嘆きの乳粥、夢の残り香[後編]

五色ひいらぎ

我が手を取り、囁く者

 大広間に並ぶ円卓の群れ。純白のクロスの上では、早春の花々にも劣らぬ鮮やかな料理が咲き競っている。赤く染まったトマト煮、色とりどりの野菜や魚を漬け込んだマリネ……高貴な人々が身にまとう、艶やかな衣装や宝飾品と並んでさえ、色合いの華やかさは決して引けを取らない。とはいえこの目線には、私の職責――国王付毒見人、すなわち料理の番人としての贔屓目が、多少は入っているのかもしれなかった。

 そして私は知っている。これは夢だ。飢えたこの身が見せる、10度目の幻だ。

 漂う肉やソースの香りに惹かれ、不用意に手を伸ばせば、すべては霧と消えてしまう。知っているからこそ、私は何もしなかった。手の代わりに口を動かした。


「満足ですか。ラウル」


 声に出せば、隣で腕を組んでいる宮廷料理長ラウルは、不敵な笑みを返してきた。


「何に満足だってんだよ。レナート」

「これほど多くの、高貴な人々に讃えられて、あなたは満足ですか。そう訊いています」


 広間からは、料理への賞賛が口々に聞こえてくる。だがラウルは、無言で首を横に振った。

 この男、何が言いたいのか。いぶかっていると彼は、私にしか聞こえないほどの小声でつぶやいた。


「当たり前の結果に満足はしねえよ。俺を誰だと思ってんだ」

「……相変わらずですね。天下無双の天才料理人殿は」

「わかってんなら、なんで訊いた」


 ラウルの口調に、わかりやすい皮肉が混じっている。


「当代随一の天才料理人に、ダメ出しできる奴なんてひとりしかいやしねえ……あんたも当然、よーく知ってるもんだと思ってたがな」

「そう、ですね。おかしなことを、言ってしまいました」


 私も小声で、くっくっと笑って応える。

 なぜ忘れていたのか。そう仕向けたのは私なのに。余人の百の感謝でも、千の称賛でも、満たされることがないよう焚きつけたのは、ほかならぬ己の所業なのに。

 広間のざわめきが、遠く響く。継ぐ言葉が出てこない。


「で、どうだ。今日の料理は」


 ラウルに問われ、答えに窮す。

 目の前の幻に見覚えがない。様子から見て、これはデリツィオーゾ王宮の祝宴だろう。料理人も毒見役も、本来招かれる場ではない。招かれた覚えもない。それでいて調度品の様子も、人々の姿形も、料理の色も匂いも、手を伸ばせば触れられそうなほどに鮮明だ。

 直接見たことのない景色。口にしたことのない料理。であれば所感を述べることもできない。

 そして、今この場で試すこともできない。触れればすべては霧と消えてしまう。


「……相変わらずの美しい盛り付けです。良い匂いがしていますね」


 答えられることだけを返せば、ラウルは露骨に顔をしかめた。けれどすぐに、何かを理解したかのように小さく頷き、言った。


「食いてえか?」

「だめですよ。ここは貴人の祝宴場。私たちが割り込んでよい場ではありません」


 いつしか大広間から、弦楽の演奏が聞こえはじめていた。広間前方の空間で、食事を終えた招待客の方々が、手に手を取って舞踊バロを踊り始めている。ラウルはどこか楽しげに、舞う客人たちを一瞥した。


「踊るか。俺たちも」

「は?」


 何をふざけたことを――そう言いかけた私へ、ラウルは満面の笑みを投げかけた。そして私の手を掴み、強引に大広間の最前方へ引きずっていく。


「あなた、何を――」

「どうせ夢なんだろ。だったら、何やってもかまわねえよな」


 息を呑んだ。ラウルは、少なくとも今ここにいる彼は、この場が現実でないことを知っている。

 だとすればこのラウルは、私が作り出した幻影なのか。それとも、行方の知れぬ彼もまた、どこかで同じ夢を見ているのか――

 私の考えは、すぐに断ち切られた。ラウルが私の手を取り、客人たちに交じってステップを踏み始めたのだ。およそ料理人とは思えない、華麗な足さばきで。

 なぜだろう、私の足もまた、ダンスのやりかたを知っているようだった。時に軽やかな、時にゆるやかな彼のリズムに合わせ、もつれることも遅れることもなく、自然で適切な動きで共に舞っている。いったい自分のどこに、このような技が隠れていたのだろうか。


 いぶかりながらも、私は踊った。ラウルと共に、踊り続けた。


 舞踊の場にあまりに場違いな、料理人と毒見人。だが客人たちも衛兵も、咎める様子はなく、私たちを自然に受け入れていた。

 手に手を取ってくるくると舞えば、四方の様子が目に入る。微笑み合い舞い踊る貴人たち。机上にうず高く盛られた美食。地上の楽園とも呼ぶべき空間で、私たちは踊り続けた。


「なあレナート。あんたは今……幸せか」


 不意の問いへ、とっさに答えが出せない。

 周りで舞い踊る貴人たち。艶やかな楽の音。そして、漂う美味佳肴の香り。この世の幸福を、すべて集めたような場には違いない。だが、ここは――


「あなたもずいぶん、底意地が悪くなりましたね。わかっているのでしょう、すべて」


 露骨な皮肉で返せば、ラウルは乾いた笑い声をあげた。

 これは夢。ここにあるものはすべて幻。わかっているなら、幸せなど味わえるわけがない。


「幸せだよな?」


 ラウルの声が、わずかに低くなった。声音に、有無を言わさぬ圧を感じる。


「あいにく、今のこの場を無邪気に楽しめるほど、私は素直ではありませんので」


 私も負けじと、低い声で返す。

 ほんの数週間前までは、当たり前だった幸福。けれど今はすべてが失われた。「現実の」王城は侵略者の手に落ち、多くの人々が傷つき、殺され、囚われ、私のように飢えている。どうして、すべてを忘れて楽しむことができようか。

