「記憶を売る店」

ソコニ

第1話『記憶を売る店』



空はずっと泣いていた。


雨粒が路地裏の石畳を打ち、古びた街灯に反射して儚い光の粒を生み出していた。茜は小さな紙片を握りしめながら、その狭い路地を進んでいた。紙は雨で滲み、インクが溶け出して指先を黒く染めている。


「本当にこんなところに…?」


茜は自分の声に不安が滲むのを感じた。路地はどんどん狭くなり、周囲の建物は重なるように覆いかぶさってくる。昼なお暗い道は、今や夜の闇に飲み込まれようとしていた。


紙片には住所らしきものと、「記憶を売る店」という文字だけが記されていた。友人の由香里からもらったものだったが、由香里自身も「噂で聞いただけ」と言っていた。藁にもすがる思いで、茜はその場所を探し当てたのだ。


路地の突き当たりに、小さな赤い灯りが見えた。その光に導かれるように茜は足を進める。胸の奥の痛みが増していく。彼女の記憶は、再び彼女を苦しめようとしていた。


「ここなのかしら…」


古びたドアの前に立ち、茜は深呼吸をした。扉の上部には「記憶を売る店」という文字が浮き彫りになっている。青銅製の円形のノッカーがあり、そこには蛇が自分の尾を飲み込む姿が彫られていた。


茜はノッカーをドアに打ち付けた。低く響く音が、彼女の胸の中まで反響した。


しばらくして、ドアがゆっくりと開いた。


「いらっしゃい」


そう迎えたのは、年齢を測りかねる男性だった。銀灰色の髪は肩まで伸び、古めかしいスーツを身にまとっている。彼の目は、暗闇でも光るような深い青色をしていた。


「どうぞ、お入りください」


男性は低い声で言い、茜を店内へと招き入れた。


店内は茜の想像とは違っていた。暗く怪しげな場所を想像していたが、実際は温かな光に包まれた空間だった。壁一面に並んだ棚には、様々な色のガラス瓶が整然と並べられている。各瓶の中には、淡く光る霧のようなものが渦巻いていた。


「初めてのお客様ですね」


男性は茜を小さなテーブルへと導いた。テーブルの上には古い天秤が置かれている。


「私は店主の嶺と申します。この店では、あなたの記憶を買わせていただいております」


茜は緊張した面持ちで嶺を見つめた。


「本当に…記憶を売ることができるんですか?」


嶺はゆっくりと頷いた。


「はい。あなたが手放したいと思う記憶を、私どもで買い取らせていただきます。もちろん、その価値に見合った対価をお支払いします」


茜は胸の中の痛みを感じながら、おそるおそる尋ねた。


「では、辛い記憶も…?」


嶺の表情が微かに変化した。彼の青い目が茜を見つめる。


「ええ、もちろん。特に辛い記憶は高価格で買い取らせていただきます。ただし…」


彼は言葉を切り、立ち上がると棚から一冊の本を取り出した。それは古ぼけた赤い革表紙の本で、金色の文字で「取引規約」と書かれていた。


「取引には規約がございます。まず、一度売った記憶は二度と戻りません。あなたの記憶は完全にあなたから切り離され、この店の所有物となります」


嶺は本を開き、茜に差し出した。


「次に、記憶を売った後の影響についての責任は負いかねます。記憶は人間のアイデンティティの一部です。それを失うことは、時に予期せぬ変化をもたらすことがあります」


茜は本のページをめくった。細かい文字で書かれた規約の数々が並んでいる。


「そして最後に、一度この店と取引をした方は、必ずまた訪れることになります。これは避けられない運命です」


嶺の最後の言葉に、茜は顔を上げた。彼の目には、何か悲しげな色が浮かんでいるように見えた。


「それでも、取引を望まれますか?」


茜は迷った。でも、あの記憶から逃れたい一心で、彼女は頷いた。


「はい、お願いします」


嶺はうっすらと微笑んだ。


「では、手放したい記憶について教えてください」


茜は深呼吸をした。そして、彼女の心の奥底にずっと閉じ込めていた記憶を言葉にし始めた。


「一年前、私は婚約者の直樹と一緒に住んでいました。順調な毎日で、結婚の準備も進めていました」


茜の声が震える。


「ある日、直樹が交通事故に遭いました。私が料理の材料を買ってきて欲しいとお願いしたから…彼は雨の中、自転車で出かけたんです」


嶺は静かに聞いている。


「事故の知らせを受けて病院に駆けつけたとき、彼はもう…」


茜の言葉が途切れた。涙が頬を伝う。


「その記憶を売りたいんです。彼の死の知らせを受けたあの瞬間から、葬儀までの全ての記憶を」


嶺は茜の話を聞き終えると、静かに天秤の前に座った。


「その記憶は非常に価値の高いものです。痛みと後悔に満ちた記憶は、私どもの市場で高く評価されます」


彼は茜を見つめた。


「ただ、本当によろしいのですか?その記憶はあなたの大切な方との最後の時間でもあります」


茜は迷いなく答えた。


「いいんです。あの記憶があるせいで、私は毎日苦しんでいます。自分を責め続けています。もう、解放されたいんです」


嶺は長い間茜を見つめていた。やがて、彼は小さく頷いた。


「わかりました。では取引を始めましょう」


彼は茜の前に小さな銀の皿を置いた。


「どうぞ、両手でこの皿を持ってください」


茜が言われた通りにすると、皿が微かに温かくなるのを感じた。


「では、手放したい記憶に集中してください。その瞬間から始まり、終わりまでを思い浮かべてください」


茜は目を閉じた。直樹の事故の知らせを受けた瞬間、病院へ急ぐタクシーの中、白い病院の廊下、医師の悲しげな表情、そして冷たくなった直樹の手…すべての記憶が鮮明に蘇る。


涙が溢れ出た。喉から苦しげな声が漏れる。


「素晴らしい」


嶺の声が遠くから聞こえた。茜が目を開けると、銀の皿の上に淡い青白い光が集まっているのが見えた。それは霧のように渦巻き、次第に形を成していった。


「あなたの記憶です」


嶺は慎重にその光を小さなガラス瓶に移した。瓶の中で、光は絶えず動き続けている。


「これであなたの記憶は私の所有物となりました」


嶺は瓶に栓をし、ラベルを貼った。そこには「菊川茜・喪失」と書かれている。


「代金です」


嶺は茜に封筒を差し出した。中を覗くと、予想以上の高額の現金が入っていた。


「こんなに…」


「あなたの記憶は特別価値の高いものでした。純粋な愛と深い後悔が織りなす記憶は、市場で最も需要のあるものです」


茜は首を傾げた。


「市場…?誰がこんな記憶を欲しがるんですか?」


嶺は微笑むだけで、質問には答えなかった。


「そろそろお帰りの時間です。効果は徐々に現れます。明日の朝には、あなたはその記憶を失っているでしょう」


茜は立ち上がり、なぜか急に軽くなった気分を感じた。胸の痛みが和らいでいる。


「ありがとうございました」


彼女は礼を言い、店を出た。外はまだ雨が降り続いていたが、さっきより弱まっているように感じた。


茜はアパートへの帰り道、不思議な感覚に包まれていた。何か大切なものを忘れているような、でも思い出せないような感覚。頭の中に靄がかかったような違和感。


アパートに着いた茜は、リビングに入ると足を止めた。テーブルの上に、見覚えのない写真立てがある。そこには、茜と見知らぬ男性が笑顔で写っていた。


「誰…?」


茜は写真を手に取った。男性の顔を見ても、何の記憶も浮かばない。でも胸の奥に、かすかな痛みのようなものを感じた。


写真の裏には「茜と直樹・婚約記念」と書かれていた。


「直樹…?」


その名前に、かろうじて引っかかるものがあった。でも、具体的な記憶は何も浮かばない。茜は混乱した。この男性が自分の婚約者だったのか?なぜ覚えていないのか?


茜は部屋を見回した。確かにここは自分の部屋だが、所々に見覚えのないものがある。男物の靴、大きめの服、二人分の歯ブラシ…


「何が起きているの…?」


彼女は頭を抱えた。記憶の欠落が、徐々に彼女を不安にさせ始めていた。


その時、茜のスマートフォンが鳴った。画面には「由香里」の名前。


「もしもし、由香里?」


「茜?どうだった?あの店、行ってみた?」


茜は言葉に詰まった。


「ええ、行ったわ。記憶を売ったの」


「えっ、本当に!?どんな記憶を売ったの?」


茜は答えられなかった。彼女は何を売ったのか、覚えていなかった。


「ちょっと…思い出せないの」


「そっか…それって、記憶を売った証拠かもね。で、お金はもらえた?」


茜はバッグを確認した。確かに、見たこともないような高額の現金が入った封筒がある。


「ええ、かなりの額よ」


「すごいじゃん!何に使うの?」


茜は静かに答えた。


「わからない…なんだか、大切なものを忘れているような気がするの」


電話の向こうで、由香里が心配そうに声を上げた。


「大丈夫?もしかして、後悔してる?」


茜は写真立てを見つめながら答えた。


「わからないわ。でも、きっと私には理由があったはずよ」


通話を終えた茜は、再び部屋を見回した。そして、クローゼットの奥に黒い喪服が掛けられているのに気づいた。その横には弔電やお悔やみの手紙の束。茜は震える手でそれらを取り出した。


すべての手紙には「直樹さんの訃報」「ご冥福をお祈りします」といった言葉が並んでいる。日付は約一年前のもの。


「直樹は…死んだの?」


茜の頭に激しい痛みが走った。何かを思い出そうとしているが、その記憶は完全に消え去っていた。ただ、胸の奥に漠然とした喪失感だけが残っている。


その夜、茜は眠れなかった。失われた記憶の欠片を探そうとするが、何も見つからない。頭の中に大きな穴が開いたようだった。


窓の外を見ると、雨はさらに激しさを増していた。水滴が窓ガラスを伝い落ちる様子を見つめながら、茜は考えた。


「自分は何をしたんだろう…」


そして、あの店のことを思い出した。「一度この店と取引をした方は、必ずまた訪れることになります」という店主の言葉が蘇る。


茜は決心した。必ず、あの店をもう一度訪れよう。自分の失った記憶を取り戻すために。


しかし、彼女はまだ知らなかった。記憶を取り戻す代償が、あまりにも大きいことを。


窓の外で、雷鳴が轟いた。まるで、これから始まる悪夢の予兆のように。


(つづく)

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