捧げて共に居てくれた。何をするにも一緒で、常に互いの心も体も一緒であった。

 私達は仕事を忘れて遊んでばかりいた。

 そんな遊びだらけの毎日にツケが回ってくるのは早かった。


「仲が良すぎるのは困るのよ。織姫おりひめが機織りをしないんで、みんなの着物が古くてボロボロなのよ。早く新しい着物を作るように言ってください」

「彦星が牛の世話をしないので牛たちは痩せこけて病気になってしまったよ」


 私の父に皆が文句を言いに来るようになった。私の父はすっかり怒ってしまい私達を叱りつけた。


「二人は天の川の東と西に別れて暮らすがよい!」


 そして無理矢理に私達を引き離して離れ離れにした。

 私は毎日泣き続けた。目を真っ赤にして涙が枯れても泣き声だけを漏らし続け、声が枯れても悲しみが止むことはなかった。


「……ああ、彦星に会いたい。……彦星に会いたい」


 心の底から愛した人と話すことも、一目会うことも出来なくなって私は毎日絶望し泣き続けた。毎日泣き続ける私を見て父は聞いた。


「織姫よ、そんなに彦星に会いたいのか?」

「はい。会いたいです」


 泣きはらした顔を上げて答えた。


「それなら一年に一度だけ、七月七日の夜だけは彦星と会ってもよいぞ」


 もう決して、もう二度と会えなくなると思っていた私は一年に一度でも彼と会えることに喜び、その申し出を受け入れた。

 それから私は一年に一度、彦星と会える日だけを楽しみにして毎日一生懸命にはたを織った。

 天の川の向こうの彦星も同じように私と会うその日を楽しみにして、天の牛を飼う仕事に精を出した。

 そして待ちに待った七月七日の夜になると、私は小舟に乗りカササギの後を追って船を漕いだ。同じように小舟で船を漕いできた彦星と天の川にある小島で二人で逢瀬を楽しんでいた。

 ……そう、しばらくの間は。

 初めのうちは一年に一度だけでも彦星と会えることを喜んでいた。けれど長い悠久の時の中で初期の淡い恋心はいつの間にかすっかり薄れ、色あせてしまっていた。

 私達、星の住人は俗世の人たちとは寿命の流れ、年の取り方が違う。

 一年は同じように流れていても年を取る速度が果てしなく長い。永久とも言える悠久の寿命の中で生きているのだ。

 七夕の一夜だけ、彦星と今まで何百回会ってきたか。もう思い出せないほど長い時が過ぎていた。

 私の父もいつの間にか年老い、彦星と十数回前に会った時ごろに亡くなった。父が亡くなっても私達は自由に会うことは出来なかった。一年に一度だけ、七夕の夜だけしか私達は会えないようになっていた。

 周りの天界の人々が止める訳でもない。気付いたら天界の規則、しきたり、儀礼となってしまっていたのだ。

 いつの間にか私達の関係は俗世に神話となって引き継がれ、紡がれてこの天界の規則を固定させてしまっていた。天上の人達だけでは曲げることが出来ない呪縛になっていた。

 彦星と私を別々の岸に離している天の川は他の人ならいとも簡単に数時間で渡れるようになっているが、私達が七夕の日ではない時に渡ろうとすれば川は荒れ狂い、全ての船、鳥さえも入ることを拒んだ。

 結局、私達が会えるのは父が決めた七夕の七月七日、年に一度だけであった。

 そのことは今でも変わらず、これから先も変わらない事実である――。



「七夕の日のことでやはり悩んでいるのか? 織姫?」


 低い声によって今までの過去の記憶から現実に戻された。

 扉を開けこちらを心配そうに見ていた武仙ぶせんへ視線を送る。


「ええ。彦星にあなたとのことを伝えるべきかどうか悩んでぼーっとしていたわ」


 武仙が私のところまで近づいてきて同じ窓の欄干へ腰を下ろし、私の手の上に手のひらを重ねる。


「彦星に会うのが辛いわ」


 武仙の手のひらから伝わるぬくもりを感じつつ口に出す。


「行かない、会わないという選択肢はないのかい?」


 彼は真摯な瞳を私に向けて尋ねた。


「前にも話したけどその選択肢はないわ。もう、決まりごとというか儀式のようなものなのよ、私達が七夕の日に会うのは。いいえ、それ以上の法則のようなものなの」

「でも、会わなくても何かが起こるなんてことはないんだろう?」


 彼の手に力が少し入ったのを感じた。


「ええ、強制力も拘束力もないけれど会って当然。会わないなんてありえない、変え難い自然法則のようなものがあるの。うまく口では伝えられないけれど……」


 肌で感じている心情、感覚的に拒否出来ない心情を伝えようとするがうまく言葉として紡げなかった。

 彦星と七夕に会うことを拒絶することは出来ない。眠るな、食べるなと言われているのと同義の法則が私と彦星の間に流れてしまっている。

 これが今となっては忌々しい呪いである他ないと私は感じてしまっている。


「そうか。なら明日、彼と会うことは避けられないんだな。伝えるつもりなのか? 俺達の関係を?」

「実際に会ってみないと分からないわ。でも、きっと言えないと思う」

「そうか、俺は織姫に任せるよ。織姫が自分で選択して決めてくれ」

「……ええ、ありがとう。ごめんなさいね、変な心配ばかりかけてしまって。子供にも良くないわよね」


 ほんの僅かに膨らみ始めたお腹を私は優しく静かに愛撫した――。

 武仙と出会ったのは去年の九月、風が冷たくなり始めて秋を感じ始めた頃だった。

 彦星と七夕の日に会ってから二ヶ月が経ちもう寂しも郷愁もなくなっていた頃だ。と言っても彦星への寂しさも惹かれる気持ちも数十回前の七夕の後から数日で無くなる程、互いの関係に慣れきってしまっていたが。

 いつものように機織りをして着物を作っていた時、見慣れない男性が訪ねてきた。それが武仙であった。


「実はこの着物を作った人を探してまして。ここの織姫さんが作っていると聞いてやってきたんだけれども、これはあなたが作った物でしょうか?」


 男性が手にしていた着物を見ると確かに以前に私が作ったものであった。

 織り方や着物に藍染めされている朝顔には覚えがあった。


「ええ、そうです。確かにこれは以前に私が織った物です」

「やっと見つかった。ずっと作った人をあちこち探し回っていたんだよ」


 顔を大きくほころばせて満面の笑みを見せて安堵していた彼に私は尋ねた。


「こちらの着物が何かありました?」

「いや、実は私も機織りの仕事をしてるんですがね、サイズが合わないからと知人から貰ったんですよこの着物。よく見ると複雑ながらも綺麗に繊細に織られていて、どんな人が作ったのか訪ねてみたくなって探してたんですよ」


 浅黒い肌と肉付きがよく締まっている体の彼が同じ機織りの仕事をしているのには驚いたのを今でも印象深く思い出せる。

 武仙とは同じ機織りの仕事を通して知り合いすぐに仲良くなった。私の機織りの高い技術と能力をとても褒めてくれた。

 彦星と七夕の時にしか会えなくなるようになって間もない頃、少しでも寂しさを忘れようと機織りにだけ集中して技能を高めた。

 彦星のことを思い出さないようにするには意識を全く別のところに向けるしかなかったから。機織りで気分転換を行い続け、いつの間にか繊細さも技能も上がっていたのだ。

 春にはそんな経緯を武仙にも打ち明けられる程、親しく親密になっていた。

 そして、少しずつだけれども確実に私の心は武仙に惹かれていくのを自覚した。

 なんて哀れで薄情なのだろうと、自責の念でいっぱいになっても私は武仙と会うことを止められなかった。

 そして、週の日課のようになっていた私の織り方、細かい折り目の織り方について教えている時、私は武仙から告白された。

 是認も否認も私は口に出せなかった。

 そして重ねられる武仙の手と唇を拒むことも出来なかった。

 彼が私を求めることも、肌に彼の手や指が触れても私は拒むことをしなかった。

 そのまま私は彼を彼自身の体を受け入れた。何も考えず、流れる水のように私は流れに身を任せて沈んだ。

 ただ、普通の水や流れる川が感じない深い幸福感と温かい快味を感じていた。

 武仙との情事は彦星とは違った。私に触れる彼の唇も舌も指も手も腕も、とても優しくてまるで朝顔の蔦が這うように柔らかく絡んで私を包み込んだ。

 とても心地よくて、久しく味わっていなかった精神的恩恵を私は感じ続けた。


 ――そして私は武仙との子供を身ごもったのだ。

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