「糸を吐く女」

ソコニ

第1話「祖母の遺品」



指先に走る痛み。

わずかな違和感から始まった。

デザイナーの成宮凛は、指先の皮膚が乾燥で少し割れているのだと思った。


「これで最後」


凛は息を整えながら、祖母から受け継いだ古い木製の糸巻きから絹糸を慎重に引き出した。その艶やかな質感は、現代の工業製品からは決して生まれない独特の温かみを持っていた。薄い月光の下で、糸は時に銀色に、時に淡い紫色に輝いた。


アトリエの窓の外は、すでに深夜を迎えていた。湿った初夏の空気が、夜風に乗って窓から忍び込む。凛が借りた古いアパートは、築50年を超える木造建築で、床はところどころ軋み、壁は季節の湿気を吸って膨らんだり縮んだりした。


凛の前には、ほぼ完成に近づいたウェディングドレスが、マネキンに着せられて佇んでいた。顧客は特に指定しなかったが、凛は祖母の遺品の中から見つけた絹糸を使うことに決めた。その繊細な光沢と強度は、現代では滅多に見られないものだった。


「おばあちゃん、どうだろう」


凛は独り言を呟きながら、ドレスの裾に最後の刺繍を施した。ほんの数カ月前まで、彼女は大手ファッションブランドのアシスタントデザイナーとして忙しい日々を送っていた。しかし、祖母・成宮千代の訃報を受けて実家に戻り、長年空き家だった祖母の家を整理する過程で、その一生を捧げた裁縫道具と未使用の素材を発見した。


千代は村で評判の裁縫師だった。特に花嫁衣装には定評があり、彼女が手がけた衣装を身に纏った花嫁は幸せな結婚生活を送ると言われていた。


「これで終わり...」


凛は最後の一針を打ち、糸を切った。そのとき、指先に鋭い痛みが走った。

「あっ」

小さな叫び声をあげた凛は、指先から血が滲んでいるのを確認した。針で刺したのだろうか。しかし、傷口をよく見ると、指先の皮膚が内側から裂けたように見える。


「変な傷...」


凛は眉をひそめながら、消毒液を塗り、絆創膏を巻いた。時計は午前2時を指していた。明日は最終フィッティングの日。顧客の美咲は、凛と同じ高校の同級生で、数少ない友人の一人だった。


「もう寝よう」


シャワーを浴びて、髪を乾かすと、凛はベッドに横たわった。しかし、疲労で体は重いのに、なぜか眠気が訪れない。室内に忍び込む月明かりが、完成したウェディングドレスを不気味に照らし出していた。マネキンに着せられたそれは、まるで透明な花嫁が静かに立っているかのようだった。


***


「凛ちゃん、このドレス、本当に素敵!」


美咲は興奮した様子で、フィッティングルームの大きな鏡の前で回転した。シンプルでありながら繊細な刺繍が施されたウェディングドレスは、美咲の若々しい美しさを一層引き立てていた。


「あの糸を使ってみたの」凛は少し誇らしげに言った。「おばあちゃんが残してくれた古い絹糸。こんな光沢、今のシルクじゃ出せないでしょ?」


「うん、触ると冷たいのに、着ていると温かいの。不思議な感じ」美咲は袖口の刺繍を見つめながら言った。「でも...ごめん、変なこと言うかもしれないけど、なんか...見られてる感じがする」


凛は眉をひそめた。「見られてる?」


「うん...このドレスを着ると、誰かに見つめられてるような...」美咲は言葉を濁した。「気のせいよね、きっと。だって、こんなに素敵なドレス、嫉妬されるのも当然かな」


凛は軽く笑ったが、内心では不思議な感覚に襲われていた。昨夜、自分もドレスを見つめていると、誰かの視線を感じたのだ。そして今朝、目覚めると、枕元に細い絹糸が数本落ちていた。絆創膏を外すと、指先の傷はほとんど塞がっていたが、皮膚の下に白い筋が見えるような気がした。


「そうそう、結婚式の招待状、届いた?」美咲の声で、凛は我に返った。


「ああ、うん...ありがとう」凛は曖昧に答えた。実は招待状は受け取っていたが、出席するつもりはなかった。美咲の婚約者・健太は、かつて凛が片思いしていた相手だった。それを知っているのは美咲だけでなく、二人の共通の友人たちも皆知っていた。だからこそ、凛は美咲の依頼を引き受けた。過去を清算するためにも。


