一度きりの聖夜
上田 由紀
一度きりの聖夜
あのクリスマスを超える夜は、きっともう訪れない。
だって、キミがいないんだもの。
ビルとビルの狭間にある、すっかり落葉したけやき並木を、私達は瞬きもせず見つめる。
イルミネーションの点灯を、今か今かと待ち構えていた。
PM5時。けやき並木が、一斉に黄金色の発光体と化した。私は、ハッと息を飲む。
点灯の瞬間は、さながら魔法のようだ。
12月に入ると、けやき並木は街を彩るオブジェとなる。
彼と手と絡ませ、イルミネーションを眺めながら、そぞろ歩く。
周りのカップル達も、皆一様にイルミネーションを見上げて微笑み、幸せそうだった。
そして、ここにいる誰より、自分が一番幸福に思えた。イヤ、世界中の誰よりも……。
私は幸福に身を委ね、その幸福の先にあるものを渇望していた。
いつもは気分屋の彼も、その日は終始にこやかだった。
彼はちょっと照れたような顔で、
「開けてごらん」と、リボンがかけられた小箱を私の前に差し出す。
クリスマスプレゼントにワクワクしながら、蓋を開けた。フラワーモチーフの小ぶりなピンクトパーズの指輪が、控えめな輝きを放っていた。
(先週ショーケースの前で、私がじっと見つめていた指輪を、彼は覚えていてくれたんだわ)
私は左手の薬指に指輪をはめてみた。
サイズはぴったりだった。
「似合うね」
彼が微笑む。
「ありがとう、嬉しい……」
私は左手を目の前にかざしながら、ためつすがめつ指輪を眺めた。
まだ婚約したわけではないのに、指輪は彼との将来を約束した印のように見えた。
キャンドル越しの彼の笑顔が、一段と輝きを増した。
プレゼントより彼の笑顔が嬉しくて、その笑顔をずっと見ていたいと思った。
(こんなに幸せでいいんだろうか?)
この幸せはずっと続くはずだった。
だけど……。
その後、私達に試練が訪れた。
彼は遠方への転勤が決まったのだ。
私は言いようのない不安に襲われた。
それと、会いたい時に会えない寂しさに、耐える自信がなかった。
プラットフォームで彼と向かい合い、私は涙が零れそうになるのをこらえていた。
彼は憂いを含んだ笑顔で優しく語りかけてくる。
「もう、会えないわけじゃないからね。少し距離が遠くなるだけ。毎日電話するよ」
(そう、距離が遠くなるだけ。距離に負けないわ)
私は何度も自分に言い聞かせる。
(本当は、ここから連れ去ってほしい)
それが本心だった。
彼は約束通り、毎日電話をかけてきた。
声が聞けるだけで安心したが、でもどこか物足りない。
ゴールデンウィークとお盆休みは会えたが、なかなか会えない日々が続き、不安と寂しさが容赦なく襲いかかる。
(次に会えるのは、クリスマス)
それだけが救いだった。
それなのに……。
クリスマスを1週間後に控えたある日、彼は電話で言った。
「好きな人ができた。だから、クリスマスには会えない」
私は言葉を失った。
(彼はなぜ、こんな趣味の悪い冗談を言うのだろう?)
そして、次第に恐ろしくなってきた。
これは別れ話なのだ、と。
「もう、会えないの?」
「ごめん……」
申し訳なさそうな彼の声が、現実味を失って、徐々に遠のいていった。
現実のことなのに、もしかしたら作り話なのではないか、とさえ思えた。
電話を終えた後、私は泣き崩れた。
(やっぱり、距離に負けてしまったんだわ。)
離れてさえいなかったら、きっとこんなことにはならなかったはず)
クリスマス当日、退社すると足早に駅へと向かった。職場は駅前の通り沿いにあるため、嫌でもイルミネーションが目に入る。
歩道は人々で溢れ、幸せそうなカップルも大勢いた。
私はそれらから目を逸らし、一刻も早く帰宅しようと、ひたすら歩を進めた。
(今年も彼と一緒にイルミネーションを見るはずだったのに。彼がいないクリスマスは意味がない)
辛かった。寂しかった。彼に会いたくて、どうしようもなかった。
彼への未練で頭がいっぱいになる。
すると、注意力が散漫になり、歩道の凍結した部分で踵が滑った。思い切り、尻もちをついた。あまりにも痛くて、すぐには立ち上がれない。
何だか、とてもみじめな気分だった。
腰の痛みと失恋の悲しみで、目の奥が急激に熱くなってくる。一粒涙が零れると、堰を切ったように溢れ出した。その場に座りこんだまま、涙が途切れるのを待った。
通行人が、好奇の目を向けながら通り過ぎて行く。
もう、何もかもが、どうでもいい気分だった。
それ以来、あのクリスマスを、あの聖夜を超える夜は一度もなかった。
たぶん、今後も訪れないだろう。
だって、もう彼がいないから。
彼以上の人とは巡り合えないから。
後にも先にも、あれ以上の幸福はなかった。
当時流行りのラブソングと彼が重なる。
切なくて、胸がぎゅっと締め付けられる。
それ故、忘れられない。
一生、忘れないわ……。
一度きりの聖夜 上田 由紀 @1976blue
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます