戦場の晩餐

KAITO

第1話戦場の窯

―1916年11月、西部戦線フランス北部―

11月1日


ソンム川の近く。冷たい雨が容赦なく大地を叩きつけ、泥濘はまるで生き物のように兵士たちの足を呑み込んでいた。

空は鉛色の雲に覆われ、時折雷鳴のような砲声が響き渡り、遠くで閃光が闇を切り裂いていた。地面は砲弾で抉られ、かつての農地は見る影もなく、泥と血と鉄の臭いが立ち込めていた。

戦後という言葉など考える余韻を封殺する、風と鉄の匂い......

ドイツ第47歩兵連隊の補給部隊は、その荒廃した戦場の一角で、命を繋ぐ最後の努力を続けていた。

彼らの拠点は、半壊した納屋の残骸と、その脇に立つ一台のグーラッシュ砲だった。


ハンス・シュミット伍長は、グーラッシュ砲のそばに立ち、凍えた手を微かな火に翳していた。雨が彼の顔を叩き、泥だらけの軍服に染み込み、骨まで冷え切っていた。

グーラッシュ砲、このドイツ軍が開発・使用した移動式調理装置は大きな調理鍋の容量は数十リットル、疲弊した兵士達にとって食事は最後の砦……

34歳のハンスは、戦争が始まる前はベルリンで小さなパン屋を営んでいた。妻のマルタと5歳の娘リリーが、彼の生きる理由だった。

パン釜の前で生地をこね、焼きたてのパンを家族に振る舞うのが日課だった。マルタの優しい笑顔と、リリーが「お父さんのパンが一番!」と目を輝かせる姿が、彼の心の支えだった。だが、1914年に召集され、家族を残して戦場へ送られた。


彼の手元にあるのは、パン釜ではなく、この錆びついたグーラッシュ砲だけだった。

グーラッシュ砲の煙突から上がる灰色の煙が、強風に乱されて空に消えていく。かつては立派な調理装置だったこの移動式キッチンは、今や泥と錆にまみれ、煙突の先端がわずかに曲がっていた。馬に牽引されてここまで運ばれてきたが、馬は昨日の砲撃で死に、車輪の一つは泥に埋もれていた。それでも、ハンスにとってそれは希望の象徴だった。煙突の下で燃える火は弱々しく、雨に濡れた薪が煙を上げ、時折パチパチと音を立てていた。鍋の中では、僅かなカブと乾燥エンドウ豆が煮えていた。ジャガイモはとうに尽き、ソーセージも肉も影も形もない。補給が途絶えて6日目だ。連合国の海上封鎖と前線の激戦で、補給線は完全に寸断されていた。

「ヴィルヘルム、火を絶やすな!」

ハンスの声は、風と雨に掻き消されそうだった。彼の目は鋭く、疲れ果てた顔には深い皺が刻まれていた。戦争は彼を老けさせ、かつての穏やかなパン屋の面影は消えていた。唇は乾き、髭は伸び放題で、泥と汗にまみれた顔はまるで幽霊のようだった。だが、その目だけは燃えていた。生き延びるため、そして家族に再会するために、彼は諦めていなかった。

ヴィルヘルム・クラウス、19歳の新兵は、震える手で濡れた薪をくべていた。補給部隊に配属されてわずか3週間。

まだ少年の面影を残す顔は、恐怖で引きつっていた。

「伍長、こんな煙じゃ敵に見つかります…僕、死にたくないです…」

彼の声は震え、涙と雨が混じって頬を伝った。ヴィルヘルムはバイエルンの農家の次男で、戦争がなければ今頃、故郷の畑で穀物を刈り取っていたはずだ。母が作るジャガイモのスープと、父が薪を割る音が、彼の記憶に焼き付いていた。だが、徴兵され、戦場に放り込まれた彼に、そんな未来はもう見えなかった。初めて前線に送られた日、隣にいた友人が砲弾で吹き飛び、彼は血と肉片の中で震えていた。それ以来、夜は悪夢にうなされ、昼は死の恐怖に怯えていた。

ハンスはヴィルヘルムの怯えた目を見た。

「怖くても薪を入れろ。それが生きる道だ」

と低く言い放った。ヴィルヘルムは頷き、泥にまみれた手で薪を火に投じた。火が一瞬強まり、鍋の中のカブが泡を立てて煮え始めた。だが、風が吹き込み、火が再び弱まる。ハンスは苛立ちを抑えきれず、叫んだ。

