夜の果てから 番外編

樟 花梨

第1話 一番欲しいもの

 今日は珍しく、鴻巣は大学でデスクワークをしていた。

 恩師である黒岩敏子に声をかけられた雑誌の仕事で、担当になった部分の記事や論文の校正を一気に片付けようという時間のはず――だが、パソコンの前でしかめっ面をしている鴻巣の手は、さっきから動いていない。

 明らかに別のことに気を取られているようだな――と、黒岩は気づいてしまい、嫌な予感がしたため、見なかったことにしようと、自分も同じ仕事のために、読んでいた原稿を置いて、さりげなく立ち上がりかけた。


「あー!わからないなあ」


 頭を振りながら、天井を見上げる鴻巣の声に、さすがに驚いて肩が震える。ため息をついて、黒岩は鴻巣の側へ行った。


「聞きたくはないが、さっきから何だ?迷惑だから、さっさと話せ」

「え――何か私、しちゃってました?」

「ひとり言が大きすぎるし、手も止まってる」

「やば、すみません、やります、やってます」


 姿勢を正してパソコンに向おうとする鴻巣の肩を軽くどつき、「無駄だ。いいから話せよ」と黒岩は言う。


「――えっと、恋愛関係の悩みなんですが――」


――大体、予想はしていたが、四条先生のことか、と黒岩は、鴻巣が座っているソファの向かい側へ自分の椅子を置いて、どっかりと腰かけた。


 相変わらず、黒岩はメイクも髪のセットもせず、後ろで無造作に括っているだけ、シャツにカジュアルなパンツスタイルで通しているし、そんな見た目通りの豪放磊落な人物だ。だから、恩師とはいえ、鴻巣にとっては、何かにつけて愚痴や相談を言える相手でもあった。


「手短にな、君も残業はしたくないだろう」


 鴻巣が恐縮しながらいれたインスタントコーヒーを受け取ると、あくびをしながら黒岩は促す。


「私、今は四条さんのマンションで同居してるって、黒岩先生には言いましたが――」

「ああ、そうだったな」

「それで、えーっと、ほぼ毎日、抱きあってるくらい、円満なんですけど――なのに、何だか四条さんが不機嫌で――なだめたり、ご機嫌とったりしても何が原因なのか言ってくれなくて――言ってくれないんですが、かまってるうちに、まあそういうことになっても、拒否されないので、何回もしちゃって、それでもすねてる感じで――そこがめちゃくちゃかわいいんですけどね――」


 眉根を寄せて、目を閉じて黒岩は我慢していたが――


「おい、手短にって言っただろうが――つまり四条先生が不機嫌で、理由を言ってくれないと――」

「だけどイチャイチャを拒否されないってことは、私が理由じゃないのかも――だとすると何なんだろうって」


 ずっと惚気を聞かされている気分ではあったが、真剣に悩んでいる鴻巣に、黒岩は情けをかけてやりたい気になった。


「そうか、四条先生も頑固な所があるからな。自分からは言わないと決めているんだろうが――本当に何も心当たりはないのか?」

「考えてるんですけど――思いつかなくて」


 しゅんとした鴻巣が、子どものようで――思わず微笑み、ふと――鴻巣をずっと子ども扱いしていたが、いくつだったか――という連想から「おい、そう言えば、君はもうすぐ誕生日じゃなかったか?」と言った。


「あ、そうです。明日――」

 と、話し出した鴻巣は――

「そうだ、そうだった!思い出しましたよ、ありがとうございます、黒岩先生!」


 突然、立ち上がり、満面の笑みで黒岩の手を握ると、今度は打って変わって集中し、超特急で仕事を仕上げた。

 黒岩がざっと目を通し、いいだろうと、頷くと挨拶もそこそこにバタバタと身支度をして出て行った。

 黒岩は半分あきれ、半分は感心すらしながら、黙って見送る。


――どうやら、誕生日のことで何か――約束ごとを忘れていたんだろうが――まったく、やっぱり子ども扱いで充分だな、正常に戻ったら、注意しなきゃならないな、あいつは――と黒岩は苦笑した。


:::

 鴻巣は、四条の家――今は自分も住んでいるマンションへ、帰宅した。まだ四条自身は帰っておらず、急いで自分のノートPCを起動して、目的を遂げた。

 安堵して、ソファにもたれると、四条が帰ってきた。


「お帰りなさい――」

 と、コートを脱いだばかりの四条を抱きしめる。

「ただいま――珍しく早いじゃない、久実」


 怪訝そうに言う四条に、鴻巣は甘く口づけてから「ちゃんと、注文しましたよ、誕生日プレゼント」と、言った。


「やっと思い出したの?」

 と、四条はすねた表情で言った。

「すみません、話の途中で気がそれて――そのままになってしまってたから――」


 数日前、鴻巣の誕生日に何かプレゼントしたいと、四条が言ったが、ふたりで過ごせればそれでいいと、鴻巣の本心なのだが――それはそれとして、何かないかと、四条が言いつのり――じゃあ、考えておきますから、と答えた後、黒岩から電話があった。雑誌の仕事の件だったので、他にもいくつか関係者と連絡を取りあっているうち、中途半端なまま、会話が終わって、鴻巣の頭に残らなかった。


