毒婦

ねこ沢ふたよ@猫好き作家

1

 大正と元号が変わり、何が変わったか。

 何も変わらない。

 朝が来て、同じ日々を過ごすだけ。

 大正の世が、帝都に馴染んで落ち着いたころの朝こと、一台の車が、大通りを走っていた。

「乃木大将軍を白樺派の志賀直哉や芥川龍之介は冷笑したらしいな」

 新聞を見ていた太田源伍おおたげんごが新聞を見ながら中居新左なかいしんざに話掛ける。

「お前はよく話ができるね」

 新左は、源伍を睨む。

 舗装もされぬデコボコ道を山羽式蒸気気動車がガタクリガタクリと大きな音を立てて進む。その中にいる新左は、荒波の中を進む小舟に乗せられた時のように、気分が悪くて仕方ない。

 けろりとした顔で新聞を読む源伍の様が、心底信じられない。

「坊ちゃん方、おしゃべりはええが、舌ァ噛まねえように気ィつけえや」

 車夫がガハハハッと豪快に笑う。

 昨日と今日は然程変わらず、明治が大正になったって、何も変わらぬ。

 だが、武家が幅を利かせいてた徳川の御代ならば、こんな車は信じられぬことであろうから、世は少しずつ進歩しているのだろう。

 駕籠や馬は車に取って代わり、行灯はランプに取って代わる。

 新左としては、もう少し乗り心地の良い物が出て来てくれると大いに助かる。

「帰りたい」

 心の底からの言葉を、新左は吐き気に耐えながら呟く。

「はは! そう言うなって! 直に慣れる」

 源伍が陽気に笑い、新左の肩を叩く。

 高等学校の同級である源伍に頼まれて新左は車に乗ったが、源伍の頼みでなければ、とうの昔に帰っていたところだ。

 気難しく偏屈と言われる新左の唯一の友達が源伍。

 源伍には、義理がある。

 断れぬのだ。

 昨晩、天下無双と言われる剣士、河野一音が殺害された。

 そのことで新左は、級友の源伍を通して一音の父親に呼び出さたのだ。

 源伍の父が一音の父と旧知の仲であるらしく、名探偵と名高い新左の噂を聴き、呼び出したのだそうだ。

 新左からすれば、よい迷惑以外何ものでもないその噂。早く消えてほしいが、残念ながら帝都広しといえども、黒いマントの学生服の美少年が刑事が頭を抱えるような奇怪な事件を立ち所に解決するという噂は、広まりこそすれしばらくは消えそうにはなかった。

