第16話 「茨姫の変化」
今日も御影学園の廊下は静かで整然としていた。
しかしそんな学園の中で、ある小さな変化が起きていた。
「氷室さん、最近……何か変わった?」
休み時間、そんな囁きが廊下で交わされる。
誰かが直接口にすることはないが、多くの生徒たちが同じ違和感を覚えていた。
氷室透華――御影学園の誇る「茨姫」。
その名の通り、彼女は気高く、誰も寄せつけない雰囲気を持っていた。
だが最近、その「氷のような茨姫」に、ほんの少しだけ変化が生まれている。
「前はもっと冷たい感じだったのに……」
「目が合ったら、軽く頷いてくれたのよ」
「この間、落としたノートを拾ってもらって……しかも前消しゴムを拾ったら『ありがとう』って……」
噂話はすぐに広がる。
透華本人に聞こえないように――しかし、誰もが気にしていた。
******
昼休み、校舎裏の静かな場所。
透華は一人の男子生徒と向かい合っていた。
「氷室さん……ずっと前から、好きでした!」
緊張でこわばった表情の男子生徒が、精一杯の勇気を振り絞って告白する。
透華は、その言葉を受けて、少しの間だけ黙っていた。
……いつもなら、ただ一言「興味ないわ」と切り捨てていた。
しかし、今日は――
透華はまっすぐ相手を見つめると、静かに口を開いた。
「……ごめんなさい」
男子生徒の目が見開かれる。
まるで、予想外の言葉を聞いたかのように。
透華は続けた。
「あなたの気持ちは、ちゃんと伝わったわ。でも、私はあなたの想いには応えられない」
その言葉に、男子生徒は唇を噛みしめるが、同時にどこか納得したように頷いた。
「そっか……ありがとう。ちゃんと答えてくれて」
深く頭を下げる男子生徒。
透華はそんな彼を見ながら、心の中でふと感じた。
(……今まで、私はこういうことを考えたことがなかった)
ただ「興味がない」と切り捨てるのではなく、相手の気持ちを受け止め、きちんと応えること。
悠斗と関わるようになってから、自分の中に少しずつ変化が生まれていることを、透華は自覚していた。
しかし、それはやがて――新たな噂を生むことになった。
******
「氷室さんが……告白に『ごめんなさい』って言ったらしい」
「えっ、でも今までだったら、興味ないとか言って終わりだったよね?」
「やっぱり最近、氷室さん……変わってるよね」
この話は、瞬く間に御影学園の生徒たちの間に広がった。
「茨姫」は、少しずつ変わり始めている――そのことに、皆が戸惑い始めていた。
******
放課後。
校舎の廊下を歩いていた透華は、いくつもの視線が自分に向けられていることに気づいていた。
(……何かしら?)
これまでも彼女は注目を集める存在だった。
しかし、今の視線は、これまでとは違う。
憧れや畏敬の念ではなく――戸惑い。
透華は足を止め、廊下の窓から校庭を眺める。
(……私は、変わった?)
自分ではそんなつもりはなかった。
ただ、悠斗と過ごす時間が増えて、少しずつ自然に振る舞うことが増えただけ。
彼の前では、余計な気を張ることがなくなり、今まで見せることのなかった表情を見せるようになった。それは少しだけ自覚していた。
だが、それは御影学園の生徒たちにとって、「氷室透華」像を揺るがす変化だったのだ。
一方、その様子を静かに見つめる人物がいた。
三条光華だ。
彼女は、透華の変化を遠巻きに観察していた。
(透華が変わり始めている……)
冷静な目をしていたが、その奥に微かな苛立ちが滲む。
透華は「茨姫」であるべきなのに。
それこそが彼女に相応しい在り方であり、御影学園の象徴でもある。
それなのに――
(あの男の影響なのかしら……)
風間悠斗。
明らかに彼と関わることが増えて、透華に「人間味」が芽生えた気がする。
「……これは、少し“矯正”が必要ね」
光華は、薄く笑った。
それは、御影学園の生徒たちに見せるものとは違う、静かで冷たい笑みだった。
翌日。
透華が教室でノートを整理していると、そこへ光華が歩み寄ってきた。
「透華」
彼女が呼ぶと、透華は顔を上げる。
「何かしら?」
光華は、微笑を浮かべたまま椅子に腰かける。
そして、何気ない風を装って言った。
「最近、あなたのことを気にしている人が多いわ」
「……そう」
透華は、それ以上何も言わない。
しかし、光華は続ける。
「ねえ、透華。あなたは――『茨姫』なのよ?」
その言葉を聞いて、透華の手が一瞬止まる。
「あなたは、皆が憧れる存在で、誰よりも美しく、完璧でなければならない」
「……光華さん、何が言いたいの?」
光華は、にっこりと微笑んだ。
「ただ……今まで通りのあなたでいてほしいわ。……「茨姫」としてのあなたが、御影学園には必要なのよ」
その言葉が、妙に重く透華の胸に響いた。
まるで、「茨姫」であり続けることが当然だと言わんばかりに。
透華は、光華の言葉の意味を測るように彼女を見つめた。
光華の笑顔は変わらない。
しかし、その奥に潜むものを、透華は察し始めていた。
そして――透華は静かに息をつく。
「……私は、私の意思で生きるわ……」
そう答えた。
光華の目が、一瞬細められる。
しかし、すぐに柔らかく微笑み、軽く頷いた。
「……そう。なら、見守らせてもらうわ、透華」
その声は優しく、それでいて何かを含んでいるようだった。
そして立ち去る彼女の背中からは、微かに冷たい余韻が残った。
透華は、その背中を見送りながら、手元のノートを見つめ拳を強く握りしめた。
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