(旧作)アクア部のふく

たんすい

第1.0章:フグと先輩と私の「好き」

高校に入学して、何か新しいことを始めたいと思っていた。

運動部は汗と喧騒にまみれそうで気が進まず、

文芸部は静寂の中で眠気に襲われそうだった。

どの選択肢もピンとこず、校内を歩き回っていると、

廊下の掲示板に貼られた一枚のポスターが目に留まった。


「アクア部 新入部員募集中!」


大きな文字の下には、膨らんだフグや黒と黄色の縞々のフグ

そしてカラフルな模様の熱帯魚がたくさん描かれた絵があった。

賑やかな水槽を切り取ったようなその絵柄に、

なぜか惹かれるものを感じ、

幼い時に忘れてきた何かを思い出させた。


「ここなら、私が求めているものがあるかもしれない」

そんな思いが、頭の片隅を掠めた。


部室のドアを開けると、

水槽から聞こえる水音と、

水草が揺れるかすかな動きが耳に届いた。

埃っぽい教室のはずなのに、

なぜかそこだけが異質な静けさに包まれていた。

日常の喧騒から切り離されたその空間は、

不思議と安心感を与える力を持っているようだった。


私は福原彩花。

友人たちからは「彩花」と呼ばれるが、

この日から「ふく」と呼ばれることになるとは、

まだ知る由もなかった。


窓の近くにいたのは、海月先輩。

アクア部唯一の部員であり、2年生。

袖をまくった腕が、慎重に水草を配置している。

少し長めの髪は淡い金色で、

夕陽の光を受けて柔らかく輝き、

後ろで適当にまとめられていた。

左耳には小さな赤いピアスが、

クリムゾンレッドの色調で静かに光を反射していた。


「漫画のキャラみたいにカッコいい」と、

思わず感嘆の息が漏れた。

その姿はどこか現実離れしていて、

この埃っぽい教室には似つかわしくない存在のように思えた。

かつてはもっと賑やかだったこの部室も、

今は彼一人の城のようだった。

金髪と赤いピアスが、

埃っぽい部室の中で妙に調和している姿に、

「いいかもしれない」と感じた。

アクア部に入る理由は、魚だけではないのかもしれない。

そんな不純な動機が、頭をよぎった。


先輩の手は、ピンセットを握るたびに微かに震えていた。

緊張しているのだろうか。

次の瞬間、先輩は作業の手を止め、

こちらを振り返り、「見ていく?」と静かに聞いた。

声は落ち着いていたが、

その裏に隠れた何かが、私の感情を揺さぶった。

その一瞬の仕草には、

どこか計算されたような優雅さが漂い、

まるで埃っぽい部室の中でさえ、

別の世界の住人のように映った。


入部の動機は、純粋なものではなかったかもしれない。

先輩の姿に、ほんの少し魅了されたのだ。

だが、ポスターの煌びやかな熱帯魚が

私の心を動かしたのは間違いない。

「ここには私の好きなものがある」と感じたのだ。

いや、むしろ私の「好き」は、

こうして何かを守るために形を変え、

育っていくものなのではないか。

そんな考えが浮かんだ。


「えっと、私、福原彩花です。

アクア部って、魚を飼うんですよね?

入ってもいいですか?」

少し緊張しながら尋ねると、

先輩は再び水槽に目を向けて、

「魚が好きなら、まあいいんじゃないか。

どうせ一人だったし」と淡々と答えた。

だが、その声の裏に隠れた穏やかさが、

私を安心させた。


そうして、あっさりと入部が決まった。

部室は古い教室の隅にあり、

埃っぽい机と椅子が並んでいるが、

水槽が置かれた一角だけが生き生きとしていた。

顧問の先生と交渉して部費を確保しているらしいが、

部員が減ってからは廃部の危機に瀕しているという。


「ここが俺の居場所だ」と先輩が笑った。

その目がどこか遠くを見ている気がして、

興味をそそられた。

当初は魚に特別な思い入れがあったわけではなかったが、

先輩の姿を見て、

「熱帯魚もいいけれど、先輩のようになりたい」

という思いが湧いてきた。

先輩の背中には、私がまだ知らない世界が

広がっている気がして、好奇心が刺激された。


数日後の放課後、部室で水槽を眺めていると、

先輩が「アクアショップに魚を見に行くか?」

と声をかけてきた。

「行きます」と即答し、慌ててカバンを持った。

先輩は「落ち着けよ、福原」と苦笑しながら

部室の鍵を閉めた。


学校を出て、駅前のバス停から揺れるバスに乗ると、

十分ほどでアクアショップのある商店街に着いた。

目の前に広がる小さな看板や

色とりどりのディスプレイが、

どこか別の世界に迷い込んだような感覚を与えた。


それが、私と淡水フグとの出会いの始まりだった。


アクアショップに入ると、水槽の数に圧倒された。

水音が響き、色鮮やかなグッピーやネオンテトラが

泳いでいる。

どれも目を引くが、

私の視線を奪ったのは、小さな水槽に浮かぶ丸いフグだった。


アベニーパファー。

体長は三センチほどで、

黄色と黒の斑点が散りばめられ、

ゆったりと泳ぎながら時折小さな跳ねを見せていた。

その姿は、どこか頼りなげで、愛おしく感じられた。


「先輩、見てください。

淡水にフグがいるんですか?」

水槽に顔を近づけると、

先輩は「アベニーパファーだ。そう、淡水フグだな」と、

少し眠そうな声で答えた。

振り返ると、先輩は口の端を僅かに上げ、

「知らなかっただろう?」と言いたげな表情をしていた。

少し苛立ちを覚えたが、

その知識に感銘を受けたのも事実だった。


「可愛い!こんな魚、見たことないです。

先輩、これを飼いたいです」

勢い込んで言うと、

先輩は私の肩をつかんで止めた。

「水槽がないのにどうする?

