歩くってこと
LovU
8月13日
「ねぇ。」
やかましい蝉の鳴き声、その隙間を縫うような。細く、薄い、声。
「聞こえてる?」
どこか冷たく、どこかふぬけた、覚えのある、声。
「ほんとかな?ねぇ、聞こえてるでしょ。」
はしゃぐ子供の影が去った、昼下がり。立ち込める熱気が作り出した、砂場の蜃気楼が揺れた。今だに弱まらない日差しを受け、暑くなった肌が、ざらざらに変わっていくのが、自分でもわかる。
「無視しないでよ。僕、そういうの嫌い。知ってるでしょ。」
思えば、辺り一面はすでに、蜃気楼に包まれ、熱気の赴くまま、動く。ひんやりとした、異常な感覚は、頭頂部から、首へ、背中へ。
「ひさしぶりだね。帰ってきちゃった。」
息が止まる。瞬きすらも、頬を流れる汗を、夏のせいにする。おれはきっと、おかしくなってしまった。誰もいない公園で、ただベンチに座り、顔を上げた。
「元気だった?くく、泣いちゃった?」
目を疑う。おれは、恐ろしく思うべきだった。しかし、待っていたのだ。冷たい感覚が、手を覆う。おれは、この笑い声をもう一度聞きたかった。
「お前…。お前…。おれは…。おれは…。どれだけ…。」
頬を伝う水が、ぽたぽたと垂れ、地面にしみをつくった。声とも嗚咽ともつかない音が、おれの口から洩れている。冷たい感覚は背中を撫でるように上下する。
「ただいま。」
ほんの少し、汗が引いた。空は赤く染まり、遊具の影が伸びている。滲む視界を擦って、おぼつかない足で、立ち上がる。
「おれ、帰るよ。」
冷たい感覚は消え、夏にはふさわしくない、静寂が現れる。重くなった足をなんとか前に進め、おれは歩き出す。
「待って。」
再び、冷たい感覚が腕に張り付く。掴まれているように。
「僕も帰る。道、教えて。忘れちゃった。」
背中を叩かれるような、撫でられるような、不思議な感覚。
「道もわかんねぇなら…。なんで…。」
思ってもいない。おれは誰に見られるでもなく、顔を伏せるしかなかった。
「…帰ってこれるなら、せっかくだからってさ。ごめん、迷惑だったか。」
腕を包む感覚は消え、消え入るような声が響く。蝉の歌は、夕陽に呼応するようにやさしく変化していく。
「そんな、そんなわけ…。」
蝉が鳴きやまない、夏の、嫌なところ。
「くくく、じゃあ、いいじゃん。」
冷たい感覚が、肩を覆い、引っ張られるように体が傾く。
「背高っ。でっかくなりすぎでしょ、くく。手繋ごうよ、昔みたいに。」
「お、おれは…」
触れた冷たい感覚は、握った手の中に収まるほど小さい。
「昔話でもしようか。懐かしい話。」
夕陽を受け、冷めやらぬ炎天下のアスファルト。ぬるい風が吹き付けると、蒸し暑い夏が演出される。ゆっくりと歩みを進めると同時に、おれの口は動いた。
今でも、よく思い出せる。小学5年生の時の、体育の時間。早めに終わった授業の代わりに、クラスの皆でドッヂボールをすることになった。じゃんけんの結果ぼくは、同じくじゃんけんで決まったもう一人の男と、外野に回る。しかし、不幸か幸いか、クラスは運動が得意な人が多く、ドッヂボールは、内野の合戦で収まり、外野までボールが来ることはなかった。合戦を見ながら、暇を持て余す。あまりの退屈さで、座り込むぼくに、彼は話しかけてきた。
「伊沙良くん、だよね。」
一瞬、何のことかわからなかった。クラスは同じで、顔も見覚えがある。とはいえ、ほぼまったく接点のない彼が、話しかけてくることを予想できるはずもない。華奢な体を屈ませて、ぼくと目を合わせようとしている。
「僕、わかる?名前、知ってる?」
知らない。気まずい。何も答えられず、ぼくは目を逸らすしかなかった。
「知らないよね。僕は、金田。まあ、あー、何ってことはないけど、その、友達増やしたいんだ、よろしく。」
金田はこちらの返答を待たずに、少し離れた位置に腰を下ろした。困惑したまま、彼に話しかけようとした瞬間、チャイムが鳴った。授業は終わり、クラスメイトも、金田も、皆次々と校舎へ歩いていく。金田とのほんの数十センチの距離、それを改めて詰める勇気は、ぼくにはなかった。
