ハローもしもし
遊月海央
第1話
「あれは今年の1月だったと思います」
心春(こはる)はカフェの店主亜美がローズヒップとハイビスカスティを置くより早く語り出す。
「うん、なあに?なにかあった?」亜美は身を乗り出して話を聞く。
「何かあったってもんじゃないんですよお。聞いてください」
「聞く聞く」と亜美は前の席に座る。
「ま、とりあえず飲んでみて。綺麗になるわよ」
と亜美にすすめられて「はい」と心春はリチャード・ジノリのイタリアンフルーツのカップ&ソーサを手に取った。
「んん。美味しい」
「それはよかった」
不思議な国のアリスに出てきそうなくらいフリフリな花柄のワンピースを着た心春は、もふもふなウサギの毛で作られたような白いカバンから、フランフランのピンク色のハンカチを取り出して、口元を拭いた。
「で、どうしたの?」
心春は三ヶ月に一度ほどのスパンで、亜美が経営するハーブティーのカフェ「white moon」に足を運んでは、近況を話して帰っていく。
今日は久しぶりであり、半年くらい空いていた。たっぷり話題も溜まっているだろうと亜美は聞く準備をする。
カウンターをチラリと見ると、バイトのひなたは本を読んでいた。ああ見えても頼りになるので他に客が来ても大丈夫そうだと亜美は心春に集中できる。
「上司から大学時代の恩師の息子さん紹介されまして」
「あら、恩師って、大学の教授のことかしら」
「はい。あの札幌駅北口の大学です」
「まあ、北海道で一番の大学じゃない」
「だから、まあ、結構いい話をありがとうって感じだったんです」
「普通はそう思うわよね」
しかし心春はわざとらしいくらい大きなため息をついた。
「私も最初はそう思ったんです」
「なるほど。聞くよー」
その時店の入り口ドアの上部に付けてある真鍮のドアベルが鳴った。誰かが入ってきたようだ。
ビルの二階に備え付けの窓のそばのテープルで、心春は壁を背に座っており入り口は正面に見えている。亜美から入口は背後になるため、左肩越しにドアを見た。
そこにいたのは、時折会社帰りに寄ってくれる近くのビルで働くサラリーマンだった。
この店ではたくさんの客が亜美に悩みを打ち明け、時にはカウンセリング的なことや有料だけど占いもすることもある。
だが全員というわけではなく、この空間でハーブティーを飲むのが好きで通ってくる常連もいて、彼はその一人だ。
若い女性が店主を捕まえて悩みを打ち明けている場面によく出くわしていた彼は心得たもので、窓側のテーブルと最も離れたカウンターの奥に位置するテーブルに座った。と同時にひなたはメニューと水を奥に運んでいく。
亜美は再び心春に向き合う。
「紹介されてどうしたの? 」
「相手は、私より三歳上の二十七歳で十分大人だったし、紹介してくれた上司のこと、結構好きだったので、とりあえず一度上司夫婦と一緒に会って。悪い人じゃなさそうだったから、その人と付き合ってみることにしたんです」
「まあ、そうだったの。どうりで最近全然来てくれないと思っていたわ。デートで忙しかったのね」
いいえ、と心春は首を振った。
「付き合いだしたのが一月の終わり。その後バレンタインにチョコレートを渡して、当然ホワイトデーにお返しがあると思うじゃないですか」
「まあ、そうね」
「その彼、二月の末からアメリカに留学しちゃったんです。つきあってたった一ヶ月ですよ」
「あらまあひどいわね。それに確か彼、二十七歳だったわよね。学生さんだったの? 」
「はあ、まあ。正確には、大学院生」
「あらまあ、優秀なのね」
「そう思いますよね」
「違うの? 」
「法学研究科って言っていたかしら。法律を学んでいるって」
「まあ。将来は弁護士さんね」
「そう思います」
心春はうなだれるように肩を落とす。
「で、留学して遠距離になったのね」
