財務省の憂鬱 ~霞が関の架け橋~
セクストゥス・クサリウス・フェリクス
第1話 「理想と現実の狭間で」
「田中、これ直して」
霞が関の財務省本庁舎、予算第一課の一角。午前3時を回る深夜のオフィス。田中陽介は上司の声に顔を上げた。佐藤課長補佐は赤く充血した目で、分厚い予算書をポンと机に置いた。
「はい」
28歳の田中は睡魔と戦いながら、消費税の見積もり資料を受け取った。4月の異動で予算第一課に配属されてから、終電後の残業が日常となっていた。大学で理論として学んだ財政と、目の前の現実とのギャップに日々戸惑っていた。
「消費税収、10.8兆にしといて」佐藤は何気なく言った。
田中は眉をひそめた。「でも計算だと10.2兆が限界です」
「上からの数字だ」佐藤はため息をついた。「理由は後付けでいい」
田中は黙って頷いたが、内心では納得できなかった。東大大学院での留学経験から、欧米型の透明性のある予算編成に憧れていた彼にとって、この「数字合わせ」は苦痛だった。地方公務員の父と高校教師の母を持ち、祖父の影響で財務官僚を志した彼の理想は、「合理的な財政政策で日本を変える」ことだった。
しかし現実は違った。
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翌朝7時。田中は朝食もとらずに出社し、デスクで資料と格闘していた。
「また徹夜?」
振り返ると、同期入省の加藤恵が立っていた。総務課の彼女は、田中とは対照的に処世術に長けていた。
「まあね」田中は疲れた顔で答えた。
「はい、差し入れ」加藤は缶コーヒーを差し出した。
「サンキュー」田中は感謝の笑顔を見せた。加藤の前では妙に素直になれた。
「消費税の数字で悩んでるの?」加藤は机の端に腰掛けた。
田中は思わず愚痴をこぼした。「こんな数字合わせ、大学の先生なら失笑もののレベルだよ」
「でもここは大学じゃないわ」加藤は優しく言った。「霞が関よ」
田中は黙ってコーヒーを飲んだ。大学院時代の恩師の言葉が蘇った。「田中君、君は頭はいいが、世渡り下手だ。それが官僚として致命的になるぞ」
加藤は周囲を見回してから、声を潜めた。「ねえ、知ってる?ムーディーズが日本の格付け見通しを『ネガティブ』にするって噂」
「マジで?」田中は驚いた。国の信用力が下がれば、国債金利が上昇し、財政をさらに圧迫する。
「それより」加藤は話題を変えた。「あなたの『死蔵予算リスト』が省内で話題になってるわよ」
田中は動揺した。「あれは個人的な研究で...」
「高橋大臣が絶賛してたって」加藤は小声で続けた。「佐藤さんが秘書官に見せたらしいわ」
田中は複雑な気持ちになった。自分の作った資料が大臣の目に留まったことへの喜びと、省内のパワーゲームに巻き込まれる不安が入り混じった。
「でもね」加藤は真剣な表情になった。「小池次官は『埋蔵金』なんて言葉が大嫌いよ」
「なんで?」
「民主党政権の時、『霞が関に100兆円の埋蔵金がある』って言われて、官僚がボコボコにされたのよ」加藤は説明した。「特に財務省は『隠してた』って責められて、トラウマになってるの」
田中は初めて聞く話に驚いた。大学では教えてくれない霞が関の内部事情だった。
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「田中、ちょっと来い」
同日午後2時、佐藤課長補佐に呼ばれた田中は小会議室に向かった。部屋に入ると、初めて見る50代の男性が立っていた。
「黒田晃だ、財政研究所の所長」佐藤はそっけなく紹介した。
田中は緊張した。財政研究所は財務省と関係の深いシンクタンクで、黒田所長は財政再建論者として知られる人物だった。
「いや、素晴らしい分析だよ」黒田は握手を求めてきた。「特に特別会計の15兆円の指摘はピンポイントだ」
「ありがとうございます」田中は恐縮しつつも、内心嬉しかった。
「君みたいな若手がいると心強いよ」黒田は続けた。「実は大臣の『財政健全化プラン』の委員会に君を推薦したいんだ」
田中は驚いて佐藤の顔を見た。入省5年目の若手がそんな重要な委員会に関わるなんて前代未聞だった。
「黒田先生」佐藤は渋い顔で言った。「田中はまだ経験不足で...」
「だからこそ新しい視点が必要なんだよ」黒田は佐藤の言葉を遮った。「もちろん小池次官にも話は通してある」
佐藤の表情が一瞬固まるのを、田中は見逃さなかった。
