【脱サラ女性自立短編小説】「立ち飲み屋『おと』の譜(うた)~一杯の酒が紡ぐ物語~」

藍埜佑(あいのたすく)

第1章「背中を押した一杯の酒」

 東京の夜景が窓から見えるオフィスビルの十八階。大手出版社「春風出版」の編集部では、夜十時を過ぎても多くの社員が机に向かっていた。その中で、村上音(むらかみ おと)は画面に映る原稿の文字を追いながら、何度目かのため息をついた。


「村上さん、この企画書の校正終わった?」


 声の主は三十代後半の男性編集者だった。疲れのにじむ顔をしているが、目は鋭く、音を見下ろしている。


「あと少しで終わります。すみません」


 音は小さく頭を下げた。この二週間、彼女は新しい文芸誌の創刊準備で寝る間も惜しんで働いていた。もともと几帳面な性格の彼女は、細部まで丁寧に仕事をこなす編集者として評価されていたが、それは同時に仕事の量が絶えず彼女に集中する原因にもなっていた。


 二十八歳。大学卒業後すぐにこの出版社に入社し、五年目を迎えていた。最初の二年間は夢と希望に満ちていた。憧れの作家たちと仕事ができる喜びは何物にも代えがたかった。しかし今、彼女の体と心は悲鳴を上げ始めていた。


 午後十一時四十五分。ようやく仕事を終えた音は、会社を出た。冷たい二月の風が頬を刺す。明日も早朝から出社だが、このまま帰ればすぐに眠ることもできず、気持ちが落ち着かないだろう。


「少しだけ……」


 音は駅に向かう途中、小さな路地に入った。そこには「志ん」という小さな立ち飲み屋があった。週に二、三回、彼女が心を落ち着かせるために立ち寄る場所である。


 店内に入ると、心地よい温かさと、おでんの香りが彼女を包んだ。平日の遅い時間にもかかわらず、カウンターには三人の客がいた。皆、一人で黙々と酒を飲んでいる。


「いらっしゃい、お疲れさま」


 店主の志野(しの)さんが穏やかな笑顔で迎えてくれた。六十代半ばの男性だったが、その動きは若々しく、手際よく料理を作り、お酒を注いでいた。


「いつもの熱燗と、今日のおすすめを少し」


 志野さんはうなずき、すぐに音の前に熱々の酒を置いた。香りが立ち、音は目を閉じて一口飲んだ。温かい液体が喉を通り、全身に広がっていく。少しだけ、緊張が解けていくのを感じた。


 カウンター越しに志野さんの動きを見つめていると、ふと彼の生き方に思いを馳せた。毎日同じ時間に店を開け、様々な客と言葉を交わし、その日の気分に合ったお酒と料理を提供する。小さいながらも、確かな自分の居場所を持っている。


「志野さん、この店を始めたのはいつですか?」


 音は唐突に質問した。志野さんは手を止め、少し驚いた表情を見せた後、柔らかく微笑んだ。


「もう十五年になるかな。それまでは商社で働いていたんだが、五十になる頃に思ったんだ。このまま定年まで同じ生活を続けるのか、それとも残りの人生で自分のやりたいことをするのか、とね」


 志野さんは語りながら、新しい客のためにおでんを取り分けていた。動きは正確で無駄がなかった。


「怖くなかったですか? 安定した仕事を辞めるのは」


 志野さんは少し考え込むような表情をした後、笑った。


「怖かったさ。でもな、。何もしないで後悔するより、怖いと思いながらも一歩踏み出す方がいい。少なくとも俺はそう思って、ここを始めた」


 その言葉が音の胸に刺さった。彼女も毎日のように考えていたことだった。このまま編集者としてのキャリアを積み重ねていくのか、それとも何か別の道を探すのか。


 席を立つとき、音は店内を見渡した。小さな空間だが、そこに集う人々は皆、一日の終わりにほっとした表情を浮かべていた。この空間が、彼らにとっての安らぎの場所になっているのだろう。


 アパートに戻った音は、シャワーを浴びた後、ベッドに横たわった。眠気が襲ってくる中、志野さんの言葉が頭の中で繰り返された。


……」


 窓から見える月明かりの中、音はぼんやりと考えた。


「自分の居場所を作って、人と向き合って生きていく……」


 その夜、音は久しぶりに穏やかな眠りについた。


---


 次の日の昼休み、音は会社近くのカフェで同僚の河野葉月(こうの はづき)と昼食をとっていた。葉月は音と同期入社で、マンガ編集部に所属している。活発で明るい性格の彼女は、音とは対照的に仕事とプライベートのバランスをうまく取りながら、充実した日々を送っているように見えた。