「ねえ、凛ちゃん...」美咲が真剣な表情で凛を見つめた。「私、健太と結婚して幸せになってもいいの?」


その問いに、凛は一瞬言葉を失った。そして、静かに微笑んだ。「何言ってるの。もちろんよ。あなたたちは最高のカップルだわ」


美咲の顔が明るくなった。「ありがとう!それを聞けて安心した。でも...体調大丈夫?顔色、悪いよ」


確かに、凛は朝から軽い頭痛と喉の渇きに悩まされていた。「ちょっと徹夜が続いてるだけ」


フィッティングが終わり、美咲が帰った後、凛はアトリエに戻った。そこで彼女を待っていたのは、祖母の古い写真アルバムだった。遺品整理の際に見つけたものだが、まだ詳しく見ていなかった。


アルバムを開くと、モノクロ写真が整然と並んでいた。若かりし頃の千代、その裁縫姿、顧客との写真...そして、一枚の結婚写真。花嫁衣装を着た美しい女性と、スーツ姿の凛とよく似た男性。


凛の祖父母の結婚写真だった。


しかし、目を引いたのは写真の裏に記された日付だった。昭和28年8月。

「おかしい...」


凛の父は昭和35年生まれのはずだった。この結婚式は父が生まれる7年も前のこと。そして、この花嫁は凛の祖母ではなかった。


***


「成宮さん、この前のフィッティングの時の袖丈、もう少し詰めてもらえますか?」


電話の向こうで美咲の声が聞こえた。結婚式まであと3週間。最終調整の段階に入っていた。


「ああ、もちろん。明日、時間ある?アトリエに来てくれると助かるんだけど」


凛は応対しながら、指先を見つめていた。ここ数日、指先の違和感は増していた。皮膚の下に白い筋が浮き出て、時々痒みを感じる。そして、今朝は枕元だけでなく、口元にも細い絹糸が付着していた。


「明日の午後2時ならOKです!楽しみにしてます」


電話を切ると、凛は再びアルバムを開いた。謎の結婚写真の後のページには、別の結婚式の写真が続いていた。そのどれもが同じウェディングドレスを着ていたが、花嫁は皆、別人のようだった。そして、裏には日付と名前、そして奇妙な記述が残されていた。


「高橋美代子、昭和28年9月、糸を吐く」

「田中さつき、昭和29年4月、糸を吐く」

「佐藤花子、昭和29年12月、糸を吐いた後、消えた」


凛は背筋に冷たいものを感じた。これは何を意味するのか。そして、アルバムの最後のページには、一枚の未完成のドレスの写真があった。そこに記されていたのは、「最後の花嫁、未完成」という言葉だけだった。


その夜、凛は激しい悪夢にうなされた。夢の中で、彼女は白いウェディングドレスを着て、鏡の前に立っていた。しかし、鏡に映る顔は彼女自身ではなく、アルバムで見た何人もの花嫁たちの顔が次々と変わっていくのだった。そして最後に映ったのは、老いた祖母の顔。しわだらけの口から、細い白い糸が溢れ出していた。


「凛...続きを...完成させて...」


祖母の声が耳元で囁いた瞬間、凛は目を覚ました。

喉がカラカラに渇いている。体を起こして水を飲もうとした時、凛は口元に何かが引っかかる感覚を覚えた。手で触れると、そこには細い絹糸が張り付いていた。恐る恐る引っ張ると、それは唇の間から、さらには喉の奥から続いているようだった。


「ッ!」


パニックになった凛は、無理やり糸を引き抜いた。激痛と共に、口内に血の味が広がった。トイレに駆け込み、鏡を見ると、唇の内側が裂けている。そして、喉の奥から何かが這い上がってくるような不快感。


慌てて水で口をゆすぎ、止血すると、凛は震える手でスマートフォンを取り出した。地元の図書館のデータベースで、祖母の名前を検索してみることにした。


地方紙のアーカイブに、一つの記事がヒットした。


「地元裁縫師、失踪事件の謎。昭和30年、成宮千代(当時28歳)が制作中のウェディングドレスを残して姿を消す。同時期に失踪した花嫁5名との関連も。」


記事によれば、千代が作った花嫁衣装を着た5人の女性が、結婚式直前に失踪したという。そして最後に、千代自身も姿を消した。数年後、千代は突然村に戻ってきたが、失踪の理由については一切語らなかったという。そして、それ以降、彼女は一枚のウェディングドレスも作らなかった。


凛の手元にある絹糸と未完成だったドレスの写真。そして、「最後の花嫁、未完成」という言葉。


全ては繋がっていた。祖母は何か恐ろしい秘密を抱えていたのだ。そして今、その秘密は凛に受け継がれようとしていた。


口内の痛みを感じながら、凛は決意した。明日、美咲が来る前に、このドレスの秘密を解き明かさなければならない。たとえそれが、自分自身の身体に現れ始めた恐ろしい変化の理由を知ることになっても。


指先をそっと見つめると、皮膚の下で白い筋が蠢いているように見えた。まるで、何かが内側から這い出そうとしているかのように。

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