あらび談集

猫科狸 千稀(かずき)

近くにいそうで臭そうでって話

 私は沖縄生まれ沖縄育ちのウチナーンチュである。新卒の頃は東京で住んいたこともあり、そのまま東京で暮らすのも悪くないと考えたこともあったが、なんだかんだと沖縄へ帰ってきてしまった。

 理由は多々ある。

 朝から揺られる満員電車に耐えられなかったとか、身を縮こまらせる寒さに耐えられないとか、人間の多さに耐えられなかったとか、地元の友人らと会えないのが寂しかっただとか、色々とある。

 仕事は楽しかったし、日々の生活も新鮮で飽きることは無かった。しかし、これらの細かな要因は、確実に私へ小さくないストレスを与えていた。

 中でも大きな要因は、海が見れないことだった。沖縄にいたときのように、気軽に海へ行くことができないのである。

 事あるごとに海辺で心を癒され、気力を補充する私にとってそれはとても辛く寂しいことだった。

 今でも仕事終わりには、愛車のモンキーへ跨りぶらっと海へ行くこともあるし、休みの日も暇ならビーチに行ってぼーっと過ごすことも多い。

 とにかく『海』は私にとって無くてはならない存在なのだ。

 なんてことを、海開きで子どもたちが喜んでいるニュースを見ながら考えていた。

 そしてふと思い出したのが、この話である。

 詳しい地名も伏せるし、名前も仮名であるが、この話を読んで何か思い当たる方がいても、そっとしていてほしい。



 ※



 新垣さんがこの町へ引っ越してくる前だというから、もう四、五年前の話になるだろう。


 桜も散り暖かくなり始めていた季節だったというのに、その日はどうも風の冷たく冷える夜だったそうだ。友人二人、仮にユウキとケンゴという名にしておく。新垣さんは彼らと連れ立って、夜釣りにいく予定であった。


「僕の車で友人二人を拾って、コンビニで色々と買いこんで、そのまま目的地の漁港に行くというのが、毎回決まった流れだったよ。それで、コンビニに寄ったときのことなんだけれど」


 飲み物やちょっとした食べ物を購入し、トイレに行ったユウキを待っていると


「あんたら、漁港行くっしょ?」


 と、背後から声をかけられた。


 声をかけてきたのは、眼鏡をかけた中年男性だった。失礼なのだが、その男性を見た新垣さんは顔を歪ませてしまった。


 というのも、肩まで伸びている髪はフケだらけでパサついているし、ヨレヨレのシャツを身にまとった汗だくの身体はお腹だけが異様に出ていて、なにかの本でみた『餓鬼』という妖怪によく似ていた。直接的にいうなれば、『不潔で不快』な見た目だったのだ。


 厚くて汚れたレンズの奥に見える目は視点が合わず、小刻みに揺れている。両手の指は蠢く虫のようにせわしなく動き続け、落ち着きがない。そして、臭い。汗と皮脂が混ざり、それが幾重にも塗り重ねられたような強い臭いが、男性からは放たれている。


 ヤバイ奴に絡まれたかも、どうしよう──


 一気に不安が広がる。


 隣で眉をしかめ、口を歪ませながら男性に視線を向けるケンゴの表情を見て、自分と同じように不快な気持ちを抱いていることは明らかだった。


「なぁ、行くなよ。やめとけって」


 自分達の反応など気にせず、男性は言葉を発し続けていた。


「やめとけって。やめとけって」


 恐らく普通ではないだろうこの男性が急に何をしてくるかも分からない。早くその場から離れたかったのだが、ユウキを置いていくわけにもいかない。


 どうしようか考えていると、


「おい、何してんだよ」


 ちょうどコンビニから出てきたユウキが眉をしかめ、手で鼻を抑えていた。


 目を見合わせた新垣さんとケンゴは、ユウキの手を引いて急いで車へ乗り込み、コンビ二を後にした。その間も男性は動くこともなく、ずっと何かを言い続けていた。


「なんだったんだあれ。キモ」


「めっちゃ臭すぎてヤバい。目まで痛くなったもん」


「お前らが話しているから知り合いなのかと思ったよ」


 車を走らせ、冷静になってくると、『ヤバイ奴に絡まれた』ということが可笑しく思えてきて、大笑いしながら好き勝手にあの男性のことを言い合っていた。


 楽しい釣りが始まる前に水を差された気分であったが、笑い合っているうちに嫌な気分は消え去り、目的地の漁港につく頃には釣りの話題で盛り上がっていた。車を路肩にとめ、今日の釣り場所をどこにするか、海を覗き込みながらブラブラと歩き回る。一番良さそうな場所を見つけ、早速釣りの準備に取り掛かった。


 心地よい波の音と潮の香りを感じながら、置き型ライトの光を頼りに仕掛けの準備を終え、早速針を投げ込もうというときに、新垣さんはスマホを車へ置き忘れたことに気がついた。二人に声をかけ、車へ戻る。運転席に放り出されたスマホを手に取り、急いで釣り場へ戻ると──