「また徹夜したの? 顔色悪いよ」


 葉月は心配そうに音を見た。


「大丈夫、慣れてるから」


 音は苦笑いを浮かべたが、葉月は納得していない様子だった。


「いつか倒れるよ。私なんて、残業は週二回までって決めてるもん。それ以上は断るようにしてる」


「羨ましい……でも私の部署じゃ無理かな」


 音はサンドイッチをかじりながら答えた。本当は昨夜のことを話したかったが、まだ自分の中で整理できていなかった。


「ところで、出版社でサラリーマンしてる夢、叶った?」


 突然の葉月の質問に、音は驚いて顔を上げた。


「どうして今、そんなこと……」


「覚えてる? 大学の時、私たち将来の話したよね。あなたは本が好きで、本に関わる仕事がしたいって。でも、その時は『編集者になりたい』じゃなくて、『本に囲まれた自分の小さな店を持ちたい』って言ってたじゃない」


 葉月の言葉に、音は五年前の自分を思い出した。確かに、当時の夢は違った。古書店か小さなブックカフェを開くこと。それが彼女の夢だった。でも就職活動が始まると、周囲の流れに乗って大手企業を目指すようになり、出版社に入ったことで本来の夢は徐々に遠のいていった。


「まあ、現実はそう簡単じゃないよね」


 音はそう言って話題を変えようとしたが、葉月は諦めなかった。


「今の仕事、楽しい?」


 シンプルな質問だったが、音は答えに詰まった。


「……楽しいときもあるけど、最近は疲れの方が大きいかな」


「じゃあ、辞めれば?」


「え?」


「いつでも辞められるのよ。この世界が全てじゃないんだから」


 葉月の言葉は軽やかだったが、音の心に重く響いた。確かにいつでも辞められる。でも、その先に何があるのだろう。不安と期待が入り混じる感情が湧き上がってきた。


「実はね……」


 音は昨夜考えていたことを少しずつ話し始めた。立ち飲み屋での出来事、志野さんの言葉、そして自分の中に芽生えた小さな決意について。話せば話すほど、彼女の中で何かが明確になっていくような感覚があった。


 葉月は最初こそ驚いた表情を見せたが、音の話を最後まで聞くと、嬉しそうに笑った。


「やっと戻ってきたね、本当のあなたが」


 その言葉に、音は初めて自分の気持ちが固まったのを感じた。


---


 その週末、音は実家に帰った。東京郊外の静かな住宅街にある両親の家。父の順一(じゅんいち)は定年間近の高校教師で、母の佳代(かよ)は専業主婦だった。


 夕食後、家族三人でテーブルを囲んでいた音は、深呼吸をして切り出した。


「お父さん、お母さん、私、会社を辞めようと思ってる」


 一瞬、沈黙が流れた。


「どうして? 体調でも悪いの?」


 母が心配そうに尋ねた。音は首を横に振り、自分の考えを静かに話し始めた。昨年から感じていた仕事への疑問、自分が本当にやりたいことへの思い、そして立ち飲み屋を開きたいという新しい夢について。


 話し終えると、両親の表情は複雑だった。特に母は明らかに動揺していた。


「どうして? せっかく良い会社に入ったのに。あなたの同級生たちは、あなたが大手出版社に入ったって、みんな羨ましがってたのよ」


「お母さん、私が羨ましがられることと、私が幸せになることは違うよ」


 父はしばらく黙って音の話を聞いていたが、ようやく口を開いた。


「音、その立ち飲み屋というのは、具体的にどうするつもりなんだ? 場所は? 資金は? 経験は?」


 冷静な父の質問に、音は正直に答えた。


「まだ具体的には決まってない。でも、まずは経験を積むため、どこかで修行するつもり。貯金はある程度あるし……」


「貯金だけでは足りないだろう」


 父の言葉に、音は黙ってうなずいた。確かにそうだった。立ち飲み屋を開くには、まとまった資金が必要になる。


「反対なの?」


 音が小さな声で尋ねると、父は少し考え込むような表情をした。


「反対じゃない。ただ、もっと計画を練る必要があると思う。夢を追うのは良いことだが、準備不足では失敗する」


 母は依然として不安そうな表情を浮かべていたが、父の言葉に少し安心したようだった。音も父の言葉に励まされた気がした。反対されるかもしれないという最悪の予想は外れたのだ。


「お父さん、お母さん、ありがとう。もっとちゃんと計画を立てて、また相談させて」


 その夜、二階の自分の部屋に戻った音は、窓から見える星空を眺めながら考えた。父の言葉は正しい。もっと具体的な計画が必要だ。でも、その第一歩として、会社を辞める決意は変わらなかった。


 星明かりの中、音は小さくつぶやいた。


「私、本当に立ち飲み屋を開きたいんだ」


 その言葉には、不安と同時に、新しい人生への期待が込められていた。

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