はろ

 ゴンベエ・ナナシノは宇宙人である。


 彼の故郷は地球からだいたい150光年ほどの距離にある、Mel25ヒアデス星団おうし座ε星の周りを公転する巨大な惑星である。そこに暮らす人々はみな寛容で、お互いへの思いやりに溢れ、少しの諍いや困難もなく誰もが幸福に暮らしている。

 しかし彼は母星で奇妙な病にかかってしまった。一度覚えたことを『忘れる』という機能を失ってしまったのである。ゴンベエ・ナナシノは日々の天気と気温から食事の献立から買い物リストまで、家を出てから何歩歩き、何度道を右折したか、一体どこの誰とすれ違い、誰と何を話して何をしたか、何もかもを忘れられなくなってしまったのだ。

 これは便利であると同時になかなかに辛い症状であり、ついにゴンベエ・ナナシノは発狂寸前になった。そしてそんな彼の身体を案じて、母星の人々は彼に地球移住を勧めた。ゴンベエ・ナナシノのような症状には、地球で暮らすことが一番よく効くらしいのである。

 そのようなわけで宇宙船に乗り込んだゴンベエ・ナナシノは、はるばる地球にやってきた。ちなみに、着陸するやいなや宇宙船はバラバラに壊れてしまったので、今のところ帰る手段はない。


「えっ、えっ……ブルース・リー!?」

 

 ゴンベエ・ナナシノの姿を初めて見た地球人は、全員なぜかこのような反応をする。ブルース・リーとは、どうやら何らかの固有名詞であるらしい。しかもそれは非常に著名な存在であるらしく、ゴンベエ・ナナシノを前にすると地球人はみなが極度の混乱や興奮を示す。そして「違います、宇宙人です」と訂正すると、その反応は警戒と困惑に変化する。

 ゴンベエ・ナナシノが初めて地球に降り立ったとき、その土地ではなにかとてつもなく酷い災害が起きた直後のようだった。辺り一面が瓦礫の山であり、多くの人が家を失い、また大切な人を亡くし、あるいはその行方を捜し続けていた。そして彼らは、あまり住環境が良いとは言えない大型の施設に、一時的に身を寄せ合って暮らしていた。


「あっ、えっ、宇宙人……?で、名前はゴンベエ・ナナシノ?そ、そう……。あの、大丈夫?怪我とかはないの?……ああ、そりゃ良かった。なら、とにかくあそこの区画にいていいから、ね。困ったことがあったら言うんだよ」


 ひとまず地球人の密集している地点に行こうと思ってその施設を訪ねたゴンベエ・ナナシノに、入り口近くにいた中年の地球人男性はそう言った。詳しい状況は理解不能だが、施設に滞在することを許されたらしい。

 地球における生活の基盤を持たないゴンベエ・ナナシノにとっては、それは大変にありがたいことだった。完全に狂ってしまう前に、腰を落ち着けて奇妙な病を治す方法を探す必要があると感じていたからだ。

 そのようなわけで、ゴンベエ・ナナシノは広々とした板敷きの部屋の、背の低いパーテーションで区切られたささやかな空間で生活を送るようになった。

 しかしそこで数週間を過ごしても、ゴンベエ・ナナシノはこれといった手がかりを見つけることは出来なかった。次第に地球人たちの中で『ブルース・リーに激似の自称宇宙人の自称ゴンベエ・ナナシノ』として有名になりつつはあったものの、だからこそ皆に妙に距離を置かれているように感じられ、聞き込みをしようにもままならなかったからである。しかもそこにいるのは、あまりに理不尽な不幸に見舞われたばかりの人たちだったから、誰しもがどこかで心の扉を閉じているように見えた。

 そしてその間もゴンベエ・ナナシノの脳内では着々と記憶が積み上がり続けて、もはや頭が破裂しそうであった。


「ねぇ、あなた、宇宙人なんだっけ?」


 地球人を怖がらせないように板敷きの床の上でじっと膝を抱えて座っていたら、ふいにそう声をかけられた。顔を上げてみれば、酷く疲れた様子の若い女性が何かを片手に立っている。


