第4話「ようこそ!」

 地下へと続く階段の前には『本日貸切』とチョークで刻まれた看板が立てられ、人々がその前を忙しなく行き交っていた。

 階段の先のこぢんまりとしたバーには20名近くがひしめき合っていた。壁際に追いやられたジャズセッション用の楽器たちは、所在なさげに沈黙している。


 店の中央に歩み出た大野が、咳払いを合図に、場の視線を一手に集めた。

 この空間にいる全員が片手にジョッキやグラスを構え、大野の言葉を今か今かと待っている。

「それでは――宇佐見くんの今後の活躍と、我々新規事業部の発展を祈りまして、乾杯!」

「「「乾杯!」」」

 グラス同士がぶつかり合う音がそこかしこで重なり、笑い声とざわめきが空間を温めていく。

 ジョッキを掲げたまま誰かと目を合わせたり、目礼だけで済ませたり、それぞれの距離感で人が交わっていた。

 宇佐見も周囲とグラスを交わし、ジョッキを傾ける。

 異動後、初めて迎える週末に、ビールが沁みる。

 普段はフリーアドレスでの業務のため、こうして部員が一堂に会する光景を見るのは初めてだ。

「新規事業部って、こんなに多いんですね」隣の大野に言った。

「まあ、企画から社内システムまで集まってるからね」

 自ら望んで新規事業部の扉を叩いたはずの宇佐見だったが、自分がこの輪の中にいることがどこか夢のようだった。このふわふわした感覚は、アルコールのせいかもしれない。 

「よし、宇佐見くん、一緒に挨拶回りに行こうか」

「はい!」

 一応全員に挨拶しているはずだったが、こうした場で改めての挨拶は大切だ。大野に先導されて、一人ひとりに声をかけながらグラスを交わしていく。

 そして、最後の一人の前で足が止まった。

「あれ、もしかして空さんにまだ紹介してませんでしたっけ」

「そうですね。今週はずっとテレワークだったので」

 そう言いながら、グラスを持って振り向いたのは、今日の業務中、同期の柳の左隣に座っていた男性だった。

「ご紹介遅れてすみません」

「いえ、とんでもないです」

 大野の謝罪に、空と呼ばれた男は全く嫌な顔をせず、かといって愛想良く笑うこともしなかった。

「空です。よろしくお願いします」

 チャットで名前を見かけることはあったが、面と向かって会話するのは初めてだった。

「宇佐見です。これからよろしくお願いします」

 カチン、と遠慮気味にグラスを交わす。

「柳さんからいろいろ聞いています」

 同期の柳から自分の名前が出るのは不思議ではないが、何を話したのか気になって思わず顔が強張る。

 もっとも、空のことは柳の口から山ほど聞いていた。

「俺も柳から、いろいろ聞いてます」

 空も同じことを考えたのか、一瞬視線がぶつかり、ふたりは引きつったような愛想笑いを交わした。

「呼びましたー?」

 少し離れたところに座っている柳が、テーブル越しに身を乗り出してきた。

「「呼んでない」」

 声を揃えて否定する二人に、柳は訝しげな視線を送りながらも、素直に身を縮めて元の会話へと戻っていった。


 宴が盛り上がってくると、誰かが席を立ち始める。その席にボードゲームのコマよろしく誰かが滑り込み、暗黙の席替えタイムが始まった。

 宇佐見は最初こそ若手の輪に混ざって騒いでいたが、ふと目に入ったのは、隅で煙草をくゆらせる部長の姿だった。

 肩身が狭そうにしながらも、どこか楽しげな様子だ。ちょうどよく向かいが空いたので宇佐見はさっと滑り込んだ。

「お疲れ様です」

「おー、おつかれ」

 部長が煙草片手に軽く会釈をした。その隣には大野が座っている。

 左隣の空は、その向こうに座る柳に世話を焼かれていた。

「空さん、おかわりいりますか?」

「うん、貰おうかな」

「メニュー見ますか? ジンジャーエールにします?」

「ジンジャーエールで」

「じゃあ、頼みますね」

 スタッフを呼び、新しい飲み物を受け取ると同時に、空いたグラスを下げてもらう。先輩への敬意ゆえの行動は、媚びているというよりいじらしい。

 同期の飲み会では、テキパキ動くというよりは、隅でおとなしくのんびりと飲んでいる印象があっただけに、そんな柳の意外な一面がなんだか微笑ましかった。

 その姿をぼんやり眺めていると、目の前で大野が、畏まった口調で部長に話を切り出した。

「部長、すみません。こんなところでの相談で恐縮なのですが……」

「なんだい?」

「出張準備で、日曜のお祭りのスタッフで使うホイッスルを買ったのですが」

「メールで“持ってきて”って言われてたやつね」

 大野が言いにくそうに口ごもっている間に、部長は電子タバコをくわえ、ひと吸いする。

 白い蒸気をくゆらせながら、続きを促すように大野へ視線を向ける。

「間違えて————サンバホイッスルを購入してしまいまして」

 部長は何か言いかけて、盛大に咽せた。

「この領収書って経費申請できますか?」

 大野が大真面目な表情で財布から領収書を取り出した。そこには『¥4,980- 但し、サンバホイッスル代として』と、しっかりと記されていた。

 部長は領収書を手に取り、苦笑いを浮かべる。

「うーん、金額が金額だからな。1000円くらいだったら、ホイッスルの代わりに買ったで通せたかもしれないけど」

「やっぱりダメですよね」

「だったら」

 落ち込む大野に横槍が入った。

 意外なことに声の主は空だ。

「ここでサンバホイッスルで一芸披露して、宴会の小道具としての経費申請をするのはどうですか。福利厚生費という名目であれば、認められる幅も広くなるので、通る可能性は多少上がるかと」

