「憧れたあの背中」③
恐る恐る目を開けてみれば、見知った登下校の道。見ている視線の高さも来ている服も暗転する前のまま。場所もあの時と変わらないまま。呆然としながらも前を見ると、まだ下りたままの遮断機。慌てて空を見てもまだ完全に暗くなっていないところを見ると、時間はあの時から経っていなかったのかもしれない。ただ、当然のように、側溝蓋の中に落ちたであろう石ころは道には無かった。
あの時間が何だったのか。記憶にはあるのだが、それは僕には分からなかった。ただ、あの時間に感じた感情が抜け落ちたかのように歩き出す。どうやら、遮断機は上がったようだった。道の左側を歩いていたため、右側に行こうとするが丁度目の前を自転車が通った。
「危ねえな!前見て歩け!」
「すいません」と言おうと思った時にはもう行ってしまった。高校生ぐらいの人だっただろうか。見たことのあるような制服を着ていた。
ただ、そのこと自体はどうでも良く、頭の中にあるのはあの時の出来事だけ。まるで寝ているときの夢のような時間だったが、僕自身寝ていないはずだった。だからこそ分からないが、誰に相談したところで馬鹿にされるだけだろう。それでも、頭の中からあの出来事が離れることはなく、帰宅するためにまた歩き出したのだった。
「ただいま。」
「おかえり。」
そう言って出迎えてくれる母。いつも真摯に僕の話を聞いてくれる母でも先ほどの出来事を信じてはくれないだろう。そう思い黙々と片づけを始めた。いつもなら、ぐだぐだ片づけをやるため母に小言を言われるのだが、どうやらそういう気分ではなかった。あの時の闘志が、あの時の喜びが、あの時の歓声が今感じられなくなってもぬけの殻のような心の状態になっていた。
それでも、母を心配させたくないから、その時用の「仮面」を一応被りながら片づけを進める。いつもなら適当にやって後から怒られるスパイクの泥や砂取りも。なるべく汚さないように丁寧に新聞を引いてその上に落としていく。汚れたソックスや練習着等も砂が落ちないよう細心の注意を払い、指定の場所まで持って行った。
普段はそこからカバンをリビングにおいて寝転ぶのだが、何故だかそんな気分にはならなかった。いつもは言われてからしか準備しない夕飯の準備を手伝いながら、終わり次第母と夕飯を食べる。流石にいつもの僕と様子が違ったのか母が、
「何か学校であった?」
と、深刻そうな顔で聞いてくるが、
「何もなかったよ。」
そう答えるしかなかった。母のことを信用していないわけでは無い。ただ、自分の中でもあの出来事は信じ切ることができなかった。でもいまだに、あのときに決めた3つのゴール。それを決めた右足には不思議とその感触が残っていた。
あとは、いつも通りの何気ない会話で夕飯の時間は終わった。ただ、終始いつもと若干違う様子の僕に心配そうな母だったが何とかやり過ごせただろう。別に犯罪を犯したわけでもないというのに、何をビビっているのか自分でも分からない。
母が洗い物をしているうちに歯磨きをして、明日の学校の予定に合わせて教科書とノートを入れ替えていく。こう見えて無駄に真面目なのだ。そのため、置き勉とか未だにしたことが無いのだ。そのせいか、部活の荷物と授業で使う教科書等で毎日カバンの中身はパンパンだ。運も良く、今日のうちにやらなければいけない宿題もなく、家族で使う用のタブレットを手に取る。
まだ、スマホが買い与えられていない僕にとって、これでしかインターネットやソシャゲをやることが出来ない。そのため、家族共用のためのはずが事実上は僕専用のタブレットとなっていた。
ただ、今日このタブレットでソシャゲをやる気にはならなかった。それほどの出来事だった。僕が経験したあの時間は。だから、あのことを調べようにもどのように検索すればいいのかすら分からない。また、分かったところで自分がどうしたいのかさえ分からない。結局何も進まないまま、某検索サイトの検索画面を見ているだけで時間は過ぎていった。
母が風呂から出てきて、僕の番になる。脱衣所で服を脱ぎ、風呂に入る。そこにある鏡で見る僕の身体は、あの時の僕よりも小さく筋肉質でもない。何だったんだ、あの時間は。それだけが頭の中を駆けまわる。そう思いながらも頭を洗い、洗顔をし、体を洗う。そして、湯船につかる。勝手な幼稚な考えだが、湯船につかっていればいい考えでも思いつくかもしれないと思い、いつも以上に入っていても何もわかることは無かった。それは当たり前なのだけどね。
まだ、寝る時間には早いが何も手につかない。だから、寝室に向かい布団の上で日課のストレッチを行う。サッカーは上手くならないのに怪我はしまくる自分に嫌気が差しながら始めたストレッチだったが、それは寝る前のルーティンとなっていた。そのためか、身体はどんどん柔らかくなっていった。やればやるだけ柔らかくなるストレッチのように、サッカーも練習すればするだけ上手くなればいいのにとおもうが、そううまいことこの世界はできていないようだった。
気づけば、身体的にも精神的にも疲れて寝てしまった。
「ピピピピ、ピピピピ...」
朝を告げるアラームが僕を起こす。今日も朝から部活だ。ただ、昨日のあの出来事が少しサッカーをやってみたいという前向きな気持ちに僕をさせる。そのためか、いつもなら無駄な抵抗をするというのに飛び起き、学校へ行くための準備を始める。