「はい、そうです、宇宙人です。地球で言うところの、Mel25ヒアデス星団おうし座ε星を周回する惑星から来ました」

「…………そっか。あのさあ、この人のこと、どこかで見たこと無い?」


 女性はゴンベエ・ナナシノに携帯型情報端末を見せた。電話以外にも多くの機能が搭載された小型の電子機器であるが、なぜか地球人はそれを携帯電話と呼ぶ。そのディスプレイには、ビールジョッキを片手に赤ら顔で笑う男性の姿が表示されていた。

 それを見て、ゴンベエ・ナナシノは驚愕した。彼を見たことがあったからだ――それも、ゴンベエ・ナナシノの母星で。けして忘却されることのない無傷の記憶力によって、ゴンベエ・ナナシノは男の全てを覚えていた。


「ヨシムラ・ケンジ氏ですね。私の母星でパン屋を営まれている方です。七丁目の交差点の角にあるパン屋で、クリームパンが人気商品です。ヨシムラ氏は大変美味しいパンを作られます。陽気な人柄の方で、趣味は風景写真を撮ることです」

「えっ……?は?えっ……?」


 ゴンベエ・ナナシノの言葉に、女性は酷く困惑した様子を見せた。それだけでなくどこか怒っているようでもあり、ゴンベエ・ナナシノを非難するように「あなた、夫の名前、どこで知ったんですか?どこかで会ったんですか?」と聞いてくる。ゴンベエ・ナナシノは包み隠さず知っていることを話した、彼の母星のヨシムラ・ケンジ氏がどのような人物であり、一体どのように幸福に暮らしているか。

 女性はずっと怯えたような顔でそれを聞いていて、やがて何も言わずにゴンベエ・ナナシノの前から立ち去ってしまった。しかしその数日後、再びゴンベエ・ナナシノのところにやってきて、思い詰めたような顔でこう聞いてきた。


「……あなた、どうして夫の夢がいつかパン屋を開くことだったって知ってるの?夫は……その、あなたの星のヨシムラケンジさんは……元気なんですか?」


 ゴンベエ・ナナシノは再び、追加の情報も付け加えて女性にヨシムラ・ケンジ氏の話をした。女性はゴンベエ・ナナシノの隣で膝を抱え、時々涙を流しながら、黙ってそれを聞いていた。

 そしてやがてゴンベエ・ナナシノが、彼の知るヨシムラ・ケンジ氏の全てについて女性に語り終えたとき、彼は気が付いた。彼の記憶のうちいくらか、特に何十年分かの朝食の献立やその味や食感についてを、彼は綺麗さっぱり忘れることが出来ていたのだ。




「なるほど、ゴンベエさんは、病気を治すために地球に来たわけなのね」

 

 ヨシムラ・ケンジ氏の全てを話してからというもの、女性はゴンベエ・ナナシノに友好的な態度を示してくれるようになった。

 彼女の名前はアヤノ氏と言う。ゴンベエ・ナナシノが自身の身の上を打ち明け、そしてアヤノ氏に出会ったことで病を治すための手がかりをつかんだかもしれないと伝えると、アヤノ氏はゴンベエ・ナナシノを施設の一角に連れて行った。

 そこには、人名がづらづらと書き連ねられた紙や、たくさんの顔写真や、誰かの住所と氏名や、個人的なメッセージとおぼしきものが壁一面に貼られていた。アヤノ氏はそのうちの顔写真を指差して、「この人たちに、見覚えあるんじゃない?」と聞いてくる。

 ゴンベエ・ナナシノは、写真を見て驚愕した。その全てが、彼の母星で見たことのある人たちだったからだ。よく見てみると、写真だけではなく、紙に書かれた氏名のうちにも見覚えのあるものがあった。その中にはゴンベエ・ナナシノが直接関わったことのある人も、そうでない人もいたが、しかしゴンベエ・ナナシノはその彼らの細かい生活状況や人柄などについて全部を記憶していた。なにしろ、彼は何一つとして忘れることの出来ない病なのだ。


