雛祭り

和希

雛祭り

 別れよう、と切り出されたのは、一年ほど前の冬。

 街がクリスマス色に輝きはじめた十二月の夜のことだった。


「……どうしたの、急にそんなこと言い出して。なにか嫌なことでもあった?」


 たずねるわたしの唇がかすかに震えている。

 別れの予感なんて少しもなかった。

 だから、彼が突然なにを言い出したのか、すぐには理解できなかった。


「わたしが悪いの? だったら教えて。直すから」

「そういうことじゃないんだ」


 彼のきっぱりとした声が、わたしの言葉を容赦なくさえぎる。


「典子には感謝してるし、今でもずっと大切に思ってる」

「じゃあ、どうして?」

「ごめん。とにかく、そういうことだから。俺とは別れてほしい」


 彼はけっしてわたしを責めはしなかった。

 むしろ最後までわたしを傷つけまいと慎重に言葉を選んだ結果、ついになにも言葉にできなくなってしまったといったふうに、彼は淡々と結論だけを口にした。

 そして、とうとう別れの理由も告げないまま、呆然とするわたしを残し、遠くへと去ってしまった。


 彼に新しい彼女ができたと知ったのは、年が明けてまだ間もない頃のことだった。



  〇



 三月、わたしは旅に出かけた。

 誰にも気兼ねしない一人旅。伊豆への温泉旅行だった。


 あれから一年以上が経っても、わたしは元彼のことをずっと忘れられずにいた。

 どんなに忘れようとしても、ふとした時に彼の記憶がワッと頭のなかに浮かんできて、胸が苦しくなるばかりだった。


 だから、今回の旅のいちばんの目的は、元彼を忘れること。

 いつまでも胸の奥底でくすぶっている未練をきれいに洗い流すために、東京からこの地を訪れたのだった。


 海岸沿いを一人歩く。

 春の訪れを感じさせるにはまだ風が冷たく、灰色の曇り空の下にただよう海では、白い波がしぶきを上げて、寒々しい。


 わたしはふと足を止め、風になびく髪を抑えながら、しばらく海を眺めていた。

 そうしていると、心の火照りを涼風が冷ましていくかのようで、ふしぎと気持ちが落ち着いてきた。


 わたしは寄せては帰す波の音を聞きながら、ショルダーバッグからスマートフォンを取り出した。


 彼と別れてからも、何度も電話しようと思った。

 思い出の写真の数々を何度もふり返っては、涙を流した。

 メッセージを送りかけて、何度もメッセージを消した。


 そんな葛藤をくり返したスマートフォンを海に放り投げることができたのなら、どんなに気が晴れるだろう。

 そうして彼と過ごした思い出を海の遠くへと押し流して、きれいに忘れ去ることができたら、わたしは生まれ変わったような気持ちで明日を迎えらえるかもしれない。


 ……でも、そんなこと、できっこない。


 実際にスマートフォンを海に放り投げることもできなければ、彼と過ごした日々をなかったことにすることも、できはしない。


 むしろ、こうしてひとりになってみて、改めて思い知らされる――わたしはどうしようもなく彼を愛しているのだということを。


 やがて、わたしは冷たい風に身震いすると、海に背を向け、今夜泊る旅館へと歩きはじめた。



  〇



 旅館は海へと続く細い川のほとりに建っていた。

 古い歴史を感じさせる、趣のある和のたたずまいが素敵な、この辺りでは名の知れた老舗のお宿だった。


「いらっしゃいませ」


 格子戸を引き、なかに足を踏み入れると、同い年くらいの女将さんの明るい声に迎えられた。


 ようこそお越しくださいました。東京からいらしたんですか? え、どうして分かるんです? だって、とてもおきれいですから。


 わたしは軽く会釈しながら、目では、女将さんの笑顔のさらに向こう側を見つめていた。


 赤いじゅうたんの奥に、立派な雛人形が飾られていた。


 どうやら女将さんのほうでもわたしの視線に気づいたらしい。

 後ろをふり返り、ああ、とうなずいた。


「今日は雛祭りですから」


 そっか。今日は三月三日だっけ。

 ずっとちがうことを考えていたから、今日が雛祭りだってこと、すっかり忘れていた。


 わたしは高い雛壇のそばへと近づき、感心しながら雛人形たちをまじまじと見回した。


 技巧を凝らして作られた、とても美しい雛人形だった。

 けれども、けっして雅やかなだけじゃない。

 この人形たちがこれまで重ねてきた年月の重さや奥行きを感じさせる、妙な迫力をもった、古びた雛人形でもあった。


「いったい、いつ頃のものなんです?」

「大正時代のものだと聞いています」


 若い女将さんが、にこやかに教えてくれた。


「きっと何世代にもわたって受け継がれ、ここで女の子たちの健やかな成長と幸せを祝い続けてきたのでしょうね」


 どうやら嫁いできたらしい女将さんが、しみじみとした声で言う。


「そうなんですね。素敵なものを見せていただき、ありがとうございました」


 ここにきて、わたしはようやく満たされた気がした。


 今のわたしには、この古びた雛人形がちょうどよかった。


 わたしがこうして抱えている苦しみも、母や祖母がきっと経験したであろう女の苦しみも、それ以前の幾世代もの女性たちが味わったであろう苦しみも、すべてを受け止めてなお幸せを祈り祝福してくれるような、そうした凄みと温もりをもった古びた雛人形が、ちょうどよかった。


 まもなく、今晩泊る部屋に通されると、わたしは「わあっ」と歓声をあげた。


 和室の奥の窓の外で、河津桜が咲いていた。

 鮮烈なピンク色をした河津桜は、陽が沈みかけた夕暮れ時の群青色と溶け合うように、残光を受けて美しく咲き誇っていた。


 わたしは広縁の椅子に腰を下ろし、静かな川辺の初春の風景を、ただじっと見下ろしていた。


 ……ようやく決心がついた。


 わたしはふたたびスマートフォンを取り出すと、思い出がつまった写真たちのすべてを消した。

 それから、元彼への連絡先も削除した。


 たとえ、この先ちがう誰かと付き合って、結婚したとしても、きっといつかまた元彼のことを思い出す。


 その時にこみ上げてくる感情は、懐かしさだろうか、未練だろうか、それとも夫への罪悪感だろうか……。今のわたしには分からない。


 けれども、わたしの幸せが、古びた雛人形たちのように、長い年月を経て、様々な経験を積み重ねた先にあるのだとしたら――。


 元彼に対して抱く感情は、やっぱり感謝なのかもしれない。


 素敵な経験をどうもありがとう。

 きっとわたし、今よりずっといい女になって、幸せになってみせるから。


「……よしっ」


 わたしは立ち上がり、気合を入れるように、小さな声をもらした。


 今夜は美味しいものをいっぱい食べよう。

 そして、ゆっくり温泉につかろう。

 それから美容院を予約して、東京に戻ったら、気になっていたヘアスタイルに挑戦してみよう。

 メイクも変えて、新しいわたしでこれからを生きるのだ。


 胸のうちで、そんな決意を燃やしていると、ふいにスマートフォンが鳴り出した。

 画面に表示された電話番号を見て、相手が誰か、すぐに分かった。

 元彼からだった。


「…………」


 わたしはスマートフォンの電源を切った。


 そう簡単に出てやるもんか。


 わたしはそれを部屋の机に置き去りにして、夜の温泉街へと出かけて行くのだった。



【完】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雛祭り 和希 @Sikuramen_P

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