揺蕩海
りりこ
揺蕩海
電車から眺める、その数分の景色が凄く好きだった。晴れであれば殊更に、休みの日であればその駅に降りてしまうほどで、かもめが頭上を自由に飛ぶのをよく見ていた。
夜には周りの音を吸収して、電車の音すら波音に飲まれて心地が良かった。雨の日も、曇りの日も、嵐の日だって、ずっとそこに存在する。
白く光る水面が、太陽や月を照らしているかのような、その果てしなく続く広さに憧れて、いつか優しく包まれることを考えるのが僕の夢であり、その瞬間唯一の幸せだった。
「近くで見ると透明なのに、遠くから見ると青く見えるの。大人になるとなんとなく理由がわかってしまって、つまらないねぇ」
彼女の長い黒髪が風にゆらゆら靡いて、夜の闇に溶けていくようだ。
ノースリーブ姿の華奢な肩をさすりながら、彼女は水平線の遥か遠くに目を細めていた。
「体を冷やしちゃうよ、帰ろう」
そういって彼女の手を引いても、帰ろうとしないこと。
いじけている彼女は意固地になることをわかっていても、風邪をひかれる方が困るから、なるべく風が当たらないように隣に座りなおした。
それでも不満げな顔をしている彼女の、機嫌をとれたことが今まで一度もない。
「小さい子供の方がきっと私よりこの景色を楽しんでるんだろうな」
こんなにも彼女が不機嫌なのは、いくら察しの悪い僕でも、なんとなくわかってる。
彼女はかまってもらえないことに酷く憤慨するので、きっとその類だ。
今日は潮の香りがするところに行きたいと、彼女が要望する旅行に行ったわけだが、納得のいく返答がもらえない、楽しくないと感じると、決まって彼女はその日は意地でも拗ねるんだ。
お昼時だってせっかくの海鮮丼を食べているのに、箸に刺身をつまみながら大きいため息をついて、こちらが悲しくなってくるくらいだ。
そんな彼女は今、目の前の景色をみて、僕はそれに付き合わされてる訳だが、まさか3時間も経つとは思わなかった。
彼女は凄くおしゃべりだ。独り言は特に酷い。職場のデスクが隣だったころなんて、パソコンに向かって永遠とエクセルの愚痴をこぼしていた。
こんなに面倒くさい彼女でも、良いところがあるんだ。なんだかんだ優しいとか、笑った時の皺が可愛いとか、ワンピースを着こなすのが上手とか、案外ありきたりなんでつまらないかも知れないが、それが当たり前に可愛いんだ。
好きになったきっかけは凄く簡単で、彼女は仕事中の独り言は主に弱音だけれど、時々ぼそっとつぶやくんだ。
例えば「大福たべたい」っていって、お昼休みになれば両手いっぱいに大福を買ってきて、たらふく食べた後に、胃に収まらなかった分を悲しそうに眺めていたり、「一人旅したい」といえば、次の週明けにはお土産を渡され、デスクにはご当地のゆるキャラのぬいぐるみが置いてあったりした。
それが面白くてつい話しかけて、彼女のその小さなお願いに付き合っていたら、交際にまで発展して、その後はずっと幸せに忙しかった。
一緒に住むようになってから、彼女のぼやきに、ご機嫌に振り回されて、それでも彼女が大好でいた。
ただ、彼女はどうだったんだろう。愉快な彼女に対し、僕は平々凡々で、花が風に大人しく揺られるように、流れにまかせて生きてきたから、退屈にさせてしまったかもしれない。
正直、結婚まで考えるほどだったけど、今思い返すと彼女を怒らせてばかりだ。
「あなたとの関係に疲れちゃった」
彼女のその言葉を聞いて、別れ話をされると思ってドキッとした。彼女が泣いていたから。
女性というものは別れ話をするときに何故か涙を流す。今までお付き合いをしてきた子たちもみんなそうだった。自分から切り出してきたのに、なぜ泣くんだろう。ずっとそう思っていた。悲しくてなのだとしたら、言わなきゃいいのに。それか泣くほど僕が嫌だったのか、わからない。