「私に話してくれたみたいに、この人たちの話、この人たちの大切な人に話してあげたら。そうしたら、また病気が良くなるかも」


 アヤノ氏のアドバイスに、ゴンベエ・ナナシノはその通りかもしれないと感じた。だから彼はそこに写真や人名を貼り出した人を一人一人探して、彼らにその人の話をした。彼らが母星で、今どのような生活を送っているか。

 彼らの反応は様々だった。大抵は、かつてのアヤノ氏と同じく、最初は戸惑うし怒りもする。そんなふざけた話は聞きたくないと、ペットボトルの水を浴びせかけてきた人もいた。けれど彼らのうちのいくらかは、時間が経つとこれもまたかつてのアヤノ氏と同じく、母星に暮らす人々の話をまた聞きたがった。特に、彼らがちゃんと元気で、幸せにやっているのかと、みなそれを知りたがっていた。

 ゴンベエ・ナナシノの母星に暮らす人たちは、一人残らずみなが健康で、幸福である。ゴンベエ・ナナシノの星ではそれは当たり前のことだったので、彼は地球に来てからというもの、地球の環境が随分と過酷であることに酷く驚いていた。


「とても幸福そうにされていました。それにお元気ですよ。私の母星で開催される、地球で言うところの市民マラソン大会に出場されたこともあります」


 ゴンベエ・ナナシノが高齢の地球人男性にそう告げると、男性はそうかい、足も良くなったんだね、よかったねぇと目に涙をいっぱいに溜めて言った。男性の弟と同じ顔と名前をしたその人物は、今ゴンベエ・ナナシノの母星で絵描きとして暮らしている。その彼の物語を余さず聞き終えると、男性はどこか気持ちが軽くなったような様子で微笑み、そしてゴンベエ・ナナシノの頭の中もまた少し軽くなった。母星に存在する歌曲のうち、特にゴンベエ・ナナシノが覚えている必要がないと感じるもの全てを、忘れることが出来たからだった。




「あっ、ブルース・リーだ!おいブルース・リー、ヌンチャク振れよ!」


 真新しく建てられた建物ばかりの商店街で、ゴンベエ・ナナシノはカフェの店先を掃いていた。すると元気な駆け足で通りががった半ズボンの小学生が、いささか攻撃的な様子でそう話しかけてくる。


「ごめんねぇ、この人見た目はこんなんのくせに、めちゃくちゃ弱いしヌンチャクも振れないのよ」

「はい、申し訳ありません」

「えっそうなの?つまんねー。でもさ、宇宙人なんでしょ?ビームとか出せないの?」

「出せません、すみません」


 あれから、数年が過ぎていた。人々はもう住環境の良くない大型の施設には暮らしておらず、それぞれが遠くへ引っ越したり、家を建てたり、以前よりは住環境のマシな急ごしらえの集合住宅に暮らしている。

 ゴンベエ・ナナシノはと言えば、アヤノ氏が商店街に開いたカフェに居候をさせてもらっていた。

 ゴンベエ・ナナシノは、あれから何百人もの人に母星に暮らす人たちの話をした。そのたびに彼は順調に不必要な記憶を忘却していったが、しかしまだ、病は完治したとは言えない。


「ふーん、まあいいよ。ブルース・リーのお陰でうちのじいちゃん元気になったし」

「それは良かったです。ちなみに、私の名前はゴンベエ・ナナシノです」

「そうだよ、だからゴンちゃんって呼びな」


 アヤノ氏がそう言うと、小学生はダセェ名前ー!と叫びながら通り過ぎていった。

 居候をさせてもらっている代わりに、ゴンベエ・ナナシノはアヤノ氏のカフェで手伝いのようなことをしている。店先を掃いたり、お客にコーヒーを運んだり、ごく簡単なことだけだが。けれどそのおかげカフェは繁盛しているのだと、アヤノ氏はいつも感謝してくれている。なんでも、アヤノ氏のカフェは宇宙人の働くカフェであると、知る人には知られているらしい。

 ゴンベエ・ナナシノから、母星に暮らす人の話を聞きたがっている人は、今では大勢いる。ゴンベエ・ナナシノが訪ねていかなくても、いつしか彼らの方からカフェを訪ねてきてくれるようになった。彼らは紙の写真や、あるいは携帯型情報端末のディスプレイに表示された人物の姿をゴンベエ・ナナシノに見せては、この人は今どうしていますか、と聞いてくる。


