酒に酔って失われた9について
広河長綺
第1話
私は今、錯乱している。
ただ、それを自覚しているということは、あまり重症ではないのかもしれない。
強烈な二日酔いで重たい体を起こして、周囲を見渡すと、見覚えのない部屋だった。枕元のスマホを見ると、それは私のスマホであり、どういうわけか、三角関数と測量に関する電子書籍が開かれていた。
時計アプリを開くと午前11時を指している。昨夜の記憶を手繰り寄せようとするが、頭痛がひどく、何も思い出せない。
「うーんと、ここは……?」
呟きながら、よろよろと立ち上がり、部屋の中を見回す。簡素なベッド、小さなテーブル、そして窓の外には見慣れない街並みが広がっている。どうやら、私は誰か他人の家で寝ていたようだ。
とにかく、顔を洗って頭を冷やそう。
そう思い、私はスマホを片手に、部屋の隅にあるドアを開けた。そこは狭い洗面所で、鏡に映った自分の顔はひどく疲れていた。隈の濃い目、乱れた髪、そして何より、ひどい二日酔いのせいで顔色が悪い。
蛇口をひねり、冷たい水を顔にかける。その冷たさが、少しだけ頭痛を和らげてくれる気がした。
記憶には無いが、昨日の私は酔っぱらった朦朧とした頭で外をふらついて、友達の家に来たのだろうか。
鏡を見つめ、昨夜のことを思い出そうとするが、予備校でのデッサン授業を終えた後で、自分のマンションに戻りヤケ酒をしていた私の断片的な映像しか浮かんでこない。
そうだ。今の私は芸術大学受験に失敗した浪人生だった。しかも2浪。
洗面所の鏡で自分のやつれた姿を見ていると疲れ果てた頭に、浪人生という今の立場や、今まさに予備校の授業に遅刻している私について、恥の感情が湧いてくる。
情けない現状から目を背けるように、私は手元のスマホでSNSを開いた。
酒を飲む前にツイートした【「いいね」の数だけ自己紹介をする】のツイートに10いいねがついていた。
・[1]年齢は?ーーー19歳
・[2]性別は?ーーー女
私の名前は松永真夜。19歳の女だ。
質問に2つ目まで答えたところで、いったんスマホの画面から顔をあげた。
見知らぬ洗面台の鏡に映る私の瞳は、涙で潤んでいた。
酔いが覚めてくると、決まって自己嫌悪で泣きそうになる。
絵の練習に飽きてしまった私が自堕落な時間を過ごしている間、ライバルの芸術家志望たちは自己研鑽しているに違いないからだ。
・[3]性格---飽きっぽい
「飽きるのが速いっていうのは、頭を切り替えるスピードが速いってことだよ」と、芸術大学予備校のクラスメートの
その言葉が果南ちゃんの優しさに過ぎないということを、私が一番よくわかっている。
・[4]長所---頭の切り替えが速い?
そもそもいったいなぜ、果南ちゃんが私みたいな落ちこぼれとつるんでくれるのかと言えば、予備校の授業をサボって本屋で立ち読みして時間を潰している私に声をかけてくれたのが始まりだった。
その日はまだ5月であり、普通の浪人生ならやる気をみなぎらせている時期なのだが、昨年落ちて2浪になってしまった私の心からは情熱が完全に消えていた。
はたから見れば、きっと目が死んでいただろうし、負のオーラもすごかったに違いない。
なのに果南ちゃんは私を見つけると「あ!
私とは対照的に果南ちゃんのクリクリした瞳は溌剌と輝いていて、活気に満ちてかわいかった。だけどおバカな子という感じではなく、ポニーテールの髪を揺らしてはしゃいでいる時も周囲への気遣いをしている知性を感じさせるような、そんな子だった。
あの日、本屋にいたのも、サボっている私を見かけて心配し後をつけてきのかな、と今は思う。
自意識過剰かもしれない。でも、果南ちゃんの人柄だとあり得るのだ。
計画された出会いだったのか、本当に突発的に声をかけたのか。
どちらにせよ、一緒にマックに行ったのも後の交友関係も、彼女の優しさによるものだったと私は思う。
そんな果南ちゃんの優しさを受け取っておきながら、私は自分を改善せず、今もヤケ酒を飲み誰のかわからない部屋でウジウジしている。
・[5]短所---反省しても、改善しない。
・[6]好きな言葉は?---根詰めすぎない。
根詰めすぎない方がいいよ。
サボりの百貨店で出会ってから、予備校でのおしゃべりでモチベーションの低下を相談する私に、果南ちゃんは言った。
「たまにサボったりするのはアートを作るために心を休めてるから、有意義な時間なんだよ」
果南ちゃんは、そうアドバイスして、私に笑顔を向けた。その笑顔は、まるで太陽みたいに眩しくて、何度も、私の心を温かく照らしてくれたのだった。
・[7]嫌いな言葉は?---親友に対する悪口全部。
そうして予備校での時は過ぎ、いつの間にか、果南ちゃんは、次第に予備校の他の生徒から悪口を言われるようになっていった。
果南ちゃんという美しい心の持ち主が、どうして陰湿な悪意の対象にならなきゃいけなかったのか。
今でも私にはわからない。