「行ってきます。」
「いってらっしゃい。気を付けてね。」
そう母や父とのやり取りを終え、学校へ向かう。勿論昨日通った道を逆向きに。朝早い時間ではあるが、僕同様に部活に向かう生徒もたくさんいるため、ある程度してから「仮面」を被り始まる。いつものお決まりだ。
そうして、いつも通り一人で歩く道。気づけば、昨日のあの場所に着こうとしていた。当然だが、そこには僕をあの場所へ連れて行ったであろう石はいない。朝方のため、車などの通行量も多いため気を付けて、再び歩き出す。気づけば、僕の後ろから自転車が抜いていった。よく見ると、昨日注意してきた高校生ぐらいの人に見えるが気のせいだろうか。高校生になってもこんなに早くから学校に行かなければならないということに嫌になりそうになるが、奇妙な偶然もあるもんだと済ませておいた。
相変わらず頭の中を駆けまわっているのは昨日の出来事ではあるが、そんなことを考えているうちの校門についてしまった。こんなクソ早い時間から立っている校長に挨拶をしながら学校の中に入っていく。
朝の部活の時間はだいたい30分。その短い時間を効率的に使うためにもある程度早くから来て準備を始めなければならない。何人かはもういるが、まだ来ていない奴のほうが多いようだ。朝から遅刻して先生の機嫌を損ねないでくれ。真面目に来ている僕らもとばっちりを受けるんだから。そう思ったところでそいつらには届かない。でもそういうやつに限って、サッカーが上手かったり、モテたりするんだよな。この世界っておかしくねえか。毎度思うことだが、思ったところで無駄。神様はいないのだろう。
仲間が先生から部室の鍵を取ってきてくれた。どうやら今日の朝の部活はシュート練習をするらしかった。丁度いい。昨日のあの時の感覚がまだ、自分の中に微かながら残っているから。そうして、部室から必要なものをグラウンドに運び出し、人数が増えてきたところでゴールの準備もする。
まだ、正式な部活の開始時間ではないので、また先生もグラウンドには来ていなく、そもそも学校についていない部員もいる。だから、大抵この時間は自主練をしている。ある程度簡単なストレッチが済んだ後、ボールに触れてドリブルを始めてみる。
明らかにあの時の感触とは異なって、スムーズではないし素早くもない。やはりあれは夢の一種なのかと諦めそうになる。けれども、自分の中で一つの正解があの体験の中で得られたことは確かだ。別にあの体験が無くても自分のドリブルがお粗末なことぐらい分かっている。しかし、いくら現実で手本を見せられようが、動画を見よう見まねでやろうが、運動神経が元々良くない僕は正解が分からない。あのような夢のような体験をどれだけ信じればいいのかは分からないけど、確かに目指すべき姿が明確に自分の中にあり、その感触も覚えている。だから、無我夢中であのときと同じドリブルを繰り返した。
右足の甲の付近でボールを2回ほど押し出し、それと同時に徐々にスピードを上げていく。そこからシザースへ。ただ、今まで下手くそだった奴が急にできるようになるほどこの世界は甘くない。シザースをするときには折角上がったスピードが落ちていた。クッソ。そう思うところまでは今までと同じだった。しかし、ある種の成功体験を経験した僕にとって諦めるという行為は自然と心の中から消えていった。
繰り返す同じムーブ。一向に昨日の姿に近づかないが折れることは無かった。今までだって上手くいかないことばっかりだったから。それでも続ける。あの時間は、無謀にも前向きに挑戦し続けるという気持ちを復活させてくれたのかもしれない。そうこうしているうちに...
「集合!!!」
キャプテンの声が響き渡った。どうやら集中しているうちに部活の開始時間になっていたらしい。仲間からも聞いていたが、今日の朝はシュート練習だそうだ。
パスを出して、それを落としてもらってからトラップしてシュート。単純なシュート練習だが、ゴールが2つしかなく、部員も多いため30分の中でどれだけ打つことが出来るかは分からない。
いつもなら、わざと外してボールを取りに行くふりをして休憩するという小細工を使って時間が過ぎるのを待っていたのだが、今日はそんな考えすら浮かばなかった。
選んだのは利き足の右足でシュートの打つことができる列。ゴールは右斜め前に位置している。パスを出し、落としてもらいトラップで自分の中の打ちやすい位置にボールを持っていく。そして、目指すのは昨日突き刺したゴール右上。思いっきり振りかぶって蹴る。確かに威力はあったがキーパーの届くゴール右の中段。簡単にはじかれてしまった。
「集合!!!」
「とりあえず、今日の朝練は終了する。午後もやるから、昨日よりも早く準備しろよ。あと...」
終了した朝の部活。昨日のあの夢の瞬間から比べてみれば、自分のお粗末な実力を再認識するだけの時間だった。けれども、目標をもって考えながら行った練習は、自分なりの反省点を短い時間ながら導き出してくれた。
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