 ツン、とした刺激臭が鼻をついた。


 新垣さんはその臭いを知っていた。慌てて辺りを見回すが、自分達以外には誰の姿もない。不安げな顔でキョロキョロしている新垣さんへ、すでに釣りを始めていた二人が


「どうかした?」


 と不思議そうに顔を向けてくる。


 二人の様子から察するに、この臭いは自分しか感じていないのだと分かった。


 臭いのことを言おうとしたが、やめた。口にすることで、なんだか良くないことが起きそうな、そんな気がしたのだ。


「なんでもないよ。いや、今日人いないなーって思って」


 適当に返事をし、暗い海へ餌を投げ込む。何とも言えない妙な胸騒ぎを感じていたが、 釣りに集中しようと考えていた。


 ──ザァーツ、ザァーッ


 波打つ海の音までもが、妙に不気味だった。なんだか波に紛れて、人の声が聞こえてくるような──。


 臭いも声も、全ては気のせいだと自分に言い聞かせ釣りに集中するのだが、意識しないでおこうとすればするほどに、気になる。


 ──やめザァーッ、やめザァーツ


 ──やめとザァーッ、やめとザァーッ


 ──やめとけって、やめとけって


 もう釣りどころではなかった。波からは声が聞こえ、嫌な臭いは強くなっていく。


 異様な緊張と不安で身体は震え始めていた。


「……おい、なんか、臭わないか?」


 竿を動かしながら、ケンゴが言った。


「臭う?どっかに糞でもあるんじゃね」


 ユウキはリールを巻きながら笑っている。


(あぁ、あぁ、だめだ、だめだ)


 それを口に出させてはいけない気がした。知らぬふりをしておきたい、気がつかぬままでいたい。新垣さんの全身からは汗が噴き出していた。動きたいのだが、身体が震えて動けない。


 ケンゴは眉をしかめながら、矢継ぎ早に言う。


「めちゃくちゃ臭いぞ」「おれ、この臭い、知ってる」「さっき、さっきの臭いだ。これ……」「あいつの臭いだ」


 ケンゴがその言葉を口にしたとき、聞こえた。


「やめとけって。だからやめとけって」


 肩まで伸びている髪はフケだらけでパサついていて、腹だけが異様に突き出た身体にヨレヨレのシャツを身にまとった全身汗だくの中年男性が、いつの間にかケンゴの隣に、いた。


「やめとけっていったんだ。いったんだ」


 ケンゴの顔を覗き込む男性の手指は、蠢く虫のようにせわしなく動き続け、落ち着きがない。


 新垣さんとユウキは鼻がひん曲がるほどの刺激臭に包まれながら、動くことができなかった。


「な、なぁ」


 ケンゴは泣きそうな顔をしている。手に持った竿が、大きく揺れていた。


「か、かかった、かかっちゃった」


 ケンゴは男性に顔を覗き込まれながら、かかったものを釣り上げようと、リールを巻いた。


 眼鏡の奥に見える目を歪ませて、男性は笑っていた。小さく手拍子をして、ケンゴを応援しているようだった。


 リールの巻き上がる音が速まり、竿をしゃくりあげ、ケンゴは泣いていた。泣きながらリールを巻くケンゴと男性から目を離せずにいると、


 ドン!


 ユウキに背中を強く殴られた。


「おい!」


 ユウキの声を聞いて全身に電気が走り、二人で一気に車へ走った。


「あ、あ、あ、釣れる、釣れる、釣れる」


「あっ」


 ────ザボンッ


 背後から波の音ではない水音が聞こえたが、振り返らず一心不乱に走った。運転した記憶も何もない。気がついたときには朝日に照らされたコンビニの駐車場で、二人共呆けていたという。


「いや、酷いと思ったでしょう。友人を置いて逃げるなんて。でもね、あんな状況に置かれたらそうなっちゃいますって。それに、死んでるとか、そんなんじゃないですから。ケンゴは普通に家へ帰っていましたよ。歩いたのかなんなのかは分かりませんが、自分で帰ったそうです。置いていくなんてありえないって怒っていました。僕とユウキが見た中年男性のことは知らないって言うんです。釣りに集中してたらいつの間にか僕達がいなくなってたって、そう言うんですよ」


 新垣さんはケンゴと連絡を取っていない。今後も絶対に連絡を取ることはないという。


「電話が来るんですよ。ケンゴから。『釣れたから、家来てよ』って。僕とユウキに釣ったものを見せようとしてくるんです。ずっと無視していましたけれど──」


 その出来事から一か月もたたないうちに、新垣さんは急いで遠く離れたこの町へ引っ越しを決めることとなった。


 自宅近くのコンビニで、小太りの中年男性とケンゴに似た男性が人探しをしているという噂を耳にしたからだそうだ。


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