おそらく、果南ちゃんが何気なくツイッターにあげた『今日の晩ごはん』と題したデッサン練習の絵がプチバズして1万いいねをもらったことへの嫉妬だったのだろう。
もともと果南ちゃんの絵は客観的に見て他の生徒たちより頭一つ抜けており、周囲の人たちを焦らせていた。SNSでのいいね数という数字が、そこに追い討ちをかけたのだろう。
理不尽な話だ。
だけど臆病だったから果南ちゃんを庇わなかった私だって、同罪だった。
エスカレートしたイジメの果てに果南ちゃんが自殺し、主犯だった生徒が予備校から去り、全てが終わった後に後悔しても、もう遅い。
果南ちゃんが自殺した後、自分の心の汚さが、心底嫌になった。
振り返ってみると、絵描きになろうと思ったのは、中学生の頃に手塚治虫という偉人の作品と、彼の博愛主義的な思想に感動して「絵を描いていれば、こんな風に心が美しくなるのかな」と思ったからだ。
でも私を見ると、こんなに絵を描いているのに、昔より絵のテクニックは身に着いたのに、心は相変わらず汚いままだった。
順序が逆なのかもしれない。
きれいな絵を描けるようになると心が美しくなるのではなく、心の美しさが絵に反映される、という因果がある気がする。
心優しい果南ちゃんのように。
博愛主義者の手塚治虫のように。
・[8]子どもの頃の夢は?---手塚治虫のような絵描きになること
と、8個目の質問に答えて、次の9個目の質問を見たとたん、急に頭痛が襲って来た。
・[9]■■■■■は?---
思わず目をつぶる。
果南ちゃんに対するイジメが起こっていた頃のことが、自然と思い出されてきた。
絵筆や絵の具を隠す。
デッサン用の画用紙を汚す。
廊下でギリギリ聞こえるように悪口を言う。
それらに対して何も言わない私。
笑顔が消えていく果南ちゃん。
そんな地獄の経験をしてもなお、芸術大学予備校に通い続けている。今さら絵の才能がないなんて認められない。だから私の特技は絵だ、と言い聞かせ続けている。
それが今の私。
・[10]特技は?---絵を描くこと。
信じるしかないから、絵を描くことが特技だと言い張るようなツイートをした、ちょうどそのタイミングで、リプライがきた。
―――自己紹介の[9]がありませんよ。
と、指摘しているリプだった。
そういえばさっき、[9]番目の質問を見た時、急に頭痛がでたせいで、質問文を読めていなかったことを思い出す。もう一度[9]の質問を読んだ。
・[9]最近したツイートは?
そういえば、私はそもそもTwitterを利用していない。このアカウントは何のために作ったのだろう?
過去の自分への違和感を胸に、このアカウントのプロフィール画面にいく。
そこには過去のツイートが表示されている。
―――ちょっと前にバズってた『今日の晩ごはん』っていう絵、正直そんなにきれいじゃなかったよな
―――ちょっと前にバズってた『今日の晩ごはん』っていう絵、正直そんなにきれいじゃなかったよな
―――ちょっと前にバズってた『今日の晩ごはん』っていう絵、正直そんなにきれいじゃなかったよな
同じ文言のツイートが、大量に並ぶ。これらを見たとたん、私の記憶は蘇った。
『今日の晩ごはん』という絵は、一般の人にとっては「ずっと前に少しだけバズった絵」という認識しかない。
今になっても、あの絵のアンチをしている人などいない。だから私の『今日の晩ごはん』に対する批判に、いいねをする人はいない。果南ちゃんに個人的に嫉妬している人を除いて。
・[9]最近したツイートは?---復讐の対象者をみつける罠
目覚めたときにスマホの画面にあった、三角関数を用いた測量の技術。
あれは、角度と距離の関係を計算するツールだ。
三角関数の計算を用いれば、1枚の風景写真から、写り込んだ有名建造物や川や山(位置がわかる物)を見つけ、撮影場所から見た2地点の角度を求め、撮影場所の位置を推測できる。
私の『今日の晩ごはん』への批判ツイートにいいねした人のアカウントの過去ツイートを調べ、写真つきツイートを見つけたら三角関数によって撮影場所を特定し、住所を推測した。
行ってみると、完全に予想通りだった。その部屋には、果南ちゃんをイジメて謝罪もなく予備校にこなくなった、あのクズが住んでいた。
その部屋が、ここだ。
洗面所の隣に、浴室に通じるすりガラスのドアがある。そこを開くと、浴室の中に、果南ちゃんをイジメたクズが横たわっていた。昨日の私によって手足と口をガムテープで巻かれており、叫ぼうとしているようだがモガモガという謎の音しか聞こえない。
私のTwitterアカウントは、コイツを見つけるためだけの物だった。目的を達成したので、私はすぐにTwitterアカウントを消去した。
それからコイツの体を刺すための包丁を探しに、台所へ歩き始めた。
酒に酔って失われた9について 広河長綺 @hirokawanagaki
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