化粧をする男

飴。

初雪





 東京に初雪が降った日の大学の帰り道。白く染まった街を歩きながら、彼はある人からの連絡を待った。駅近まで辿たどり着いたところで、右手に握りしめていたスマホに通知が届く。既に温かくなった手袋を外し、震える手で確認する。それから、彼はいまだに雪の降りしきる空を見上げて、肌に浸透する雪に触れて、目を細める。


 スマホの待機画面には「ごめんなさい。お気持ちにはお応えできません」というメールが届いていた。


 彼は揺れる心と揺れる左手を器用に制御して、「どうしてか聞いても良いですか」という返信をした。それには、すぐ既読表示が付いて、返事が来る。


「肌が雪白のように綺麗な人が好きなの」


 彼女の心情を鮮明に理解した彼は、手の震えが止んで、全身から沸き上がる熱によって、寒さなど忘れていた。それでも、心の底は吹雪に打たれるように痛んで、鼻水を抑えながら、涙を零した。


 電車に乗っても、彼の周囲だけは、暖房が当たらなかった。幾分か落ち着いて、「分かった。ありがとう」と素直で端的な文を送信した。ドア付近に立っていた彼は、結露した車窓を袖で擦って、自身の顔を見つめた。


「――俺もやってみようかな」


 降車した後は、家には帰らずに、駅前のドラッグストアに足を運んだ。化粧品コーナーへと忍び込んだ彼は、異質な様子で商品棚を睨むように見回す。よほど怪しかったのか、女性の店員に怖々と声を掛けられた。


「何かお探しでしょうか」


 彼は言葉に詰まりながら、恥ずかしそうに声を出した。


「化粧を、したいんです」


 店員は彼のまなこを見て、全てを察したように、柔らかく丁寧に商品の説明を始めた。


「初心者の方でしたら、こちらのメンズ向けのBBクリームとフェイスパウダーなんていかがでしょう。気になる所にクリームを塗っていただいて、パウダーでコーティングしますと、それだけでお肌にハリが出て、美しく見られますよ」


 彼は度重なる新単語に翻弄されながらも、英語の部分から何とか意味を推測をした。思いもよらぬ助けに、彼は大いに感謝した。店員はさらに、クレンジングもできる洗顔料や、オールインワンジェルなど、とにかく簡単にできる品々を彼に薦めた。


 早速家に帰って、購入した物を洗面台に並べた。鏡に映る自身の肌は、やはりニキビで覆われていて、唐突に彼女からの連絡が脳裏に再生される。


 気を取り直して、まず最初に、洗顔料をネットに出して、泡立てたら、それを顔に包んだ。彼は肌に浸透する泡に侵されて、目を細める。それから数十秒後に、手ですくった微温湯ぬるまゆで洗い流して、すぐにジェルを塗った。そして、先程の店員に言われた通りに、化粧で顔を包み込んだ。鏡の先には、見たことの無い姿が在って、心まで包み込まれていった。


 顔を偽っているというのに、明らかに惹かれて、心を偽っているというのに、解き放たれたように心踊った。彼はその勢いのまま、雪の降り頻る街へ飛び出した。


 これといって特別なことはせず、ただ自身の顔を雪と同化させるように、白い街に溶け込んだ。それは一時的に社会から解放されたようで、異世界へ足を踏み入れたようで、初雪のことなど忘れて、失恋のことなど忘れて、ひたすら温もりの中を生きた。


 彼は自身の白息しらいきが視界に映ると、突然何かを思い出したように我に返った。それと同時に冷覚を取り戻して、真冬の寒さに芯まで震えた。それから、再びスマホを手に取って、友人に連絡をした。


「今日、返事もらったよ。ダメだった」


 雪というものは人々の心を踊らせるものであると同時に、浮かない気分にさせるものでもあり、芸術として観られるものでもある。彼にとっては、化粧も雪も、なんら変わらない。そうやって詩的感覚に浸っていると、彼の友人から返事が来る。


「そうか、今夜ラーメンでも行こうや」


 了承の旨を伝えた後、彼は再び歩き出した。今度は、先程とは打って変わって、雪に足を取られているかのように、一歩に重量を感じた。雪単体ではこんなにも軽やかなのに、一度積もってしまえば、鉛玉のように重たい。それは人を殺める存在にも成り得る。その事実に気づいたからか、彼はほほに手を当て、今一度考え直した。


 雪は全てを白く染め上げて、輝きながら、人の心を温める。しかし、本来の街並みをむ事は無い。化粧も同じだろうか。彼はその応えを求めて、振られてしまった彼女に連絡をしようとスマホを手に取る。そして、その手が動くことは無かった。


 雪のように気軽に連絡できるなら、化粧に手を出すことなど無かった。既にそのような関係ではなくなっていたのだ。困った彼は、駅前のドラッグストアへ忍び込んだ。それから、先程の店員を見つけて、問い掛けた。


「化粧というのは、人の個性を塗り潰してしまう危険な行為ですか」


 彼女は困惑の表情を隠せなかったが、それでも丁寧に対応した。


「化粧はたしかに本来の姿を隠してしまうものです。しかし、そこには塗り重ね方が多岐に存在していて、それによって色々な姿に成れます。ご自身の個性を生かす重ね方がどこかに確実にあると思いますよ。こちらの商品なんていかがでしょう……」


 彼は脳に電撃が走ったような衝撃を受けた。雪は自然のものだから、工夫などできない。だからこそ白く染まり、何も残らない。しかし、化粧は違っていた。人々がより良く成るために工夫を凝らし、それぞれの道が尊重される。その美しさを知った彼は改めて、女性に尊敬の意を覚えた。


 その店で、もう一度いくつかの商品を購入してから、そのまま友人との合流に向かった。彼は雪化粧に身を包みながら、その街を歩いた。気づけば雪は止んでいて、普段の街並みは消えていた。彼は既に、その景色に一喜一憂いっきいちゆうすることは無く、片手に化粧品の入った袋をこしらえて、ほおを緩めながら地元の街を歩いた。

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化粧をする男 飴。 @Candy_3

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