ぼくは決して、陽気な方じゃない。臆病で、そして偏屈なぼくにとって、金田は異常な存在だった。クラスの中心の人や、ぼくのように偏屈な人は、そもそも話しかけてこないし、そうでない人とも大した話はしない。話せる人はいても、友達ほど気が置ける人はいない。そんなぼくに話しかけ、あげくに友達などと言い出す金田を、意識しないのは無理があった。
その日の授業が終わり、下校時刻になると、不思議と彼を探している自分が居た。金田と友達になる、ぼくにとってそれが、どんなにハードルが高いことか。せいぜい10年ちょいの人生を振り返れば、いやでもわかる。ある意味、彼に恨んですらいた。それでも浮足立つ感覚を、ぼくは産まれて初めて感じていた。
「伊沙良くん、一緒に帰らない?」
背後からの声、よりも、自分の名前を呼ぶ声に驚いた。振り返ると、当然ともいうべきか、やはり、金田がいた。ランドセルを背負い、すました顔で、立っている。
「え…、あ、うん。いいよ…?」
何と答えれば良いのか、わからなかった。どこか浮足立つぼくに断る理由はない。でも、どう答えればその意思が伝わるのか、そんなことを考えたことなど、一度もなかった。
「やった!じゃあ、僕たち、友達だよね?」
金田はうれしそうな表情で、ぼくの手をとった。
「あ…う、うん。そうだね、友達…。か、えろっか…。」
我ながら違和感しかない、素晴らしい棒演技だった。それでも金田は、ぼくの手を引いた。握られた彼の手は暖かく、不思議と嫌な気はしなかった。門をでた僕たちは、より学校から近い、ぼくの家まで行くことになった。誰かとの帰り道は新鮮で、弾まない会話すらも、ぼくにはいつもより楽しく思えた。ぼくの家に着くと、金田はどこかぎこちない、そんな笑顔で言う。
「じゃあね、伊沙良くん。」
彼が去った後、ぼくは淋しくなった。また、すぐにでも、金田に会いたい。その時、気づいた。これが友達なんだ、ぼくは今、初めて友達ができた、と。
翌朝、ぼくはいつもより早く起きた。いつも遅刻ぎりぎりだったのに、今日は余裕をもって、登校した。そして、教室に入った瞬間から、ぼくの目線は荒ぶり、金田を探してしまっていた。目線が落ちついたと思えば、そこには当然、金田がいる。朝の教室で一人、集中して机に向かい、ノートをとっている。ぼくは彼の後ろに近づく。
「い、あ、おはよ、か、金田くん。」
久しくクラスメイトに使わなかった言葉だった。金田が喜んでくれるかもしれない、そう思えば、ぼくにしては自然に、言い出せた。
「ひゃっ!なんっ、あ、伊沙良、くんか。おはよう。」
金田はかなりの驚きようで、勢いよく振り向いたと思えば、ノートを慌てて机に直しはじめた。くしゃくしゃになったノートを急いで詰め込んで、若干息が上がったまま、できるだけ済ました顔で、再度、こちらに振り向く。
「あ、はは。えっと、ただの、宿題、そう、勉強しないと、はは。」
それが何か聞く勇気も、理由もなかった。彼を知る上で、それを聞く必要はないと思った。
「そっか。えと、今日も…頑張ろう?」
恥をかいたと、思った。恥をかかせた、とも感じた。なにせ、初めての友達なのだ。こんなのは初めてで、ぼくにはどうにも難しいと、勝手に自分で言い訳をしていた。
「くく、なにそれ。」
金田は、笑っていた。少し前屈みで、声がこもるような、独特の笑い声。ぼくは焦った。笑われている、周りが見ている、ぼくが馬鹿にされて、金田まで。逃げたくなる、周りを見回す、誰も見ていないというのに、不安が拭えなかった。青い顔というのは、こういうときの顔なのだろう、血の気が引くという言葉の表すところを、知った。
「くく、い、伊沙良くん、大丈夫。誰も馬鹿にしてないよ。くく、面白いね。」
「なんだ、よ…。金田くん…。」
金田は、軽くぼくの腕を叩くふりをした。不安がなくなることはなかったが、彼の笑った顔を見ると、嫌な気分だけではなかった。友達の笑う顔が、こんなに嬉しいとは、きっとぼくだけが知ってる、そう思うほどに、衝撃的で新しい、感情。
「ね、僕の呼び方、りくでいいよ。」
へ?と、ふぬけた、声にもならない声が出た。
「あ、はは、その、苗字より、名前の方が、友達って感じ、しない?ほら、僕の名前。」