会議室を出た後、廊下で佐藤は小声で言った。「羨ましい話だが、気をつけろよ」
「何がですか?」
「小池次官は表向きは承認したが、内心では面白くないだろうな」佐藤は意味ありげに言った。「あの人は改革派が大嫌いだ。特に『埋蔵金』なんて言葉は禁句だ」
田中は複雑な気持ちになった。自分の信念と組織の掟、どちらを優先すべきなのか。
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その日の夕方6時、田中が帰りの準備をしていると、内線電話が鳴った。
「田中です」
「小池だ。今、来れるか?」
田中は固まった。財務次官からの直接の電話なんて、考えられなかった。
「はい、すぐに」
次官室に向かう廊下で、田中は緊張で胃がキリキリ痛んだ。何が待っているのか想像もつかなかった。
小池次官の部屋は財務省の格式を象徴するように、重厚な家具と歴史を感じる資料で整然と揃えられていた。窓からは国会議事堂が見えた。
「座りなさい」
小柄だが威厳のある小池正治次官(56歳)は、田中をじっと見つめた。机上には例の資料が広げられていた。
「これを読んだよ」小池は静かに言った。
「大変失礼しました」田中は頭を下げた。
「いや、理論的には間違っていない」
田中は驚いて顔を上げた。
「君は平成30年入省だったな」小池は言った。
「はい」
「私は昭和61年入省だ」小池は窓の外を見やった。「あの頃は大蔵省が全てを仕切っていた。いわば『霞が関の宮様』だった」
小池は古い写真立てを手に取った。「それが平成になって省庁再編、大蔵省から財務省になり、金融庁も分離した。権限は縮小し、長いデフレとの戦いが始まった」
小池の声には、懐かしさと苦さが混じっていた。田中には初めて聞く、生の省史だった。
「私たちの仕事は、時代と共に変わる」小池は続けた。「だが一つだけ変わらないものがある」
「何でしょうか?」
「我々は国会の意思を実行する黒子だということだ」小池はきっぱりと言った。「派手な改革案を出すのは政治家の仕事。我々は実務を粛々とこなす」
田中は反論したくなった。「でも次官、このままでは日本の借金はどんどん膨らんで...」
「若いね」小池の声は冷たかった。「1997年、橋本政権は消費税を3%から5%に上げた。景気が悪化し、政権は崩壊した。2014年の8%増税も景気を腰折れさせた」
田中は驚いた。小池次官が具体的な政治史を語るとは思わなかった。
「増税は政治的に最も難しい決断だ」小池は続けた。「だから我々は地道に、少しずつ、改革を進めるしかない」
小池は一枚の紙を取り出した。「黒田所長の委員会の件は承認する。だが、これを守れ」
田中は紙を受け取った。そこには三つの指針が書かれていた。
1. 閣議決定済みの財政健全化目標を尊重する
2. 増税の政治的困難さを考慮する
3. 既存の予算配分の急激な変更は避ける
田中は内心落胆した。これでは実質的な改革はできない。
「これが60年の歴史を持つ財務省の知恵だ」小池の声は厳しかった。「理屈より現実だ」
「はい」田中は素直に答えたが、胸の内では反発を覚えていた。自分は何のために官僚になったのか。このまま組織に飲み込まれていくのか。
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その夜9時、田中は珍しく同期との飲み会に参加していた。霞が関各省庁の同期入省組が集まる月例会だ。
「おっ、田中じゃん」経産省の山田が声をかけた。「珍しいな、来るなんて」
「たまにはね」田中は苦笑した。
「聞いたぞ」厚労省の井上が身を乗り出した。「高橋大臣の委員会に呼ばれたって?」
「単なる事務局だよ」田中は話を小さくしたかったが、周囲の視線が熱かった。
「小池次官に直接呼び出されたんだって?」総務省の佐々木が興味津々で聞いてきた。「怖くなかった?」
「そうでもないよ」田中は平静を装ったが、内心ではまだ動揺していた。
「でもさ」山田が酒を注ぎながら言った。「『特別会計の埋蔵金』なんて言って、爆弾抱えてるらしいじゃん」
田中は驚いた。「どうしてそんなこと知ってるんだ?」
「霞が関は狭いんだよ」山田はニヤリと笑った。「特に省の上層部の動きはすぐ漏れる」
「心配すんな」井上が慰めるように言った。「でも官僚の鉄則は『出る杭は打たれる』だぞ」
田中は黙って酒を飲んだ。理想と現実の間で、自分はどう行動すべきなのか。
