17 滑落

 慎司と穂の香は歩き始めた。振り返ると、彩乃は哲郎の腕の中で微笑んでいた。

 しばらく進んだところで、慎司は自分の帽子を見つけた。雨の中で捨てたものだ。拾い上げる。丈夫な生地でできているはずなのにボロボロになっていた。手の中でみるみるほつれて、やがて形を失った。

 どれぐらい歩き続けた頃だっただろう。穂の香がふいに立ち止まった。

「私がお送りできるのはここまでです」

「何を言ってるんだ。さあ、行こう」

「あなたの傍にいたかった。でも分かるんです。私にはそれができないと」

 穂の香の姿は弱まっていく雨に同調するかのように存在が曖昧になり始めていた。

「私はこれ以上進むことができない。進めばきっと」

「どうなるというんだ」

「慎司さん。あなたと出会ったのは呪われた運命のせいかもしれません。でも私は――。信じられないかもしれません。知り合ったばかりで、多くの言葉を交わしたわけではありませんからね。だけど、あなたと暮らした日々、私は幸せでした」

「お別れみたいなことを言うなよ」

「みたいなことではありません。お別れです」

「僕の子はどうなる」

「心配しないで下さい。ちゃんと育てます」

「そしてまたいつか遭難した男がやってくる。娘は誘惑して結ばれて子を産むんだ。いつまで繰り返すつもりなんだ。もう、終わらせよう」

「終わらせる……」穂の香の大きな瞳が、真っ直ぐに慎司を見つめた。「そういう選択もありますね」

 穂の香が一歩踏みだした。その体が揺らいで透き通っていく。

「ああ、慎司さん。私と一緒に。――終わりましょう」

 体当たりのごとく、穂の香は慎司の胸に飛び込んだ。その体は光の粒子となって飛び散った。押された慎司はよろめいて崖を踏み外した。際限なく滑り落ちていく。

 光を感じて瞼を開いた。青い空が見えた。胸いっぱいに吸い込んだ空気は乾いていて、雨の匂いはしなかった。名前の分からない鳥の声が木々の間を渡り、しんと静謐な空気に溶けていく。慎司は遭難した時のままの服を着ていた。帽子も被っている。

 なんだ、夢だったのか。

 地面に落ちているスマホが鳴った。

『慎司か』

「お父さん?」

『おまえ――』慎司の父はしばらく絶句した。『美里さんがさっき亡くなったよ。自殺を図った時の後遺症で、およそ十年間、眠ったままだった。遺書と同じ封筒の中からメモが見つかったんだ。飛び降りようとしたまさにその時、おまえから電話があったと書いてある。おまえ、どこにいるんだ。帰って来られるか』

 今から帰ったら何時になるだろう。

 時間を知るために持ち上げようとした左手が動かない。そこにはただ、壊れて動かない腕時計をはめた白い骨が、降り積もった枯れ葉の上に落ちているだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨やどり 宙灯花 @okitouka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