彼が指さした、机の端っこに貼られた、名前のテープ。金田理玖と書いてある。ぼくは再び焦った。今まで、名前で呼び合うような仲の人は、一人もいない。自分が、誰かと名前で呼び合うことを、想像すらしたことがない。金田の顔とテープ、交互に視線を送る。
「…い、伊沙良くんの名前は?教えて、よ。そっちで、呼ぶ、から…さ。」
金田の顔が徐々に下を向いていった。きっと、迷いがあった。
「あ…ぼくは、こなつ、だよ。伊沙良虎夏、なつ、でいい、から。」
自分でも驚いた。俯いた彼の肩を持って、ぼくは名乗っていた。顔を上げた金田も、予想外のように、きょとんとしていた。彼と目が合って、ぼくは恥ずかしくなった。でも、頑張って、逸らさなかった。きっと、友達なら、こんなことで逃げない、そう思ったから。
朝のチャイムが鳴り、先生の号令で皆が席に座る。ぼくも慌てて戻り、今日の授業が始まる。避けているわけではなかった。しかし、何故かお互い、近寄りがたく感じていた。ただいつものように時間が過ぎていく。友達ってなんだろう、彼との関係を思うと、不思議とわくわくするような、そんな感覚が離れない。先生の話も聞かずに、彼と生きる未来を想像する。下らない話、先生の愚痴、大変な仕事の相談、ぼくが結婚したら、祝ってくれるかな。
陽が傾きはじめた頃、チャイムが鳴った。日直の号令で、挨拶が終わり、皆それぞれに帰る準備を始める。もちろん、ぼくも、金田も、例外なく。先生の連絡が終わると、さようなら、の一声で、時間が動き出したみたいに、一斉にクラスが騒々しく変わる。ぼくはきっと、緊張していた。少し顔が熱く、落ち着かない手足。人混みから彼を探そうと、目が動く。
「なつ、くん、帰ろう、か。」
「うやっ!」
背後からの不意打ちが、心臓に響いた。ぼくの肩を叩く、金田のすました顔は、どこか恥ずかしげだった。
「か、ねだ、くん…。」
ぼくは臆病だった。金田は、それでも、ぼくの手を引いた。
「行こうよ。ね、今日、さ、遊ばない?」
靴箱に向かうぼくたちは、歩みを止めず、目も合わさないまま話を続けた。
「え…うん、いいよ。」
できるだけ、笑うように、できるだけ、彼に緊張が伝わらないように、努めた。浮ついた気持ちは今だに消えていない。友達、それを実感したなら、尚更のこと。
「ほんと!ど、な、何する?僕は、えーと、なにか…。」
「…用水路沿いのコインランドリー、わかる?その裏に、駄菓子屋が、ある、らしい…よ。」
一度も行ったことがない。思えばきっと、金田もなかったのだろう。駄菓子屋なんて、一人で行くことはない。さらに、新しい友達ができた上で、誘わないなら、大して知らないことを公言しているようなものだ。
「そっか!じゃ、じゃあ、そこで、帰ったら、すぐね!えーと、バイバイ!」
満面の笑みを浮かべた金田は、ぼくを置いて、急いで帰っていった。ぼくは、鼓動が周りに聞こえてるんじゃないか、そう心配するほど、興奮していた。初めて、友達ができた。初めて、遊びに誘われた。ぼくの放課後は、産まれて初めて、自分一人のものではなくなった。急いで、靴を履く。走る以外の選択肢は、ない。
ただ、いつもの景色が、流れていくだけだった。それなのに、ぼくの目には、違うものに見える。家についたぼくは、母親の出迎えも無視して、財布とかばんを掴んで、飛び出した。ぼくが歩いた先に、ぼくを待っている人がいる。何年も同じ道を歩いていても、そんなのは、考えたことがない。いや、それは嘘かもしれない。ただ、空想の域にしか過ぎなかっただけだ。
「こっちだよ!こっち!なつ、くん!」
道を挟んだ反対側に、金田は居た。大げさに手を振る度、耳から垂れたイヤホンが揺れ、ぼくにアピールしてくる。
「かね、だ、くん。お待たせ。」
「…行こう!」
金田はぼくの手をとった。少し乱暴に引っ張る手は、ほんのり暖かく、親とは違う、これも初めての感覚。駄菓子屋に入ると、ぶっきらぼうな爺さんに迎えられた。
「ね、なつくん、は、何買うの?」
「あ…、ぼく、あんまり駄菓子とか、知ら、ないな。」
「そっか、実は僕も。じゃあ、別々のやつ買お!二人、で、分けようよ。」