「もっと入れろ! 火が死ねば俺たちも死ぬんだ!」ヴィルヘルムは慌てて薪を探し、納屋の残骸から濡れた木片を引っ張り出した。木は湿気で重く、彼の手から滑り落ち、泥に沈んだ。

「伍長…もう…薪が…」彼の声は途切れがちで、絶望がにじんでいた。

ハンスは鍋を睨み、歯を食いしばった。

「グーラッシュ砲だと? ふざけるな。この汁じゃ死体だって蘇らねえよ。だが、これが俺たちの命綱だ」

彼の言葉には、自嘲と決意が混じっていた。補給が途絶えた日から、彼は部隊のためにありとあらゆる手段を尽くしてきた。森で野草を摘み、死んだ馬の肉を切り取ったこともあった。だが、それも尽き、今やカブとエンドウ豆しか残っていない。このスープが、前線の兵士たちに届かなければ、彼らは飢えで戦えなくなる。ハンスはそれを知っていた。自分の手で作るスープが、誰かの命を繋ぐ。それが、彼が戦場で生きる理由だった。


その時、泥を蹴散らす足音が闇から響いた。ハンスは反射的に手を腰のホルスターに伸ばし、拳銃を握った。ヴィルヘルムが小さな悲鳴を上げ、鍋の縁にしがみついた。闇の中から、血と泥にまみれた人影が現れた。

ヘルマン・バイヤー二等兵だ。彼の目は血走り、痩せこけた顔には絶望と怒りが刻まれていた。ヘルマンは27歳、前線で戦う歩兵だった。かつては陽気な男で、塹壕で仲間を笑わせていた。酒場でビールを飲みながら歌い、女たちに冗談を飛ばすのが彼の日常だった。だが、飢えと戦闘でその笑顔は消えていた。左腕には包帯が巻かれ、血が滲んでいた。昨日の戦闘で負った傷だ。

「ハンス、スープはまだか! 腹が減って銃が握れねえんだよ!」

ヘルマンの声は叫びに近く、荒々しくハンスの胸ぐらを掴んだ。

雨が彼の顔を叩き、血と泥が混じった滴がハンスの軍服に飛び散った。

ハンスはヘルマンの手を振り払い、吼えた。「待て! 今仕上げる!」その声は鋭く、怒りに満ちていた。ヘルマンは一瞬怯んだが、目をぎらつかせて叫び返した。

「仕上げる? 間に合わなきゃ俺たちは全滅だ! お前が補給部隊なら、なんとかしろよ!」

その言葉に、ハンスの胸が締め付けられた。補給線が途切れ、荷馬車は空っぽだ。後方からの支援は絶望的で、彼にできることは、この貧相なスープを煮ることだけだった。だが、そのスープすら、前線の兵士たちを救える保証はなかった。

ヘルマンはハンスの目を見つめ、肩を落とした。

「頼むよ、ハンス…俺たちを見捨てないでくれ…」

その声は弱々しく、怒りが消え、代わりに懇願がにじんでいた。彼の手が震え、包帯から血が滴り落ちた。

ハンスはヘルマンの肩を叩き、

「座れ。スープができたら持っていく」と静かに言う、ヘルマンは頷き、納屋の残骸に凭れかかった。雨が彼の顔を洗い、血と泥が薄れていった。

ヴィルヘルムが鍋をかき混ぜながら呟いた。

「母に会いたいです…」その声は小さく、雨に消されそうだった。ハンスは彼を見た。少年の目には涙が浮かび、唇が震えていた。

「母ちゃんのスープが…恋しい…」ヴィルヘルムは言葉を詰まらせ、手を止めた。ハンスは近づき、彼の肩を強く叩いた。

「泣くな。生きて帰れば、また飲める。俺が約束する」その言葉は力強く、ヴィルヘルムに希望を与えようとした。だが、ハンス自身、その約束が果たせるとは信じていなかった。

風が強まり、グーラッシュ砲の火が揺れた。煙がハンスの顔を包み、彼は咳き込んだ。雨が鍋に落ち、スープが薄まっていく。ハンスは歯を食いしばり、

薪を追加し火を見つめた。

グーラッシュ砲の煙突が風に揺れ、まるで最後の抵抗のように立っていた。

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