令嬢、交錯する

オークション会場の熱気は、まだ冷めやらない。

高価な品々が次々と舞台に上がり、仮面の下で熱い駆け引きが繰り広げられている。

けれど、もう私の興味はそこにはなかった。


虚ろなる鏡ミラージュ・ミラー》をヴァイオレットに奪われ、浅はかな抵抗すら封じられた今、この場所に長居は無用だ。

むしろ、危険でしかない。


「行くわよ、クラリス」


小声で促すと、彼女は無言で頷き、周囲に気づかれぬよう、私たちを出口へと導き始めた。

彼女が事前に確認してくれたのだろう、比較的目立たないルートを選んで進む。

さすが、私のメイド。こういう時の頼もしさは格別だ。


周囲の貴族たちは、まだ自分たちの欲望の追求に夢中だった。

彼らの囁き声が、時折耳に入ってくる。


「……あの《沈黙の書架サイレント・ストレージ》、もう少し粘ればよかったか」


「いや、あれは曰く付きすぎる。手を出さなくて正解だ」


そんな会話を後ろに残したまま、私たちは足早にホールを横切る。

できるだけ壁際に沿って、誰の視界にも長く留まらないように。


そう思いたかった。


「あらあら、もうお帰りですか? 《ブリッジフォード》様」


わざとらしいほど甘く、しかし、芯には棘を含んだ声。

振り返るまでもない。案内役のセレナ・ノワールだ。

彼女は、まるで待ち構えていたかのように、出口へと続く通路の途中で優雅に佇んでいた。


わざわざ偽名を呼ぶあたり、性格が悪い。

私がクローナ・ブリッジフォードなどという田舎貴族ではないことくらい、お見通しだと言いたいのだろう。


「ええ、少々長居をしすぎたようですわ。夜風にあたりたくなりましたの」


私も、作り物の笑顔を仮面の下に貼り付けて応じる。

ここで動揺を見せれば、この女狐の思う壺だ。


「まあ、残念ですわ。今宵のハイライトは、まさにこれからというところでしたのに」


セレナは意味ありげに目を細める。


「特に、あの美しい品を巡る駆け引き……まるで運命の糸が手繰り寄せられるような、息をのむ瞬間でしたわね」


明らかに、私とヴァイオレットの間の出来事を指している。

どこまで知っているのかは知らない。単なる勘か、それとも確かな情報があるのか。

探るような視線が、じっとりと私を絡め取る。


「オークションとは、常にドラマティックなもの。それもまた、醍醐味ですわね」


私はあくまで平静を装い、当たり障りのない返答で切り返す。

内心では、一刻も早くこの場を立ち去りたい衝動に駆られていた。


「ふふ、左様ですわね。……どうぞ、お気をつけてお帰りくださいませ。また近いうちに、この舞台でお目にかかれることを楽しみにしておりますわ」


その言葉は、社交辞令の仮面を被った、紛れもない『警告』だった。

『あなたのことは覚えている。またすぐに、会うことになるだろう』と。


背筋に冷たいものが走るのを感じながら、私は軽く会釈だけして、セレナの前を通り過ぎる。

厄介な女に目をつけられてしまった。これもヴァイオレットのせいだ。


ようやく出口へと続く廊下へ足を踏み入れた。

ほっと息をつく間もなく、だった、その時だった。


「……!」


息を呑んだのは、私か、クラリスか。

あるいは、二人同時だったかもしれない。


前方の通路から、こちらへ向かって歩いてくる人影。

それは、さっきまでオークション会場にいたはずの――ヴァイオレットだった。


今度は仮面をつけていない。

けれど、その姿は、先ほどの《47番マスク》と寸分違わぬ気配を纏っていた。

間違いない。やはり彼女だったのだ。


心臓が嫌な音を立てて跳ねる。

怒りと、裏切られたという思いと、そして説明のつかない何かが、ごちゃ混ぜになって込み上げてくる。


通路は狭い。避けて通ることはできない。

私たちは、互いに足を止め、数メートルの距離を置いて対峙する形になった。


時間が奇妙に引き伸ばされたように感じる。

彼女の紫色の瞳が、まっすぐに私を見つめていた。

オークション会場で感じた冷たさとは違う、けれど、以前のような親しみとも違う、何か計り知れない深さを湛えた色。


「……アンナ? こんな時間に、ここで何をしているの?」


先に口を開いたのは、ヴァイオレットだった。

その声は、驚くほど自然で、まるで本当に偶然ここで出会ったかのような響き。

白々しい。


「それはこちらの台詞よ、ヴァイオレット。あなたこそ、こんな怪しげな場所に何の用?」


私も、努めて冷静に、しかし皮肉を込めて問い返す。


彼女は僅かに眉を寄せたが、すぐにいつもの柔らかな笑みを浮かべた。


「少し、調べものをね。知り合いに頼まれて。……あなたの方は?」


「私は……友人に誘われて、少し覗いただけよ」


嘘と嘘が交錯する。

互いに探り合うような、張り詰めた空気。


バイオレットは、ふと私の隣に立つクラリスに視線を移した。

そして、また私へと視線を戻す。

その一瞬の動きに、何か意味があるのか。


「そう。……あまり、深入りはしない方がいいわ。こういう場所は、あなたには似合わない」


それは、心配の言葉の形を借りた、牽制?

それとも、また別の意味が?


彼女が、私に一歩近づく。

甘い、けれどどこか人工的な花の香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。

それは、彼女が普段使っている香りとは違う。今日の彼女のために用意された、別の『仮面』の一部なのだろうか。


「気をつけて、アンナ」


そう言って、彼女は私のすぐ横を通り過ぎていく。

肩が触れるか触れないかの、ぎりぎりの距離。


その瞬間、彼女の唇が微かに動いたのを、私は見逃さなかった。

声にはなっていない。けれど、その形は、まるで――


『ごめん』


――そう言っているように見えた。


……気のせい?

それとも、これも彼女の計算?


混乱する私の思考を置き去りにして、バイオレットの足音は遠ざかっていく。


「お嬢様、早く」


クラリスに促され、私はようやく足を動かした。


背後を振り返ることはしなかった。

けれど、あの紫色の瞳の残像と、声にならない唇の形が、焼き付いたように離れない。


夜の闇の中、私たちは家路を急いだ。

約束の場所には、ニナが小さな椅子にちょこんと座って待っていた。

私たちの姿を見つけると、ぱあっと顔を輝かせて駆け寄ってくる。


「お姉ちゃん! クラリスさん! 遅かったね! 何かあったの?」


その屈託のない笑顔に、ほんの少しだけ心が和む。

けれど、私の頭の中は、まだヴァイオレットのことでいっぱいだった。


「ううん、何でもないわ。ちょっと道に迷っただけ」


私は努めて明るい声で答え、ニナのボサボサの髪を優しく撫でた。

けれど、指先は微かに震えていた。


あなたは一体、何を考えているの?

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怪盗令嬢は時を遡り、奪われたすべてを取り戻す 月谷アラン @kdrtt

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