「でも、僕は君がすきだよ」
残念ながらこれしか言えなかった。別れを決意した女性はもう次の方向へと足をのばすらしい。止められるほどの力があれば引き留めたかもしれないけど、でも僕にはそれはできない。
なにより映画でしか泣いてこなかったあの彼女が泣いてるんだ、引き留めるのは無理に等しい。
「もうね、うんざりなの。好きよ、好きだけど、私だって満たされたいの。寂しい思いをするのに疲れちゃった。」
ごめんね、僕がダメなばかりに。今まで知らない間に寂しい思いをさせてたんだね。これからは絶対に同じ思いなんてさせないから、もう一度チャンスをくれないかな。
なんてつらつらと言葉を並べて、聞いてくれる相手なら何度でも言うのにね。
情けない僕は「ごめんね」とだけ言うしかなかった。
「あなたの嫌いなところ、いっぱいあるの。鈍い所もそうだし、気が利かないし、オシャレに無頓着でいつも同じ服着てるし、私が怒ると凄く悲しそうな顔をするところもそう、余計に意地を張ってしまうから」
「約束もすぐ忘れちゃうし、好きなことに夢中になると私のことなんて平気で放っとくところも大嫌い」
想像以上に傷つくことを言われてしまって僕も半ば泣きそうだが、少し怒りもわいてきた。
「君だって、君だって酷いじゃないか。先週見てたんだよ。男と待ち合わせして、その日は家に帰って来なかった。何をしてたかくらい、僕にでもわかるよ」
思わず零れてしまったが、そう、大好きな彼女にだけはされたくないことを、見てしまったんだ。
彼女の涙は、大粒の涙へと変わっていた。
長い、沈黙が続いた。
「なんで、あんなことしちゃったんだろうね」
泣きながら、そう呟いていた。
「そうだよ、酷いよ。傷ついたよ」
「今でもあなたの考えがわからないの」
「でも、君だって……同じことされたら嫌だろう……」
「寂しかった。今でも寂しいけど、あなたもきっと凄く寂しかったのね」
「寂しいよ、君のことが好きなのに」
気づいたら僕も泣いていた。
二人で肩を寄せて泣くなんて、映画以外では一度もなかったから。
もしかしたら、今までの幸せは彼女がした僕への精一杯の気遣いだったのかもしれない。
「先週、あなたを傷つけるようなことをしちゃった事、本当に後悔しているの。だけどあなただって酷いよ。謝らないわ。海よりも私が好きって、言ったじゃない」
「今だってそうさ、何より君を愛してるよ」
「そのうち月下美人を探しに出かけようって、約束したじゃない」
「覚えてるよ……ごめんね」
そう言ったってもう遅いんだ、もう、僕たちの関係は終わってしまう。僕がいくら引き留めようとも、彼女は行ってしまう。僕一人残して。
「今日の旅行だって、本当はあなたとの関係に区切りをつけるためにきたの。覚えてるでしょ?初デートの場所くらい」
「勿論さ、覚えてるよ。苦しいくらいに」
「あなたなら、ここにいると思ってきたんだから……」
彼女はそう、小さくつぶやいた。
「一人で勝手に死んじゃって……バカ」
彼女はしばらく喋るのをやめて、涙が止まるのを待っているようだった。
力いっぱい抱きしめても伝わらない、空しい慰めはどこにも響かない。
彼女は一度、大きくため息をついて、指にはめてあった錆びかけの指輪を手に取る。
二人で買った揃いの指輪を向こう側の光の粒に届くようにと、思い切り投げた。
ちゃぽんと、切なく水底に沈んで、揺れる水面を眺めもせずに、彼女は僕をおいて元の道を歩いて行った。
これでも一応、足はあるんだ。でも、君を追いかけることはもう出来ないんだね。
いつか彼女は僕を忘れて乗り越えていってしまう。
時がたてば遠くの青に染まるように。
揺蕩海 りりこ @usiro_zurizuri
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