金田は店の奥に入り、駄菓子を物色している。店内の棚には、ほとんど見たことのない、小さなお菓子が並んでいる。ぼくたちは、お互いの手元をちらちら確認しながら、特に言葉を交わすことなく、別々のお菓子を買った。
「くく、変なお菓子ばっかり。なつくん、見て。虹色のグミ、変なの、くく。」
小さな袋に入れてもらったお菓子を、改めて物色する金田。
「どんなの買ったの?そうだ、どこで食べる?あ、笹平公園、近いよね。」
「うん。そこに、しよう。」
「よし、行こう!遅れちゃだめだよ!」
少し早口の金田は、走り出した。ぼくも慌てて追いかける。金田の足は、決して早くない、寧ろ遅い方だ。でも、ぼくの方が遅く、金田は先に行ってしまった。全力で走り、肩を大きく上下させながら、公園に着く。
「待ってたよ。ふぅ、はぁ。」
同じく全身で息をする金田が、ベンチに座っていた。
「お、お待た、せ。はぁ、まだ、夏でも、ないのに、お互い、汗だくに、なってる、ね。」
ぼくもベンチに座り、ベンチの上にお菓子を広げた。
「食べ、よっか。ちょっと、落ち着いて、から。」
金田もまだ息が上がっている。
広げられたお菓子は、変なものが多い。やけに長い虹色のグミ、かなり硬く小さいラムネ、噛み切れなさそうなチューインキャンディ。多分、これを知らない小学生は、珍しいのだろう。禁止されているわけでもないが、見たことがなかった。
「ふぅ、金田、くん。食べよ。」
やっと落ち着いた。金田は、長い虹色のグミを取った。ぼくは、カラフルなチョコレート。運勢占いができるらしい。
「くく、これ本当に意味わかんない。ん?なつくんの、占いできるの?いいじゃん、見せてよ。くく、恋愛運とか見る?」
にやけた顔で、ぼくのチョコレートを見る金田。プラスチックの包装から、恋愛運と書かれたチョコレートを押し出し、口に放る。やけに甘い、悪くない味。
「見して見して!なんだこれ、見づらいな…。丸、かな?くく、良かったじゃん!なつくん!」
金田はぼくの背中を軽く叩いている。取り上げられたチョコレートのフィルムには、確かに丸が描かれている。恋愛運が良いらしい。
「あ、えー、や、やめてよ。よく、わかんないし。」
正直に答えた。友達すらいなかったのに、恋愛なんて、夢のまた夢だ、そう思っていた。
「くく、つまんないの。僕も占お。」
そう言いながらも笑顔の金田は、友情運のチョコレートを食べた。
「えー、バツだー。嘘だよ、これ。こんなんで分かるわけなーい。」
金田の友情運は悪かったらしい。眉をひそめて、チョコレートをぼくに返す。そして、長いグミを半分くらいで千切り、一緒に渡してきた。
「はい、これ。くく、なんか変な味するよ。」
「ふ、なんだよ、それ。」
グミを受け取り、端からかじる。確かに妙な味だ。なんの味かわからないのに、甘いのだけはわかる。
「ね、変でしょ?」
うっすら笑みを浮かべ、ぼくの顔を覗く金田。口にものが入っているので、ただ笑って返す。風が吹くと涼しい、5月の好きなところだ。金田に言葉で返すため、早く食べようと、大きめのままグミを飲んだ。しかし、グミが喉に詰まってしまった。喉の違和感から、慌ててかばんを漁るも、水筒がなかった。急いで家を出たせいだ。焦った目で、金田を見る。
「ん?どしたの…、あっ!」
気付いてくれたのか、金田は慌ててぼくの背中を強く何度も叩く。喉の支えがとれ、グミの欠片が口を出た。
「出た?良かったー。焦ったよ。死んじゃうかと思った。」
かばんから水筒を取り出し、ぼくに差し出す金田。
「ないんでしょ?飲んでよ。いやー、びっくりした。」
「あ、ありがとう。ごめん、金田くん。」
「謝んなくてもいいよ。…その代わり、僕がそうなったら助けてね。そう、これが、友達…。わかったか、この占いチョコめ!」
キメ顔をしながら、チョコレートの占いに怒る金田。ぼくは笑いながら、水筒のお茶を飲んだ。人の家のお茶は、知らない味がした。
「…くく、駄菓子でも買ってく?」
「奢ってやろうか?はは…。」
「ほんと?やったね。じゃあ、占いチョコと、長いグミと…。」
か細い声でも、喜んでいるのが伝わる。日が傾いてきた夏は、長い一日を象徴するように、寂しい。
「あの長いグミはもうないぞ。生産中止だってさ。」