 しかし、仕事のことで中断したのだから、「誕生日の件はどうなった?」等と、四条から不満は言えず――日にちは迫っていたが、自分が決められなかったものを、また鴻巣に任せたのだから――と、なおさら言いだせなかった――


「でも、さすがに今日は聞こうと思っていたんだけど」

「ギリギリセーフ、でしたね」


 微笑みかける鴻巣が、やっぱりかっこよくて、優しくて――四条は胸がドキドキして鴻巣の胸に顔を埋める。

 耳が紅潮しているから、そんな四条の心情は、鴻巣にはわかっていて――


「不機嫌だったわけじゃなくて――どう言えばいいか、迷ってただけだったんですね?」


――本当にかわいいな、私の涼香は――と、耳元で甘く囁き、そのまま耳、首筋と、そこここを食むように口づける。


「だって――あなたに喜んでもらいたいから――」


 鴻巣の愛撫に喘ぎながら言う四条の唇を、すかさず奪い――しばらく舌を絡ませて――


「わかってます――涼香がいつも、私のことを心配して、考えてくれてるのも――」


 安心させるように、きつく抱きしめ、「私、涼香のそういうところ、すごく好きで――かわいくてたまらないんです」と、言うと、「またそんな風に言って、ずるいよ、久実――…」と、鴻巣を見上げた四条の目が潤んで――


:::

 ベッドで甘い時間を過ごした後――鴻巣を抱きしめながら、寝入りそうな四条に「そういえば――何を買ったのか聞かないんですね」と、鴻巣が言った。


「う~ん、大体、想像がつくから――」

「で、すよね――」

「あなたが、私とふたりきりですごしたいという希望の次に来るのは――」

「届いた後のお楽しみですよ~」


 慌てて四条の頭を抱えるようにして、抱きしめて強制終了する鴻巣に、だってあなたが聞いてきたんでしょう、と不満げに四条は返す。


「予想通りだと思いますが、涼香が絶対に着てくれるって所が、誕生日の特別プレゼントですから、ね?」


 四条の髪に顔を埋め、香りを堪能した後、額にキスをして微笑む鴻巣を見上げ――


「顔も声もかっこいい、のに――」

 後に続く――言っていることがあからさますぎて、バランスが取れてない、という言葉は飲み込む。


 四条に「かっこいい」と言われた所だけ、都合よく耳に入った鴻巣は照れ笑いしながら「あ、でも、ふたりきりでいられるのが、最高に幸せで、それだけでいいんですから」と、着るのが嫌でも、かまわないと、フォローを付け加え――今度は四条も、「もう、かっこいいことばかり言って」と飲み込むことなく言ったのだった。


:::

 翌日、鴻巣は大満足で休日及び自分の誕生日――四条が、一緒に暮らして初めての恋人の誕生日を祝ってくれた日――を過ごした。

 注文したものは、四条が予想した通り、際どい下着で、しかも急いで選んだこともあるが、前よりも布面積が少ないものが多くなってしまった。しかも選べるように、という名目で20枚買って――前と同じじゃないの、と、四条にあきれられながらも、そのうちの何枚かを着てもらった。

 そのままベッドで始まると、いまだに羞恥で顔を紅潮させて、顔を背ける。そんな四条に、余計に興奮して――せっかくだから、四条が下着をつけてくれている姿を目に焼き付けようと、少し身を起こすと、「離れちゃいやだ、久実――…」と、泣きそうな顔と声で、四条が言った。


「え、涼香――?」


 両手を差し出して、「抱きしめていてほしい、久実、ぎゅって――してくれるでしょう、いつも――」と、ねだる四条に、鴻巣は――意識が飛びそうになるほど、愛情と性欲が爆発しそうになる。いや、なった。即座に抱きしめて、指を中に入れたまま激しく動かしてしまう。


――ごめん、涼香――ぎゅってしてほしかったんだね、大丈夫、このまま――何回でも一緒に――もう絶対離れないから――かわいい、かわいすぎて――愛してる、涼香――…

――私も……愛してる、久実――…


「ああ、かわいい、私の、私だけのお姫様――私の涼香――」


 そんな四条は、初めてだったので、鴻巣は幸せの絶頂を迎え――四条も、一緒に住むようになってから、だんだんとふたりきりでいる時には、安心して、甘えたり、おねだりしたり――それを鴻巣は、私のお姫様、と表現してかわいいと思っていたのだが――まさか、こんなことを言ってくれるなんて、と――

 その後、ゆっくりくつろいで夕飯を食べたり、念のため用意されていた、四条からの別のプレゼント――ハイブランドの腕時計に感動したり、またベッドで四条を抱いて――


 そんな最高の日をすごし、次に出勤した時に、黒岩から「なんだ、そのデレッとした顔は――」と、あきれられつつ、どうやら、犬も食わないって奴だったらしいな、と茶化されたのだった。

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