「はい」
ジノリのカップでハーブティをもう一口飲むと、
「聞いてください」と再度心春は言った。
さっきからずっと聞いているわよなんて亜美は言わない。ニコニコ笑って頷いている。
「お互いよく知りもしないうちの2月末に彼はアメリカの大学で勉強すると旅立っていって。まあいいです。結婚を前提にって言われてつきあっているのだし、将来のためだし、それはいいんです」
「そうね。でもそう思える心春ちゃんは偉いわね」
「ありがとうございます」と小首をかしげ、わざわざグスンと言いながら鳴きまねをして見せる。
「でもね、現実はちょっと違うんです。私も少しの間ならってひとりで頑張ろうって思っていました。週に一回スカイプで話したりしていましたし。今時国際電話もアプリでできるので便利だし」
「まあ、すごいのね。私が若い頃なんて、国際電話なんてとんでもない金額になっていたわ」
「今もたぶん国際電話だとそうなるのかな。わかんないけど」
「でもまあ、今の時代ならSNSとかで簡単に連絡とれるんだし、寂しくないんじゃない? 」
「でも、週に一回時間位電話する的な関係で三ヶ月くらいたっていて。ゴールデンウイークも日本に帰ってこなかったし。友達も、つきあってそんなに期間たっていないんだから、別れてもいいんじゃないとか言うようになってきて」
「うーん」
「それで、いつも向こうから連絡が来ていたので、こっちから連絡してみたんです」
「なるほど」
「それが先週の初めのことです」
「あら」
これは何かあったなと思ったけれど、亜美は口は挟まず聞いた。
「突然こちらから彼の携帯に国際電話をかけてみたんです」
心春はそこで一度天井を見上げてため息をついた。亜美が肩越しに後ろをむくと、ひなたが奥の席にハーブティを運んでいくところだった。まだ十代だけれどしっかりしているし、ハーブティの淹れ方が抜群なのだ。
「しばらく呼び出しベルが鳴っていたんだけど、突然それが途切れて聞こえたのは、彼の声ではなく、若い女の人らしいハローと言う声でした」
「ん?」
予想通りの展開だったけれど、亜美はそれは困ったわねといった顔をしてみせる。
「私びっくりしちゃって。思わず受話器を置いてしまって。それから間違えたのかもしれないって、もう一度しっかり確認しながら、ゆっくりボタンを押したんです。でも・・・呼び出しベルの後に聞こえてきたのはさっきと同じ声でハローって言う女の人の声でした」
「ああ」と亜美もため息とともに答える。
「で、ハロー。沈黙。ハロー。沈黙。ハロー。もしもし。ハロー。もしもしってなって」
えええ、なにそれ、と亜美はつい笑ってしまう。若干修羅場でありながら、ちょっとおもしろい。
「そうやってそう言い合っていると受話器の向こうで誰かが戻ってきたみたいな気配がして、すぐに男と女が英語の早口で何か言い争う声がして。でも何を言っているか聞き取れなくて。女の人はかなり感情的に怒鳴っているのが聞こえて、そしたら突然もしもしと男の人の声がしました」
「ああ、彼氏クンね」
「はい。そして、大学の友達何人かと飲んでいて、たまたま彼女だけ留守番していて、どうのこうのって何も聞いていないのに、ペラペラと言い訳にしか聞こえないことをずっと話していて」
「何人かいた様子だったの?」
いいえと心春は首を振る。
「言い訳を言ってから、またかけ直すよ。ごめんねと彼は電話を切りました」
「ああ、なるほどね」
「友達に話しても、みんな、そんなことだろうと思ったよって反応で」
「彼のことを信じようって気持ちにはならなかったのかしら? 」
「うーん。実はそのあと計算してみたら、アメリカでは朝の十時頃で。とてもじゃないけど、おかしいなってなりました」
「そりゃあ、そうなるね」