「確かに、その方がまだ通りやすいかもしれないね。まあ、通るかどうかは別として」

 部長は歯止めをかけるどころか、同調し始める。

「それっていいんですか?」

 柳は純粋に尋ねた。

「厳密にはダメだろうけど。お祭りのスタッフも仕事でいくんだよね? 大野さんの財布が痛むのは、理不尽だなと思って」

 空は、ぱちぱちと気泡が弾ける薄い琥珀色の液体に口をつけた。

「な、なるほど?」

「必要なら、証拠エビデンスも撮っておきますよ」

 スマホの入った胸ポケットをトントンと叩きながら、空は大野を見た。

「4980円。経費申請できる可能性を生み出すか、諦めるかです」

 冷静に、着実に、面白い方向へ。空が手綱を引く。

「わかりました、やります」

 大野の決意に、空は通りがかったスタッフを捕まえて、サンバホイッスルを吹いて良いか律儀に許可を得た。

 楽器が置いてあるということは、音出しはできるということだ。運がいいのか悪いのか、許可はあっさりと取れてしまった。

「空さん、動画お願いします!」

 大野は意を決して立ち上がる。それに応えるよう、空はスマートフォンを構え、動画を回し始めた。

「みなさん、えー、わたくし大野、宇佐見君歓迎を心よりお祝いして、僭越ながら一芸披露させていただきます」

 見切り発車な語り口で、大野は周囲の注目を集めた。

 薄暗い照明に、サンバホイッスルがきらりと光る。

「プーーーーーッ!」

 ————何事だ?

 突然の劈くような笛の音に、大野の宣言が聞こえていなかった部員のおしゃべりも止まる。

 さきほどまでの騒がしさが嘘のように静寂と化した店内の空気に呑まれ、大野は固まってしまった。

 静寂をものともせず、スマホを構えた空が口を開く。

「――大野さん。笛を持っている手を離して吹いてみてください」

 なぜ今そんな指示を?空気を読んでいるのかいないのか、この場にいる誰もが戸惑った。

 しかし、混乱状態の大野は、よく分からないまま言われた通り従うしかない。

 指を離し、息を吹き入れる。

「ピーーーッ!」

 先ほどよりも、高く鋭い音が響く。

 甲高い音が静寂を突き抜け、場の空気が弾けた。誰かが笑い出し、それが伝染していく。酒と夜と煙草の匂い、そしてこの甲高いホイッスルは人を笑いの渦に誘い込む何かがあった。

「指を離すと、息の通る部分が短くなって、音程が高くなります」

 空は淡々と、物理の授業のように解説した。

 大野はまさかの展開に、笑いながら息も絶え絶えに演奏を続ける。

「ピーーープーーーッ ピーーープーーーッ ピーッピピピ」

 コツを掴んだようで、高音と低音を自在に使い分けはじめる。

 それに呼応するように、手拍子が自然と湧き上がる。大野のサンバホイッスルがだんだんとサンバらしいリズムになってきて、また笑いを誘う。

 柳は、肩を揺らして笑いながら、アイメイクを気にしてそっと笑い涙を拭っていた。

 空の口元にも、微かな笑みが浮かんでいる。

 部長は、意外にも声をあげてゲラゲラと笑っていた。

「ピピッ ピピピピッ――どうもありがとうございました!」

 挨拶と同時に店内は拍手喝采に包まれた。バーテンダーや店員まで手を叩いており、店内には不思議な一体感が生まれた。

「伝説の―― 素晴らしい歓迎会になりましたね」

 空が拍手しながら真顔で言うものだから、余計に可笑しかった。


 部長の一丁締めで、歓迎会はお開きとなった。

「それでは、本日はお開きにします。忘れ物がないように気をつけてください。二次会は、各々でお願いします」

 サンバホイッスルを首から下げたままの大野が、皆に退出を促す。

 四月の夜はまだ肌寒い。階段を上がり外気に触れると、酒と笑いで火照った顔を、都会の風がやさしく冷ました。

 あの空間は——いったい何だったのだろう。

 最初は夢のようだった。それがいつの間にか、悪夢じみたものに変わっていた気がする。けれど、こうして目が覚めてみると意外と悪くなかったようにすら思う。

 振り返れば、あの空間は完全に空の掌の上だった。

 声を張ることもなく、感情を大きく揺さぶることもないのに、なぜか周囲が動かされていく。

 計算なのか、天然なのか。

 偶然を装った必然なのか――。

 宇佐見は、空という人間のことがどうしようもなく気になっていた。

「空さんは?」

 二次会の相談をする部員たちの中に空の姿はなく、柳に尋ねた。

「空さん? ――あ!」

 柳の視線の先には、行き交う人々に紛れて小さくなっていく後ろ姿があった。

「空さん!」

 周囲の目を気にする余裕もなく、気づけば声をあげていた。

「二次会行きましょうよ!」

 早足になった空を、柳と宇佐見が捕まえるまで、あと十秒。

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歯車とルビーたち 宇埜一星 @utouto_novel

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