紫煙の見せる夢
天音 花香
紫煙の見せる夢
「谷口さん、タバコ吸うんすね」
声に驚いて振り返ると、平川君がいた。
「なに、平川君も残業?」
「そうっす」
喫煙所で二人になるのは初めてだ。
「やめてたんだけどね。寂しいと吸いたくなるのよ」
「寂しいんすか? でも、谷口さんが振ったって聞いてるっすけど」
平川君の上司が元カレなのを忘れてた。あのおしゃべりめ。
私はふぅと煙を吐く。
「仕方ないじゃない。あの人は私の望むような愛し方はしてくれないんだから」
「なんすか? それ」
あまり関心なさそうな声で相槌を打つ平川君。
「あの人、セックス以外の触れ合いが嫌いなの。私は愛してるって純粋に、手を繋いだり、ギュッて抱きしめたりしてほしかった」
私は煙草を指でくるくる回しながら独り言のように言った。
「……そうなんすね」
「わがままかもね。あの人は優しかったのに。でも、あの人は仕事以上に私にハマることはないの。笑っちゃうでしょ。仕事か私かなんて考えちゃう私に」
口に自嘲的な笑みが浮かぶ。
「谷口さんは仕事できる人間すから、そんなふうに思うとは思わなかったっすね」
「そうよね。喋りすぎたわ」
私は携帯灰皿に煙草を押し入れる。
「今のは内緒ね」
出て行こうとした私の手を、平川君が掴んだ。
「寂しいんすよね。いいっすよ。手繋ぎでもハグでも今だけ自分がしても」
「へ?」
平川君の言葉に私は素っ頓狂な声をあげてしまった。
「い、いいわよ、そんな。悪かったわ、変なこと話して」
平川君は手を離さなかった。それどころか私をぐいと引き寄せ、抱きしめた。
「ちょっと」
「俺、谷口さんの気持ち、わかる気しますよ」
力強い、でも痛くない。そして、温かい。
よくないなと思った。
「離して。誰かに見られたら」
「誰もいなかったっすよ。でも場所変えたいなら、事務所戻りますか」
あっと思ったときには、私は抱き抱えられていた。そのまま事務所のドアを開けて入ると、平川君は私を降ろしてから、また抱きしめた。
「場所の問題じゃ」
「じゃあ何が問題っすか? 俺も寂しいと思うときあります。それで十分でしょ」
ぎゅううっと、まるで抱き潰すようにされて、私は力が抜けていくのを感じた。
心地いい。悔しい。
「私、愛されたいだけなの」
「俺には無理っすけど」
笑いが出た。
私は負けたように平川君に抱きついた。
どれくらい抱き合っていただろう。私は泣いていた。
「ありがとう。そう、こういうハグされたかったの」
「可愛いとこあるっすね」
平川君は力を抜いて、私を見下ろして言った。
これで数日煙草なしでも耐えられるかな。
平川君が大きな指で不器用に涙を拭う。
そして。
いきなり唇を塞がれた。
「んんん?!」
私は訳がわからなくて、抵抗するものの、平川君は離してくれない。
キスが深くなり、私は力が抜けて、抵抗できなくなってしまった。
「はあっ」
やっと唇が離れて、息を吸う。
「俺のと違う煙草の味」
平川君はにやっと笑ってもう一度キスをしてくる。
「愛はないけど、今すごく谷口さんのこと抱きたいっす」
「だ、だめ」
「そんな顔で言われても無理」
「あっ」
***
体がだるい。
「信じられない。仕事残ってるのに」
「俺は今から終わらせて帰るっす。谷口さんも終わらせてください。タクシーで送りますよ」
確か、平川君は私より五つは年下だ。若いって凄すぎる。
私は服を整えて、仕方なく自分の席に座る。スリープモードだった画面がパッと明るくなった。
パソコンのキーを打つ音だけが事務所に響く。
段々と仕事モードに切り替わる。
「どうっすか?」
頬に缶コーヒーをピトッと付けられて、一人じゃなかったことに気がついた。
「俺、終わりました。谷口さんも終わりそうっすね」
「なんとかね。平川君のせいで散々だわ」
「タクシー代は出しますよ」
獣のように求め合った先ほどの空気は完全に霧散していた。
「俺でよければ、いつでもハグいいっすよ」
「それで、また最後までするわけ? 私はセフレなんて絶対イヤ」
私は手を止めないで言った。
「ハグだけしようと思ったっすけどね。あまりにも谷口さんが可愛くて、しちゃいました」
「次はないから」
平川君が肩をすくめるのが見えた。
自分がこんなことするなんて。でも、ハグは気持ちよかった。
って、次は絶対ないんだから。
「ヒミツできちゃったっすね」
「誰にも言わないでよね」
「言わないっすよ。その代わり、10年後、お互い独り身だったら、結婚しません?」
私はバンと机を叩いた。
「平川君、私の話聞いてた? 私、愛されたいの。愛のない結婚なんてお断り!」
「好きになれそうなんすけどね」
「だったら、好きになってから言って」
私は最後の数字を叩くように打ち込んで、パソコンをシャットダウンさせる。
「帰るよ」
「は〜い」
不毛な一夜。
なのに、なんだろう。心が熱い。
次はない。
ちゃんと好きな人を見つけて愛し合おう。
タクシーで私に寄りかかって寝ている平川君を横目に、私は一人誓った。
了
紫煙の見せる夢 天音 花香 @hanaka-amane
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