 河野の屋敷に着いた時には、新左は、源伍に支えられなければ立てないほどであった。。

 士族の河野家は、徳川様に仕え五千石の石高であったらしく、今も大きな屋敷を構えている。

 屋敷に入ると執事が出迎え、挨拶も早々に、案内されたのは、屋敷の二階にある一音の寝室だった。

 洋間の寝室に置かれた大きなベッドには、一音の遺体が眠っている。

「僕を呼び出したところで、このご遺体が蘇るわけでもなし。意味がありませんではないですか」

 新左の不平は、聞き届けられはしない。

 いつものことである。

「申し訳ございませんが、どうか倅の無念、晴らして下さいませ」

 一音の父が新左に頭を下げる。

「大丈夫ですよ、親父さん。新左の不平はいつものこと。気にする必要もありません」

「おい! 源伍!」

 遺体を前にして、わははと豪快に笑う源伍もまた、どこかおかしいと新左は思う。だが、世間ではなぜか、変わり者の新左と常識人の源伍で通っている。

 今まであったどんな難事件よりも、新左には、そのことの方がずっと不思議であった。

「まぁ、そう言いながらも、もう何か分かったんだろう?」

「まぁ……少しは」

 新左は、シーツからはみ出していた一音の手にそっと触れる。

 すでに生命活動を終えた一音の手は冷たく硬い。剣豪であった一音のゴツゴツと男らしい手は、白く繊細な新左の手とは違い荒々しい。

 生前、粗暴と言われていた一音の人柄をそのまま表したような手であった。

「ほら、ここ。少し焦げている」

「……本当だ。黒くなっている」

 左手の薬指、指の付け根が黒くなっている。

「お父上のお話では、医師は心臓発作が原因だと言ったということでしたが」

「ええ、鍛錬をよく積む者に良くあることで、心臓が運動量に耐えきれずに発作を起こすことがあるとかで。それで夜中の内に発作を起こしたのだとか」

 医師は、心臓の具合を検診して、そう診断を下したのであろう。

 心臓が突然止まって死に至った。

 そのことに新左も異論はない。だが……。

「僕の見解は少し違います。この発作は意図的に起こされた物です」

「な、なんと? しかし、息子は、一人で寝ていたのですよ? 離れたところから息子を殺す、そんなことができるのですか?」

「できますよ。いくらでも」

 新左は平然と顔色も変えずに言ってのけた。

「つまり、この一音君の死は、紛れもなく殺人であり、今も殺害した犯人は、どこかで生きているのです」

「おい、新左。本当かよ」

「そして、お父上は、その可能性を感じたから、僕を呼んだのでしょう?」

 星を見る少女のような新左の瞳が、一音の父を見つめる。

「ええ、ええ! おっしゃる通りでございます! おそらくは、息子を殺したのは、あの女」

「あの女……とは、息子さんの婚約者ですね? そして、お父上はお認めでない」

「全くです。場末のダンスホールで出会ったとかいうアバズレ女を、我が家の嫁として迎えるなど言語道断」

「しかし、一音君は、その女に入れあげていた」

 ツゥッと、白い新左の指先が、一音の薬指の黒い痕をなぞる。

「婚約指輪。遺体の指からお捨てになりましたね?」

「当然じゃ。あんな女との約束を交わした証なぞ、虫唾が走る」

「すぐに見つけて下さい。それが凶器であり、証拠となります」

 新左の言葉を聞いて、壁側で控えていた女中達が慌てて走り出す。

 クズ籠でも回収に行ったのであろう。

「指輪が凶器?」

「ああ。お前でもわかるだろう? 源伍。この焦げ痕は、指輪が凶器であることを示しているし、左手の薬指、普段粗忽な男がそこにこんな不似合いな細い指輪。これは女に渡されたんだろうよ」

「だが、電流が流れる指輪を女にハメさせられたとして、どうして寝る前に一人の時に発動したんだよ」

 新左は、答えずに源伍の左手薬指にキュッと紐を巻きつける。

「取ってみてよ」

「あ、ああ……うん」

 源伍は巻きつけられた紐を右手でつまみ、軽くねじりながら動かす。

「それだ。そのひねる動きで、電流が流れるようなスイッチになっていたのだよ」

 幼児がイタズラかなが成功した時のようなパッと明るい笑顔を新左が浮かべる。

「あ、ああ……なるほど。だから……寝る前……」

「おそらく、一音は、寝る直前に指輪を外そうとしたのだと。そして、女の思惑通りに、スイッチが発動し、電流が流れて死んでしまった」

 参考書の数式を解説するように淡々と新左は推理を進める。

「女にとっては、指輪を外す瞬間に発動しさえすれば、いつでも良かった」

「どうして?」

「だって、婚約者の前で約束の指輪を外す? 指輪を外す瞬間とは、つまり、自分と離れている時だ。それだけが女にとって重要だったのだよ」

 平然と新左が推理するのを、面白い講談を聞くかのように源伍が聞いていた。

 およそ犠牲者を前に浮世離れした二人の様子は、異質であったことだろう。

「お、おのれ……あの女!」

 真っ赤な顔で怒りに打ち震えていたのは、一音の父であった。

「必ずや見つけ出して殺してやる」

 一音の父は、新左達を残して、部屋を飛び出して行ってしまった。

 後には、遺体と新左と源伍だけが残された。

「さぁ、僕らも帰ろうか」

 新左が立ち上がる。

「女を追わないのか?」

「心底興味ない。相当な恨みの上での反抗だろう? 逃げ切れるならば、それも良し」

「だったら、親父さんを止めないのか?」

「それも興味ない。息子を殺されたんだ。そりゃ怒るだろう。追いついて復讐を果たすなら、それも良しじゃない?」

 さも当然のように、新左は言ってのける。

 それを聞いて、源伍も「確かにな」と、帰り支度を始める。

「なぁ、腹が空かないか? 帰りに牛鍋でもどうだ? 美味いらしいぞ」

 源伍にそう言われて、新左が呆れる。

「お前ね、ご遺体の前で牛鍋の話はどうかと思うぞ」

「悪いか?」

「……いや、お前は心底、僕の相棒だと思うよ」

 クスクスと新左は笑った。


 ◇ ◇◇


 後日、新聞記事によれば、女は英国行きの船に乗り逃げおおせたようだ。

 女の部屋に残っていた書き置きによれば、女の兄を、剣術の試合で不当にイジメ殺したのが一音であり、女はその恨みを晴らしたのだという。

 帝都の片隅で起こった小さな事件の顛末である。

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