準備がなければ、すぐに死んでしまうぞ。

今日は下見だけにしておけ」


肩を落としたが、

「死んでしまう」という言葉を聞いて、

先輩の忠告に納得した。

だが、内心では「いつか、絶対にこの子を飼う」と

決意が固まっていた。

ショップを出る際、

もう一度アベニーパファーの水槽を振り返り、

「待っていてね、必ず迎えに来るから」と

心の中で呟いた。


部室に戻ると、

先輩が埃だらけの机から小さな水槽を引っ張り出してきた。

「これは、去年の失敗だ」と笑ったが、

錆びた角を指でなぞるその仕草には、

どこか言いようのない寂しさが漂っていた。

「何があったの?」と尋ねたくなったが、

言葉を飲み込んだ。


「失敗」という言葉の裏に、

何か大切なものが隠れている気がして、

考えが深まった。

水槽のガラスには細かい傷が刻まれていた。

まるで誰かが何度も手を入れ、

完璧を求めた跡のようだった。


「これ、先輩が作ったんですか?」

思わず尋ねると、

先輩は一瞬目を細め、

「いや、俺じゃない。昔の部員のだ」と呟いた。

その声がどこか遠くを向いていて、

興味を引かれた。

そこには、私が知らない先輩の過去が

隠れている気がした。


「これを使え。まずは準備だ」と先輩が言うと、

外部フィルターやソイル、バクテリア剤を並べ始めた。

「やり方はこうだ。まず、底にソイルを敷いて――」


「ソイルって何ですか? 土とは違うんですか?」

「ただの土じゃない。

魚や水草に必要な栄養が入っている。

こうやって敷く。

次にフィルターをセットし、バクテリア剤を入れて、

一週間ほどで濾過が整う。簡単だろう?」


「そんなに待つの? 早くフグを飼いたいです」

「焦るな。アンモニアが出たら死んでしまう。

ちゃんと準備しないと、魚は生きられない」


渋々頷いたが、

先輩の言葉には、生き物を気遣う優しさと

静かな覚悟が込められている気がして、納得できた。

水槽に水を入れ、フィルターを動かすと、

水音が響き、

「これでアベニーパファーを迎えられますね」と私が言うと、


「よかったな、ふく」と

先輩が口元に微かな笑みを浮かべた。


「ふく? …何ですか、それ?」

「お前、フグにずいぶん入れ込んでいるからな。

福原って、フグみたいだし。

『ふく』でいいんじゃないか」と、

先輩は少し眠そうな声で言った。

私は一瞬驚いたが、

「そうですね、『ふく』でもいいかもしれません」と答えると、

なぜかほっこりとした気持ちが広がった。

『ふく』と呼ばれるたび、

先輩との距離がほんの少し近づくような気がして、

胸の奥が温かくなった。


「そういえば、俺、自己紹介していなかったな」

先輩が急にそう言って、

ピンセットを手に持ったままこちらを向いた。


「え? あ、本当ですね。

私、先輩のこと、何も知らないです」

「海月透也。2年C組。

本当は『うみつき とおや』と読むが、

昔の部員たちには『くらげ』と呼ばれていた。

どちらでもいいが、よろしくな、福原」


先輩――いや、海月先輩は、

さらっとそう言って水槽の方に視線を戻したが、

口元に僅かな笑みが浮かんでいる気がした。

「くらげ…うみつき…。

どちらも素敵な名前ですね。

アクア部に合っている気がします」


「はあ? 名前で入部を決めたわけじゃないだろう」と

先輩が少し眠そうな声で返した。

その声の裏に隠れた照れが、

どこか親しみを感じさせた。


「えっと、私、『うみつき』と呼びたいです。

『くらげ』もいいですが、

『うみつき』だと海のようで、

アクアリウムに似合います。

先輩のことを『海月先輩』と呼びますね」


「好きにしろよ、ふく」

先輩は肩をすくめたが、

その仕草にどこか温かみが感じられ、

頬が熱くなった。


次の日、先輩が部費で購入した

水質検査シートを取り出し、机の上に置いた。

「少しでも節約したいからな」と呟きながら、

ハサミでシートを丁寧に三等分に切り分けた。

「こうすれば、一枚で三回使える。

頭を使うのも大事だぞ」と、

先輩は口元に微かな笑みを浮かべた。


「そんなに節約が必要なんですか?」と私が尋ねると、

先輩は一瞬手を止め、

「まあ、部費が限られている以上、

工夫も必要だろ」と静かに答えた。

その言葉には、

どこかアクア部を守ろうとする責任感が

滲んでいるように感じられ、

私はその意外な一面に、

ほんの少し心を動かされた。


一週間待つのは長いと思った。


でも、

毎日水をチェックするたびに、

「アベニーパファーがもうすぐ来る」と

期待が膨らんだ。

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