第四章 空白の美しさ

 蓉子の三十歳の誕生日は静かに訪れた。彼女は特別なことはせず、一人で山に登ることにした。都心から電車で一時間ほどの場所にある低山だが、頂上からの眺めは素晴らしいと聞いていた。


 朝早く家を出た蓉子は、登山口に着くとゆっくりとしたペースで登り始めた。木々の間から差し込む光、風にそよぐ葉の音、小鳥のさえずり……自然の中にいると、日常の喧騒から解放される感覚があった。


 道中で出会うハイカーたちと挨拶を交わしながら、蓉子は自分の三十年を振り返っていた。二十代は常に何かを追い求め、焦りに支配されていた。しかし今、彼女の中には静かな受容があった。


 頂上に着いた蓉子は、眼下に広がる景色に息を呑んだ。遠くには東京の街並み、その向こうには海が青く輝いていた。空には白い雲がゆっくりと流れ、山々は新緑に覆われていた。


「私はここにいる」


 シンプルな事実に、蓉子は深い安らぎを感じた。結婚も出産も、それは人生の一部に過ぎない。自分の人生は自分だけのもの。それを受け入れた瞬間、心に広がる静けさを感じた。


 彼女はリュックからノートを取り出し、その景色を前に言葉を綴った。それは新しい小説の構想ではなく、ただの自分自身への手紙だった。


「三十歳の私へ。

これまでも、これからも、あなたは「途中」にいる。

完成形などどこにもない。

日々変化し、日々学び、日々生きていく。

それだけで十分だ。

あなたの人生は、あなただけのもの。

比較する必要も、急ぐ必要もない。

ただ、自分の内なる声に耳を傾ければいい。」


 書き終えると、蓉子は深呼吸をした。澄んだ空気が肺いっぱいに広がる感覚が心地よかった。山頂で持参したおにぎりを食べながら、彼女は周りの風景を静かに堪能した。


 下山する頃には、蓉子の心は晴れやかになっていた。三十歳になった今日、彼女は自分自身との新たな約束を交わしたような気がした。


 その夜、アパートに戻った蓉子は日記にこう書いた。


「私はまだ途中。でも、それでいい」


---


 蓉子の新しい小説『内なる旅路』は予想以上の反響を呼び、多くの女性読者から共感の声が寄せられた。


「あなたの小説を読んで、自分も大丈夫だと思えました」

「主人公の迷いに、自分自身を重ねました」

「社会の期待に応えようとして苦しんでいた自分に、この本は希望をくれました」


 そんなメッセージを読むたびに、蓉子は温かい気持ちになった。自分の言葉が誰かの心に届いたという実感。それは、彼女がかつて求めていた表面的な成功や評価よりも、ずっと大きな喜びをもたらした。


 創作教室も継続し、参加者は少しずつ増えていった。経験を積んだ蓉子は、より効果的な指導ができるようになっていた。参加者たちも成長し、中には小さな同人誌に作品を発表する人も現れ始めた。


 ある日、若い女性が蓉子に近づいてきた。大学生らしき彼女は緊張した面持ちで言った。


「先生、私も作家になりたいんです。でも、自信がなくて……」


 その言葉に、蓉子は以前の自分を重ねた。才能への不安、将来への迷い、認められたいという切実な願い。すべて彼女自身が経験してきたものだった。


「完璧な準備なんてないの」蓉子は優しく微笑んだ。「ただ、一歩踏み出すことが大切」


 彼女は自分の経験を率直に語り、若い女性に励ましの言葉をかけた。教えることで、蓉子自身も多くを学んでいた。


「あなたの言葉で、誰かの心が救われるかもしれない」蓉子は真剣な眼差しで言った。「それが文学の力なんだと思う」


 若い女性の目に光が灯るのを見て、蓉子は自分の役割を再確認した気がした。


 創作教室の後、蓉子は北川七瀬と喫茶店でお茶を飲みながら話をしていた。七瀬は蓉子の指導のもと、自分の人生を綴った短編集をまとめつつあった。


「先生のおかげで、私の人生にも意味があると気づきました」七瀬は感謝の気持ちを込めて言った。


 蓉子はそれを否定した。


「いいえ、あなた自身の物語だから価値があるんです」彼女は真摯に答えた。「私はただ、それを引き出すお手伝いをしただけです」


 帰り道、蓉子はふと立ち止まった。街の喧騒の中に身を置きながら、彼女は深い静けさを感じていた。


 人生は迷路のようなもの。でも、迷うことこそが人生なのかもしれない。


 その夜、蓉子は新しい物語の構想を練り始めた。主人公は市場に立つ女性。多くの人々に囲まれながらも、心の中には広大な静けさを抱えている。


「私はまだ途中。でも、それが人生なんだ」


 蓉子は微笑みながらペンを走らせた。彼女の旅はまだ続いている。そして、それこそが彼女の物語だった。

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