 ラウルを軽くにらみつけてやれば、彼はいやに朗らかに微笑んだ。


「そうか。じゃあ……憎いか?」


 冷たい掌で、心臓を鷲掴みにするがごときの言葉。

 言葉が返せない。真っ白になった頭の中で、これまでのすべてがぐるぐると回る。城内を蹂躙する敵兵たち。頬に押し当てられた鉄剣。手首にはめられた冷たい枷。嘲笑と共に聞かされた、尊き御方の最期の様子――


「なにもかもをぶち壊した、あいつらが……憎いか」

「なぜ訊くのです、ラウル。そんな――」


 目の前の男へ向けて、私は出しうるかぎりの低い声で、囁いた。


「――あまりにも、あたりまえのことを」


 またも、ラウルが高く笑った。

 いつしか舞踊は止まっていた。なぜか貴人たちも足を止め、好奇とも疑念ともつかない視線を私たちに向けていた。


「それでこそ、あんただ。……いい顔してるぜ、今」


 ラウルはどこからか、銀の皿を取り出した。鏡のごとく磨き抜かれた面に、私の顔が映る。

 ひどい顔だった。頬はこけ、目の下には隈が浮かび、髪は乱れ、それでいて、目玉だけがぎょろりと浮き上がっている。目の怪物、と呼んでも差し支えないだろう。


「幸せだったよな、俺たちは。こんなふうに手に手を取って、地上の楽園のような王宮で、一緒に高みを目指して――それを、あいつらがすべてぶち壊した」


 聞いたことがないほどに優しい声音で、ラウルは――いや、ラウルを装っていた何者かは、私に囁きかけてくる。

 目の前の何者かは、既に自ら化けの皮を剥ぎ取っていた。青黒い肌に切れ長の赤い目は、どう見ても人間の容貌ではない。聖教会の壁画に描かれた悪魔の姿と、あまりにも似ている。


「憎め、レナート。憎んで憎んで……ひたすら憎め。おまえの幸福を奪ったなにもかもを」

「憎んで、どうしろというのです」


 遠ざかろうにも、悪魔の腕は私の腰に回されている。逃れることができない。


「私は一介の毒見人。剣も槍も扱えはしない。人を害する呪術の心得もない」

「それでいい。……いずれ、時は来る」


 悪魔は、大きく裂けた己が口を、鮮紅の舌でひと舐めした。


「レナートよ、デリツィオーゾの忠臣よ。生きろ、来たるべき時まで。何があろうとも、決して諦めるな」


 言って悪魔は、広間の手前――食卓の並ぶ側へ、私の手を引いた。促されるままついていけば、悪魔は卓上の皿から一塊の肉を、手にした銀の皿へ取り分けた。そうして私へ差し出した。

 食卓に集っていた客人たちが、一斉に私を見た。どの顔も生身の人間ではなかった。かつらの下は、みな白い髑髏だった。肉を失った骨たちの群れが、ドレスや礼服をまとって私を見つめていた。

 なぜか、笑いがこみあげてきた。覚悟はすでに定まっていた。


「諦めなどしませんよ。この身は国王陛下のもの。今は黄泉におわす御方のもの」


 目の前の者が、悪魔だろうが天使だろうが、無二の盟友だろうが構わない。

 いずれこの身を、役立ててくれるのなら。仇敵に一矢を報いるために、使ってくれるのなら。

 私は銀の皿へ手を伸ばし、右手で肉を掴んだ。そして、ひと口かじった瞬間――すべては、霧と消えた。




 冷たい石の壁と床。足につけられた黒く重い鎖。元の通りの牢獄に、私はいた。

 口の中に、妙なる肉の残り香がある。外側だけを軽く炙り、豊かな肉汁を閉じ込めた匠の技も、染み通るソースの絶妙な味わいも、すべて、私がよく知るあの男のものだ。

 相も変わらず、痛いほどの空腹が私を苛む。けれど私は感じていた。身の内に、炎とでも呼ぶべき何かが灯っている。


(生きろ、来たるべき時まで)


 悪魔の言葉が耳に蘇る。

 くっくっと、思わず笑いが漏れた。ふと己が肩に触れると、身体がずいぶん冷えている。部屋の隅に転がっていた、すり切れた毛布を私は手に取った。身体にかけると、腐ったような臭いがかすかに鼻をついた。

 それでも私は生きねばならない。この身を生かす物が、薄く質の悪いミルク粥と、この布団とも呼べない毛布しか与えられないとしても。


 ――生き延びてやる。いつか、時が来るというのなら。


 口には出さず、誓う。

 舌に確かに残る、肉の香り。手に確かに残る、共に踊ったラウルの――否、悪魔の、掌の温かさ。急速に薄れていくそれらの感触を、毛布の中で、しかと記憶に焼き付ける。命を繋ぐ最後の糧として。

 ああ、生きてやるとも。たとえそれが、悪魔の望みだとしても。



【了】

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嘆きの乳粥、夢の残り香[後編] 五色ひいらぎ @hiiragi_goshiki

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