「お子さんが二人いらして、女の子の双子さんです。いつもお母さんがお手製のお揃いの洋服を着せて、家族で公園を散歩されるのがお好きなようです。とてもかわいらしいお子さんたちで、公園にいるリスが大好きです」


 ゴンベエ・ナナシノが中年の女性にそう告げると、女性はコーヒーカップを両手でぎゅっと握りしめながら、そう、そうなの。あの子ももう今ごろは子どもを産むような歳だもんね、そうよね。と呟いた。

 この場所に暮らす人々をかつて襲った理不尽な悲劇について、そしてそれがもたらした苦しみについて、近頃ゴンベエ・ナナシノは、以前よりはよく想像できるようになった。かつて、膨大な記憶に脳内を埋め尽くされていた頃は、ゴンベエ・ナナシノはただそれを反芻することにばかり忙しくて、彼自身の感情すら上手く感じ取る余裕も失ってしまっていたのだ。

 けれど地球でいくらか頭が軽くなって、ゴンベエ・ナナシノは感情を取り戻した。今では、母星で暮らす人たちの話を聞きたがる彼らの軋むような心の痛みが、ゴンベエ・ナナシノにもよくわかる。時々、ゴンベエ・ナナシノは、彼らとともに泣いてしまうようになった。


「ねえ、手紙か何か送れないのかしら。たった一言だけでもいいの、伝えられないのかしら」


 女性にそう聞かれて、ゴンベエ・ナナシノは申し訳ない気持ちで答える。Mel25ヒアデス星団おうし座ε星を周回する惑星はとてつもなく遠いところにあるし、今では宇宙船も壊れてしまった。だからその方法はない、と。


「……そう。でも、元気ならいいわ。元気で、幸せにしているなら、それでいい」


 女性はそう言って帰っていった。母星の路面に敷かれていた敷石の形状と数について忘れながら、ゴンベエ・ナナシノは、女性の幸福を祈る。




 冬の夜、ゴンベエ・ナナシノはアヤノ氏ととともに街の高台にある展望台に登る。おうし座は、日本の空からは冬の間しか見えない。そしてそのおうし座を構成する細々とした星群のどこかに、ゴンベエ・ナナシノの母星であるMel25ヒアデス星団おうし座ε星を周回する惑星はある。

 とはいっても、ゴンベエ・ナナシノの母星は地球から見てあまり明るくはない。超高倍率の天体望遠鏡を使ってやっと見えるかどうかというレベルの話で、つまり肉眼で空を見上げたところでその姿が見えるものでもない。けれどそれでもアヤノ氏は、おうし座のヒアデス星団のあたりを見つめる。ヒアデス星団についてはアルデバランのすぐ隣にあるので、案外わかりやすい。

 ゴンベエ・ナナシノの方はといえば、下界に煌めく夜景の方に目がいっていた。今では立派な街と呼べるものが存在するが、ゴンベエ・ナナシノが地球に降り立った頃には、そこは荒漠たる瓦礫の山だった。ゴンベエ・ナナシノが記憶を忘れることに懸命になっているうちに、いつの間にか様々な人が、様々なものを取り戻したのだと感じる。


「もう、全て元通りになったのでしょうか」


 ぼんやりと、ゴンベエ・ナナシノは呟いた。彼の母星ではそうだからだ。そもそもあまり酷いことは何も起こらない場所だが、仮に起こったとしても、いずれ全ては何事もなかったかのように元通りになる。


「……ふふ、ならないわよ。何にも元通りになんか」


 アヤノ氏はちらりとゴンベエ・ナナシノのほうをみて、呆れたように答えた。それからまた空を見つめ、一点を直視する。まるでしっかりと、その星の像を捉えているかのように。

 それから、遠くの誰かに伝えるように呟いた。


「何も元通りにはならないし、何もかも変わっていく。けどね、それでも……生きていこうとすることが、一番大事なんだと思うわ」

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はろ @Halo_0303

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