「その二日後くらいにまた彼から電話があって。だから、朝の十時に飲み会っておかしくないって聞いちゃいました」
「あ、直球で聞いちゃったんだ」
「はい。そういうのを我慢できないタイプなんです。そしたら彼、朝ごはんを買いに出かけて戻ったら、あの女が勝手に部屋に入っていたんだって言い出して」
亜美はもう我慢できなくて笑ってしまった。
「笑ってごめんね。でもさ、ほら、彼氏クン、頭いいはずなのにね」
どう考えたってつじつまが合わないし、そんなの信ぴょう性がないってわかるはずだ。なのにそんなことを言い出すなんて。
ちょっとかわいいと思ったけれど、それは大人から見た意見であって、当事者にはたまったものじゃないだろうこともわかっている。
「それで心春ちゃんはなんて言ったの?」
「とりあえずわかったって。本当はわかっていなかったけれど、もう不信感しかないから、どうでもよくなっちゃって」
「それは、わかるわ」
「そしたら三日前なんですけど、突然日本に帰って来たんです、彼」
「えええ」
「で、呼び出されてレストランに行ったら、彼のご両親もそこにいて」
「ひえええ」
「円山のレストランなんですけど。前から行きたい場所だったからテンションはまあまあ上がっていたんですけど、その二人の姿見て、ダダ下がりですよ」
そのあたりからは、笑っていい話題であるかのごとく、亜美は大笑いしていた。
「で? 」
亜美につられたのか、心春もちょっとだけ笑っていた。
「でね、彼の母親がレストランで頭を下げて言ったんです。この子は寂しくてつい浮気をしてしまった。このことはしっかり私たちが叱っておいたから、水に流してほしいって。そして、できればこのまま結婚を前提に付き合ってほしいって。父親の方は慰謝料的なものも払うと暗ににおわせてきて」
「ありゃ」
亜美は、開いた口がふさがらないとはこのことだとばかりにあんぐりした。
「で、結局どうしたの? 」
すると心春は両手を叩いて楽しそうに笑い始める。
「どうするも何も」
「まあ、別れるよね」
「別れますよね」
「彼氏クンはどうしたの? そこにいたんでしょ? 」
「ああ、そうでした。いたんですけど、ほとんどうつむいて何も言ってきませんでした」
「え?ごめんねもなかったの? 」
ああ、と心春は上を見るようなしぐさをして考えた後、
「そういえば、彼、一回も謝っていませんでした」
そう言って、面白そうにケラケラ笑い出す。
「あとはまだ上司に報告していなんですけど」
「いいよ、ほっておきなよ、大人同士の付き合いのことだし。それに、そんな相手を紹介して、謝るべきは上司でしょ」
「ですか? 」
「まあ…本当言うと、大人になって、こっちから一歩引いて、上手に相手の浮気のことをチクリと言いつけながら、お役に立てず申し訳ありませんって言っておけば完璧じゃないかな」
「はあ。それだけが気が重いけど。頑張ります」
「よし!偉いぞ。そして、色々よく頑張ったね」と亜美は手を伸ばして心春の頭を撫でる。
「ひなたちゃん、悪いけど、紅茶シフォン持ってきて、生クリーム添えて」とカウンターに向かって大きな声で伝えると、
「がんばった子には私からケーキプレゼントしちゃうから。おいしいものでも食べて、嫌なこと忘れちゃって」ととびきりの笑顔で伝えた。
「亜美さ~ん!」
と心春が喜んだところでドアベルの音がして、また誰か入ってきた。
「あら」
振り返るとそこにいたのは、やっぱり心春と同じく半年ぶりのお客様だった。何か悩みがありそうな顔をしている。
「ケーキ運ばれてきたら、ゆっくり食べて帰ってね」
と言い残すと、亜美は席を立った。
心春は、さっぱりした顔でにっこり頷いた。
ハローもしもし 遊月海央 @mioyuzuki
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