「えっ!マジで言ってる?そっかー、残念だー。なんで?なんでなくなった?やっぱ体に悪かったのか。」
飛躍する論理は、ふざけているとわかっていても笑ってしまう。手の冷たい感覚がなくなったと思えば、左肩に少し重くのしかかり、すぐになくなる。
「かー、こうもでっかいと、肘置きにできねー。」
「はは、人を肘置きにすんなよ。お前より伸びたんだよ。」
再び手が冷たく包まれる。手を繋ぐなんて、何年もしていない。懐かしい、違和感。夕方でも明るすぎるコンビニに入り、酒や駄菓子を買う。
「お酒なんて、飲んでもいいのー?」
「いーんだよ。大人だしな。まあ、親が飲むやつだけどな。」
下らない独り言を吐きながら、会計を済ませ、帰路に着く。
「…変わってないね。何年…。」
「…まあな。ただいまー。ビールで良かったよなー?」
伊沙良の表札がかかる門を抜け、玄関を開ける。母親が声で出迎える。
「ああ、虎夏?おかえりー。そう、ビールでいいけど、おつまみは?」
「あっ」
「あっ、じゃねーよ!まあいいけどさ。晩御飯は?」
「食ってきたよ。」
母親にどやされながら、ビールの缶を冷蔵庫に入れ、自分の部屋に戻る。こころなしか、部屋がひんやりしている。
「おっ、おかえり。いやいや、懐かしい。相変わらずごちゃついて。」
「はは、お前に言われたくねーよ、部屋までついてくんなよ。」
いつの間にか日は落ち、蝉の声もなく、静かな夏の夜が訪れている。
「…本当に、お前何だよな。」
ベッドに腰掛けたおれは、俯いたまま問うた。静寂が、責め立てている、そんな気がしている。
「…なんで、そんなこと聞くの?」
さっきより、少しだけ語気が強くなっている。すました顔が目に見えるようで、おれの視界は再び滲んでいく。
「おれの名前、わかるか?」
「…虎夏、でしょ?伊沙良虎夏…。」
首筋を撫でるように、冷たい感覚が、上下する。静かになるたびに、淋しさが湧いて出てくる。おれは、それが悔しかった。
「…占いでもするか。お前、チョコレート食えんのか?」
「食べれないけど、味だけわかるよ。くく、僕が舐めるだけ味だけみるから、その後君が食べれば?」
「はは、言ってろ。」
コンビニの袋から、占いチョコレートを取り出し、占う運勢を探す。
「…やっぱ、友情運と恋愛運でしょ。出したら持って、浮かしててよ。僕が先食べる。」
特に口を挟まず、おれは友情運と書かれたフイルムのチョコレートを、取り出した。指示の通り、浮かせたまま持っていると、チョコレートを摘んだ指先を、冷たいような、温かいような、不思議な感覚が、襲う。
「うーん、やっぱり甘いだけだね。変な味。早く見よ、僕達の友情がどれだけか。」
指先の感覚がなくなる。チョコレートを口に放り、フィルムを見やすく整えると、そこにはバツのマークが刻印されていた。
「…なんでだろうね、前もそうだった気がする。…次行こ、恋愛。」
淋しそうな、嬉しそうな、妙な声に急かされるまま、おれは恋愛運のチョコレートを取り出す。また指先に不思議な感覚がくる。
「はい、早く。」
感覚がなくなると、今度は手首が冷たく、掴まれているように感じる。整えたフィルムの、恋愛運のところには、二重丸が刻印されている。
「…良かったじゃん。初めて見たよ、二重丸。恋愛運、良いんだ。はは、良いお嫁さん、見つかるといいね。」
こころなしか弱々しい声。肩が、何度も押されているように冷たい。
「そう、だな。」
声は、聞こえない。おれも、黙っている。夏とは思えないほど冷たい部屋。明かりすら煩わしく思える静寂。おれは立ち上がり、明かりを消した。
「なんで消したの?」
か細い声が尋ねる。
「なんでだろうな。」
おれは、再びベッドに腰掛ける。
「…もう少し、話をしないか。懐かしい、昔の話。」
「うん、そうだね。しようか。僕達の話。」
少し震えているような、薄い声が、冷たい部屋に、響く。ベッドに置いた手に、覆い被さるような冷たい感覚。
「本当なのか…。おれは…。」
頬にも触れるひんやりとした感覚。
「…話そうか。君が信じられるように。」
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