第十一章 世界への贈り物
四十歳を迎えた蓉子は、作家としての新たな段階を迎えていた。「命の手紙」は国内外で反響を呼び、彼女のエッセイや小説は複数の言語に翻訳されるようになっていた。彼女の作品に共通するテーマ――日常の中に隠れた美しさ、自分自身との対話、繋がりの大切さ――は、文化や言語を超えて多くの読者の心に響いていた。
葉月は四歳になり、活発な好奇心と創造性を持つ子供に成長していた。彼女は母親から受け継いだ想像力と、父親から受け継いだ観察力を持ち合わせ、小さな絵本を自分で作るのが好きだった。
「ママ、見て!」葉月は自分が描いた絵本を誇らしげに見せた。「おつきさまのぼうけん」と書かれた表紙には、笑顔の月が描かれていた。
「素敵ね」蓉子は娘の頭を撫でながら言った。「お話を聞かせてくれる?」
葉月は一生懸命に自分の物語を語った。月が夜空を冒険する話で、途中で星や雲、そして朝日と出会うというシンプルな内容だったが、蓉子はその想像力の芽生えに感動を覚えた。
啓介は大学でより研究に打ち込める環境を得ていた。彼は「グローバル化時代のコミュニティ再構築」というテーマで新しい本を執筆中で、時には蓉子と二人で夜遅くまで議論することもあった。
一家は東京郊外の小さな一軒家に引っ越していた。庭付きの家は、葉月が安心して遊べる場所であり、蓉子にとっては創作の庭でもあった。彼女は庭の一角に小さな書斎を設け、そこで執筆に打ち込んでいた。
窓から見える桜の木は、季節の移ろいを教えてくれた。春には満開の花を咲かせ、夏には濃い緑の葉を茂らせ、秋には黄色や赤に色づき、冬には静かに休む。それは生命の循環を象徴しているようだった。
蓉子の創作教室は、さらに発展していた。最初の教室から十年以上が経ち、多くの参加者が自分自身の作品を世に送り出していた。北川七瀬は九十歳を前に、自分の回顧録を完成させ、地元で読書会を開いていた。若い学生だった女性は、今では自分自身が文学の教師となり、生徒たちに創作の喜びを伝えていた。
蓉子は「母の文学」プロジェクトも継続し、全国各地で講演やワークショップを行うようになっていた。彼女のメッセージは一貫していた。
「あなたの日常は、かけがえのない物語です。それを言葉にすることで、私たちは繋がることができます」
四十一歳の春。蓉子の元に一通のメールが届いた。国際文学賞の候補に彼女の作品が選ばれたという知らせだった。
「まさか……」
蓉子は驚きのあまり、言葉を失った。それは彼女がかつて憧れていた賞だった。しかし今の彼女にとって、賞そのものよりも、自分の言葉が世界中の読者に届いているという事実の方が大きな喜びだった。
同じ日、創作教室の参加者だった年配の女性が自分の回顧録を出版することになったと報告してきた。
「先生のおかげです」年配の女性は電話越しに感謝の言葉を述べた。
蓉子はそれを否定した。
「いいえ、あなた自身の物語だから価値があるんです」
帰り道、蓉子はふと立ち止まった。街の喧騒の中に身を置きながら、彼女は深い静けさを感じていた。
彼女が三十歳の頃に書いた言葉が思い出された。「私はまだ途中。でも、それでいい」
十年が経った今も、その言葉は彼女の中で生き続けていた。彼女はまだ「途中」にいる。しかし、その道程自体が彼女の人生であり、物語だった。
その夜、蓉子は新しい小説の構想を練り始めた。それは「時の中の私たち」というタイトルで、三世代の女性たちの人生を描いた物語だった。祖母、母、娘がそれぞれの時代の中で直面する課題と、それを乗り越えていく姿。時代は変わっても、人間の本質的な探求や愛は変わらないという真実を描きたいと思った。
「私はまだ途中。でも、それが人生なんだ」
蓉子は微笑みながらペンを走らせた。彼女の旅はまだ続いている。そして、それこそが彼女の物語だった。
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