「ねえ田中」外務省の鈴木が隣に座った。「うちの親父、財務省OBなんだけどさ、『財政健全化』って言葉には気をつけろって言ってたよ」
「どういう意味?」
「あれは政治家の隠れ蓑なんだって」鈴木は真面目な顔で説明した。「『財政健全化のため』と言えば、どんな厳しい政策も正当化できる。でも失敗したら『官僚の試算が甘かった』と責任転嫁される」
田中は考え込んだ。そんな側面もあるのか。教科書では教えてくれないことばかりだ。
帰り際、加藤が小声で言った。「村上主計官って知ってる?」
「名前だけ」田中は正直に答えた。
「あなたの資料、彼が大臣に回したらしいわよ」加藤の表情は真剣だった。「村上さんは次の次官候補の一人。小池さんとは犬猿の仲なの」
田中は驚いた。「俺が知らないところで、何かが動いてるのか」
「霞が関は表の仕事と裏の人間関係、両方わからないと生きていけないわ」加藤は優しく微笑んだ。「でも大丈夫、私がついてるから」
その言葉に田中は少し救われた気持ちになった。しかし同時に、自分が知らず知らずのうちに、省内の権力争いに巻き込まれていることへの不安も感じていた。
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翌日昼過ぎ、田中は古い資料室で過去の資料を探していた。ここには電子化されていない貴重な文書が保管されていた。
「ここにいたか」
振り返ると、村上智明主計官が立っていた。44歳の村上は財務省トップクラスのエリートと言われる人物だ。
「村上さん...」田中は驚いた。
「田中君」村上は柔らかな笑顔を見せた。「君の資料、私が大臣に渡したんだよ」
田中は動揺した。「なぜ...」
「簡単さ」村上はコーヒーマシンを操作しながら答えた。「小池次官の『前年踏襲』路線には限界がある」
村上はコーヒーを二つ持って戻ってきた。「国の借金がGDPの260%を超える状況で、従来の手法に固執するのは危険だ。もはや財政の問題じゃない、国家存続の問題だ」
田中は考えながらコーヒーを受け取った。村上の言うことは理論的には正しい。でも小池次官の指摘する政治的現実も間違いではない。
「小池次官は...」
「昭和の人間だ」村上は小声で言った。「私は平成の、君は令和の人間だ。時代は変わる」
田中は村上の真意を測りかねた。単なる世代間対立なのか、それとも財政政策の根本的な違いなのか。
「実は、高橋大臣は次の総理候補と言われている」村上は意味ありげに言った。「彼は『財政再建の三本柱』を打ち出したい。一つは経済成長、二つは社会保障改革、そして三つ目が...」
「特別会計の見直し?」田中が続けた。
「その通り」村上は頷いた。「委員会では遠慮なく意見を言ってほしい。小池派の反発は私が引き受ける」
田中は複雑な気持ちになった。自分の理想とする改革が実現するチャンスかもしれない。でも、それは省内の権力闘争に加担することでもある。
「迷っているようだね」村上は田中の表情を見て言った。「国のために働くことと、組織の和を乱さないこと、どちらを取るべきか」
「どちらが正しいのかわかりません」田中は正直に答えた。
「それが官僚の宿命だ」村上は静かに言った。「だが最後は自分の信念を持つしかない」
資料室を出る前、村上は振り返った。「ちなみに、平成15年の『特別会計見直し検討会』の資料を見るといい。当時の改革案に参考になるものがある」
田中は頭を整理しようとした。村上は本当に改革を望んでいるのか?それとも自分は単なる駒なのか?そもそも、小池と村上、どちらの言い分が正しいのか?
資料室に一人残された田中は、平成15年度のファイルを探し出した。分厚いファイルには「特別会計運用見直し:省内限り」と書かれていた。
ページをめくると、20年前に書かれた改革案が目に入った。その内容は田中の考えとほぼ同じだった。特別会計の透明化、余剰金の活用、予算プロセスの合理化...
そして最後のページに署名があった——「小池正治」。
現在の小池次官だった。
田中は衝撃を受けた。あの伝統主義者の小池が、かつては改革派だったのか。何が彼を変えたのか。そして自分も将来、理想を捨て組織に適応していくのだろうか。
窓から国会議事堂に沈む夕日を見ながら、田中は自分の道を思案した。
(続く)
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